ルチオはイタリア北部の『チンジャ・デ・ボッティ』というコムーネ(基礎自治体)の出身だった。そこは1,300人ほどの小さな村で、今でもルチオの親族が暮らしているという。
「父がパンの製造技術をマスターしたのもその村だし、この店があるのは父の故郷のお陰だと気づいたんだよ」
 アントニオがルチオの肩に手を置くと、ルチオが嬉しそうに笑った。
「本音を言うと店名については完全に納得したわけではないんだが、息子が世界中のパンを研究してこれだけの種類を揃えることができたから、まあ、良しとしなければね」
 アントニオは休暇旅行を兼ねて年に2回、世界各地のベーカリーを訪ね歩いているのだという。
「北米やヨーロッパはもちろん、南米やアジアにも行ったよ」
 各地で食べて、作り方を教えてもらって、帰国後何度も試作を繰り返して、ここまでパンの種類を増やしたのだという。
「まだ日本には行ったことがないから行きたいと思っていたんだけど、今は大変なことになっているからね。それに」
 言葉を継ごうとした瞬間、ルチオが右手で制した。
「その話は止めよう。弦の気持ちが暗くなる」
 するとアッというように口に手を当てたアントニオはすぐに話題をパンに戻した。
「日本にはどんなパンがあるんだい?」
 弦は、あんパンやジャムパンやカレーパン、メロンパンや総菜パンなどを紹介した。
「ふ~ん、面白そうなパンだね。一度食べてみたいな」
 それがとても真剣な感じだったので、弦はイーストヴィレッジにあるベーカリーのことを教えた。
「日本人のパン職人がオーナーなので、日本のパンを色々楽しめますよ」
 今度行ってみる、とアントニオが言った時、若いカップルが店に入ってきた。するとすぐさま彼は店の主人に変身した。

「そろそろ僕も」
 ジュリアードから戻りそうもないのでお暇すると告げると、「孫が家に居る時に連絡したいから電話番号を教えて欲しい」と言ってメモとボールペンを持ってきた。名前とスマホの番号を書いて渡すと、「自分の家だと思って、いつでも遊びにおいで」と店のカードを差し出した。
 それが孫にでも言うような優しい口調だったので素直に頷いてから、ご馳走になった礼を言った。そして接客中のアントニオに目礼をして、棚に並ぶパンに微笑みかけてから店をあとにした。
 外は薄暗くなって風が冷たくなっていた。しかし、それでも心は春のように温かかった。ルチオの顔を思い浮かべると自然に笑みが零れて足取りが軽くなった。すると、別の顔が浮かんできた。
 おじいちゃん……、
 真冬のニューヨークの空に天国で見守ってくれている祖父の顔が浮かんでいた。