「遅くなってごめんなさい」
 走ってきたのかウェスタは息を切らしていたが、遅刻をまったく気にしていないフローラは「お疲れ様。土曜日だから大変だったでしょ」と労った。
 すると、ほっとしたような表情を浮かべたウェスタが大きな紙袋を差し出した。中には自信作が何種類も入っているという。紙箱の蓋をちょっと開けて覗き込んだフローラは左手の親指を立てたが、ウェスタを玄関に立たせたままだということに気づいて、「飛び切りのスパークリングを用意してるから早速始めましょ」と右の掌をリビングの方へ向けてさっと動かした。

 シンプルで清潔感漂うテーブルセッティングがウェスタを待ち構えていた。椅子を引いて彼女を座らせると、冷蔵庫からボトルを取り出してポンと栓を抜き、シャンパングラスに注いだ。
「乾杯!」
 お互いに向かってグラスを掲げて同時に口に運ぶと、フルーティーな香りと弾ける泡が鼻をくすぐり、爽やかな酸味が口の中いっぱいに広がった。
「流石にメディチは美味しいわね」
「でしょ。特にこれは最高よね」
 赤い発泡酒と呼ばれるランブルスコだった。そして、『メディチ・エルメーテ』の最高級ワイン『グラン・コンチェルト』だった。それはメディチ家の系列ファミリーがエミリア・ロマーニャ州に移り住んでワイン造りを始めたという歴史を刻んだワインだった。
「この本にはそんなことは何も書いていないんだけどね」
 サイドテーブルに置いている本を手にして、表紙をウェスタの方に向けた。
「メディチ家は1737年に断絶したことになっているものね」
 ウェスタがグラスを置いて、両手を小さく広げた。
「ところで今は4代目だっけ?」
「そう。確か……アルベルトが当主だったと思うわ」
「賞もいっぱい取っているのよね」
「そうなの。辛口ランブルスコ部門でナンバーワンを連続して取っているんだから凄いわよね。安物のイメージが強かったランブルスコをここまでにしたのだからたいしたものだわ」
 2人はボトルに向けてグラスを掲げた。
「それに、どんな料理にも合うから完璧よね」
 パルマ産プロシュートをつまんでからグラスを口に運ぶと、「ん~、最高」とため息のような声が出た。同じ土地同士だから相性抜群なのだ。
「それに、これもね」
 ウェスタはパルミジャーノ・レッジャーノとランブルスコを合わせた。
「サラミやボルチーニ茸も合うしね」
 どれもエミリア・ロマーニャ州の特産品だった。フローラはサラミを、ウェスタはボルチーニ茸を口に運んでニンマリと頬を緩めた。

 前菜を食べ終えたフローラはシャンパンクーラーを脇に寄せてテーブルの真ん中に白い大皿を置いてから台所へ紙袋を取りに行った。そして戻ってきていそいそとトングでパンを取り出すと、一つ置くたびにウェスタの説明が加わった。
「これは、ベーコンとルッコラのパニーノ」「これは、ほうれん草と生ハムソテーのパニーノ」「これは、オムレツのパニーノ」「そしてこれは、ラディッキオとリンゴのパニーノ」「最後は、ミラノ風カツレツのパニーノよ」
 5種類のパニーノが我先に食べられたがっているように見えたが、どれを優先するか選択するのは難しかった。いや、比較できるはずがなかった。
「全部半分こにする?」
「もちろん」
 ウェスタの賛意を得たフローラは台所からナイフを持ってきて、崩さないように慎重に半分に切った。そして、フローラはほうれん草と生ハムソテーを、ウェスタはベーコンとルッコラを手に取った。
「松の実?」
「そう。それにアーモンドスライスも入っているから食感がいいでしょ」
「うん。それにニンニクも効いてる」
 絶妙な食材のバランスに感心していると、「これにはレモンのスライスが入っているのよ」とウェスタが手に持ったパニーノの中を見せた。ルッコラの上にトマトのスライス、その上にベーコンスライス、その上にレモンのスライスが乗っていた。
「うゎ~、おいしそう」
 食べかけのパニーノを左手に持ち替えて右手でウェスタと同じパニーノを持つと、すぐさま「行儀悪いわよ」と(たしな)めるような声が飛んできたが、ちらっと舌を出すと、「まあ、いいけど」と許しが出た。それでフローラは大手を振ってガブっと右手で持つパニーノにかぶりつき、「う~ん、最高。ベーコンの塩気とトマトとレモンの酸味がルッコラの苦味と合わさって絶妙。なんとも言えない」と褒め笑顔(・・・・)でウェスタを見つめた。
「ありがとう」
 ちょっとはにかんだウェスタがオムレツのパニーノを手に取って中を見せてくれたが、余りにおいしそうなのでパニーノを両手に持って固まってしまった。サラダ菜の上にチョリソーや茹でたジャガイモの乱切りとトマトのざく切り、玉ねぎのみじん切り、グリーンピースが乗り、その上にふんわりとしたオムレツがかぶせてあり、ケチャップとマヨネーズを合わせたソースがかかっているのだ。今すぐ食べたいという欲求を抑えることなんてできるはずはなかった。しかし食べかけのものを置いて新しいパニーノに手を伸ばすわけにもいかないのでがんじがらめになっていると、「いいわよ」とまたしてもお許しが出た。 それを〈今夜は行儀には目を瞑ってあげる〉ということだと理解したフローラは右手に持ったベーコンとルッコラのパニーノを皿に置いて、オムレツのパニーノに手を伸ばし、切り口の断面を見て具材の確認をしたあと、ガブリといった。
「むふふふ……」
 至福の笑みを浮かべてウインクを送ると、「よかった」と職人冥利に尽きるというような表情でウェスタが顔を綻ばせた。
 3種類のパニーノを平らげたフローラはミラノ風カツレツのパニーノを手に取った。ビーフカツのガツンとした揚げ食感を思い浮かべてかぶりついたが、カツの下のサラダホウレンソウと上に乗ったトマトのざく切りが油っぽさを和らげていてしつこさをまったく感じなかったので、一気に食べ切ってしまった。
「カツと野菜のバランスが最高!」
 右手の親指を立てて誉めそやすと、ウェスタが男性が返礼するように右手を左胸に当てて顎を引くように頭を下げたので、フローラは笑いながら皿に残った最後のパニーノに手を伸ばした。ラディッキオとリンゴのパニーノだ。一気にがぶっといくと口の中でラディッキオのスパイシーな苦みとリンゴの甘酸っぱさが混じり合った。と同時に、くるみのカリッとした香ばしさとチーズのほのかな甘みが追いかけてきた。
「このチーズはゴルゴンゾーラ?」
「そう。ドルチェタイプだから、ほんのり甘くて食べやすいでしょう」
「うん、最高」
 フローラはピッカンテと呼ばれる辛みの強いタイプが苦手だったので、クリーミーなドルチェタイプを選んでくれたウェスタの心配りがなによりもありがたかった。