哀しい調べを背に受けながらヴェッキオ宮殿の横を通ってシニョーリア広場に出て、中央に立つブロンズの騎馬像を見上げた。偉大な祖先、コジモ1世の像だった。
 もう二度とこんな悲劇が起こらないように守ってください。
 真剣な祈りをコジモ1世に捧げた。すると手綱(たづな)を左手で握りながら剣を右手で持って鋭い眼光で辺りを睨んでいる彼の口から、不届き者は絶対に許さん、あのような悲惨な事件は二度と起こさせない、という強い決意が発せられたように感じた。
 よろしくお願いします。
 呟きを残したフローラが北へ向かう路地に進んで石畳の小さな広場に出ると、そこにひっそりと建つ家が迎えてくれた。ダンテの家。当時は生家が建っていたようだが、今はその面影はない。取り壊されてしまったからだ。ダンテが永久追放された時に破壊されたのだ。そして二度とここへ戻って来ることはなかった。

 政争に巻き込まれたダンテは二度と故郷に足を踏み入れることができなくなり、北イタリア各地を流浪するようになった。もしフィレンツェへ足を踏み入れれば、焚刑(ふんけい)(火(あぶ)りの刑)に処されることになっていたからだ。そんなダンテの願いはただ一つ、死んでベアトリーチェの元へ行くことだった。既に24歳で亡くなってしまった最愛の女性に会うためには死後の世界に行くしかなかったのだ。若くして情趣豊かなトルバドゥール(吟遊詩人)と呼ばれていたダンテはそれを詩文に表した。『饗宴』第二部で「私は固く信じ、固く断言してはばからない。現世のあと、よりましな生活に移ることを。あの世には、私の魂が恋した、かの栄えある淑女が住んでいるのだ」と切実に吐露した。更に、『神曲』においてその想いを完結させていく。地獄、煉獄と旅したダンテはベアトリーチェに出会い、天国を案内してもらうという褒美を自らに授けるのだ。彼にとってこれ以上の幸福はあり得なかったのだろう。

「今もベアトリーチェと愛し合っているの?」
 壁に(しつら)えたダンテの彫像に向かって話しかけると、彫像の口が動いたように見えた。
「そうだよ。そして、これからもずっとね」
 間違いなくダンテの声だと思った。嬉しくなって「お幸せに」と言おうとしたが、口から出てきたのは「浮気してはダメよ」だった。
 しかし彫像はにこやかな笑みを浮かべた。
「ご心配なく。ベアトリーチェ以外の女性が目に入ることはない」
 断固とした口調だったが、イタリア人男性のこのような言葉を簡単に信じるフローラではなかった。
「もし浮気をしたら月に代わってお仕置きするわよ」
 動揺するかと思ってセーラームーンのポーズで迫ったが、彫像はまったく動じずただ笑みを浮かべているように見えた。それでも「浮気しないって本当に約束できる?」と念を押すと、笑みが消えて元の表情に戻った彫像から揺るぎない声が発せられた。
「永遠の愛に誓って!」