「もしかして」
 弦が顔を上げた時、いきなり見知らぬ老人から声をかけられた。しかしよく見ると、見覚えのある顔だった。
「あっ、あの時の……」
 消防士の孫を亡くしたあの老人だった。東日本大震災のことをとても心配してくれたあの老人だった。
「毎月来られているのですか?」
 すると老人は寂しそうに頷いた。
「私にしてやれることはそれくらいしかないからね」
 無念の表情が浮かんで顔が歪み、「代わってやれたらどんなに良かったか……」と孫よりも長く生きていることにやるせなさを感じているような口調になった。10年という月日が過ぎても老人が受けた心の傷が癒えることはないのだろう。こういう時にかける最適な言葉を探したが、弦のボキャブラリーにそんな気の利いた言葉は存在しなかった。
「大学生?」
 沈んだ空気を振り払うかのように、老人の方が話題を変えた。
「いえ、語学学校に通っています」
 何故ニューヨークに来たのかをかいつまんで説明すると、「そう。わざわざアメリカで受験するためにね~」と両親と離れて異国で一人暮らしをする若者に心を寄せるような表情になった。
「私も若い頃にここへ来たんだよ」
 イタリアからの移民で、名前は『ルチオ・ボッティ』だと言った。
「弾弦です。Play the stringsという意味です」
「お~、なんて素晴らしい名前なんだ」
 大げさに両手を広げた。顔には笑みが浮かんでいた。
「ヴァイオリンを弾くの?」
 弦は頭を振って、ギターだと答えた。
「そうか、ギターか。いいね。実は孫も音楽をやっていてね」
 殉職した孫に弟がいて、ジュリアード音楽院に通っているのだという。
「ジュリアード……」
 それは弦の憧れの学校だった。バークリーと並ぶ世界最高峰の音楽大学で、数多くの有名ミュージシャンを輩出していた。
「ヴァイオリンですか?」
「いや、サックスだよ。本当はトランペットをやりたかったらしいんだけどね」
 弦は首を傾げた。管楽器という点では同じだが、サックスとトランペットでは吹き方がまったく違うからだ。
 するとどう受け取ったのか、「よかったら孫に会ってみないかい?」と弦の腕を取り、さあ行こう、というふうに引っ張った。
「でも……」
 素性(すじょう)の知れない人の家に行くのを躊躇った弦は足を動かさなかったが、それでも「孫とは話が合うと思うよ。それに私の店も見てもらいたいからね」と心配を解き放つような柔らかな笑みを投げてきた。
「これも何かの縁だと思わないかい。同じ場所で二度も会うなんてめったにないことだからね」
 弦の腕から手を離して、おどけた顔で右の掌を進行方向に向けた。すると警戒心が一気に緩んだ。その仕草が余りにもユーモラスだったからだ。
「じゃあ、ちょっとだけ」
 ルチオは嬉しそうに頷いて、ハドソン川沿いを北に向かって歩き出した。