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 時は経ち、小麦の栽培が古代エジプトへ伝わった。それに連れてメソポタミアで考案されたパンの作り方も伝えられた。女たちはサドルカーンと呼ばれる原始的な(うす)()いた小麦粉を水でこねるのが日課になった。それを石の炉で焼いて食卓に出すと、夫も子供も我先にと手を伸ばした。それはただ焼いただけの素朴なものだったが、それで十分だった。小麦粉と水と火があればいつでも作れるパンは貴重な食料として生活に欠かせないものとなった。

 ある所で新婚ほやほやの女が水でこねた小麦粉を炉で焼いていた。立派な体格の夫にいっぱい食べさせようと次々に作っては食卓に出した。しかし、量が多すぎて全部を食べることはできなかった。そのせいで焼く前のこねた小麦粉も余ってしまった。女はどうしよかと迷ったが、捨てるのももったいないのでそのまま放置した。
 
 こねた小麦粉が一晩眠った。
 
 女は朝早く起きていつものように焼いた。ところが、信じられないことが起こった。ふっくらと焼き上がったのだ。口に入れた夫は驚き、今までと比べものにならないほどおいしいと目を丸くした。その理由を女が知ることはなかったが、ただ、こねた小麦粉を一晩置けば美味しくなることだけはわかった。女は一晩置いて焼いたものを多めに作って親や兄弟、親戚に配った。すると、美味しいと評判になった。それが近所に広まるのに時間はかからなかった。作り方を教えて欲しいと頼まれることが多くなった。肉や魚と交換して欲しいと言われるようにもなった。
 女は考えた。考え続けた。すると、突然閃いた。これは間違いなく商売になるはずだと。しかしすぐには始めなかった。亡き父の声が聞こえてきたからだ。
「急いては事を仕損じる」
 その意味を考えた。考え続けた。すると亡き母の声が聞こえてきた。
「沈黙は金」
 女は理解した。そして心に決めた。作り方は絶対に誰にも教えないと。そのことを夫に伝えると、秘密は誰にも話さないと誓ってくれた。女は商売を始めるための準備に取り掛かった。

 女が営むパン屋には朝から行列ができた。しかもその列は長くなる一方だったので、とても一人では回せなくなった。夫に手伝って欲しいと頼むと、二つ返事で引き受けてくれた。作り方もすぐに習得した。生産量は飛躍的に高まり、売上はどんどん増えていった。2人が財を成すのに時間はかからなかった。
 
 5人の子宝に恵まれた女は子供の背が自分と同じになる度に秘伝の作り方を伝授し、絶対他人には教えてはいけないと厳しく言い渡した。
 子供たちはそれを守った。代々守り続けられた。その結果、子孫の数だけ店は増え、一族は栄えた。その秘伝が空気中の酵母菌によるものだとわかったのは何千年もあとのことだった。