「ところで」
 弦はいつまでもアンドレアの愚痴に付き合うつもりはなかった。
「ジュリアードってどんなところ?」
 するとアンドレアは首をすくめて顔を揺らせた。
「練習、練習、練習、練習。ただひたすら練習」
 彼はまたゆらゆらと顔を揺らせた。練習以外のことは考えるなと教師から言われていて、それも1日8時間ではまったく足りないと言われるのだそうだ。
「『1日練習しないと1日遅れる。2日練習しないと1週間遅れる。3日練習しないと世界から相手にされなくなる』というのが教師の口癖なんだ。その通りかもしれないけど、ロボットじゃあるまいし、そんなに練習ばかりできるわけないだろう」
 抗議をするように頬を少し膨らませた。
「でも逆らうことはできない。教師は神様みたいなものだからね。嫌われたらお終いなんだ。例え理不尽なことを言われたとしても従うしかないんだよ。彼らには学内コンクールに誰を出場させるかという絶対的な権限があるからね」
「……大変な世界なんだね」
 思わず同情の口調になった弦にアンドレアは何度も頷いた。
「尋常でないことは確かだね。とびぬけた才能を持った生徒たちが世界一を目指して鎬を削っているんだから半端な世界ではないよ」
 それだけ頑張っても一流と評価されて飯が食えるようになる音楽家はごく一部でしかないのだそうだ。
「『医師になるよりよっぽど難しい』と言われているくらいなんだ」
 それを聞いて、漠然とミュージシャンになりたいと思っていた弦は穴があったら入りたいという気分になってうつむいた。
「でも、自分が選んだ道だからね。やるしかないんだよ。やるしか」
 アンドレアの口調が変わったので弦が顔を上げると、今までとは違う引き締まった表情の彼がいた。
「悪いけど、練習しなきゃいけないから帰ってくれる」
 そう言うなりサックスを手に取って音階練習を始めた。すると最初ゆっくりだったものがどんどん早くなっていって、「出て行け! 出て行け! 早く出て行け!」と言っているように聞こえてきた。「お前の相手をしている暇はない」と言っているようにも聞こえてきた。急き立てられるように部屋をあとにした弦はルチオとアンドレア夫妻に挨拶をして、小さくなっていくサックスの音を聞きながら階段を下りていった。