フィレンツェ

 サンドロ・ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』と『(プリマヴェーラ)』、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』、ミケランジェロ・ブオナローティの『聖家族』などルネサンス絵画の傑作を数多く展示しているウフィツィ美術館は何事もなかったように今日も多くの観光客を惹き付けていたが、その長蛇の列を見ていると、何故か急に母から聞いた話を思い出した。

 1993年5月27日の深夜1時、美術館の裏側の通りに止めてあった自動車が爆発した。それによって歴史的価値の高い建物だけでなく、美術品や資料も損傷した。警察は時限爆弾による爆発と発表し、犯行の手口からマフィアが仕組んだ可能性が高いと報じられた。
 人的被害も大きかった。巻き込まれて死亡した人が5人で、重軽傷を負った人は50人を超えた。死亡した5人は、建築を学んでいる男子学生と古文書館の管理人一家4人だった。そのうち子供が2人いた。8歳の少女と生後2か月の妹だった。罪のない幼気(いたいけ)な子供の命が奪われた悲しみはフィレンツェ全体に広がり、それは悲しみにとどまらず怒りへと変わっていった。その憤りが市民に行動を起こさせた。フィレンツェ中の商店主や職人たちが一斉に仕事を休んで抗議デモに参加したのだ。しかし、どんなに抗議しても尊い命と破壊された歴史遺産が戻ることはなかった。永遠に失われてしまったのだ。「ヒトラーでさえこんなことはしなかったのに」という市民の嘆きがいつまでも続いたという。
 足を止めて建物を見つめていたフローラは十字を切った。鎮魂と再発防止の祈りだった。もう二度と同じことが起きないように真剣な祈りを捧げた。

 顔を上げると、ギターの調べが聞こえてきた。世界的な大ヒットになった名曲、『Time to say goodbye』だった。弾いていたのは女性で、彼女の前にはギターケースが置かれ、開いた蓋の中にCDがいくつか置かれていた。1枚を取ってタイトルを見ると、『Guitar sound of Florence…』と記されていた。奏者の名前は『Justyna Maria Janiczak』だった。「ユスティナ・マリア」と呟いてハッとした。
 マリアが弾くTime to say goodbye……、
 フローラの目から涙が零れ落ちた。それは、たった2か月しか生きられなかった赤ちゃんへの哀悼からくるものだった。
 なんて惨いことを……、
 CDを握る手が小刻みに震え始めたが、周りから拍手が起こって演奏が終わったことに気がついた。手に持っていたCDを脇に挟んで15ユーロをギターケースの中に置くと、ギタリストは口を開きかけたが、何も言わずに静かに頭を下げて『禁じられた遊び』を弾き始めた。