それは中世の時代に遡るものだった。パンの文化が一気に花開いたルネサンスの時代、フィレンツェには腕のいい職人が数多くいた。その職人をフランスに連れて行ったのがメディチ家の女性だった。政略結婚によってフランスの王家に嫁いだカテリーナがたくさんのパン職人を連れて行ったのだ。その結果、フランスでも美味しいパンが作られるようになって一気に広がり、今のフランスパンのような形が出来上がると、それは食卓になくてはならないものになった。フィレンツェのパン職人はフランスの食文化に多大な貢献をしたことになる。その意味では、フランス人はメディチ家やフィレンツェにもっと敬意を表してくれてもいいのではないかと時々考えることがある。
 もちろんメディチ家がそのような役割を果たす前からイタリアではパンがよく食べられていた。話は(かまど)が登場した古代ローマ時代に遡る。竈によってパンの製造技術が飛躍的に向上し、それまでの平べったいパンから、よりふっくらとした美味しいパンを焼けるようになった。ただ、それはとても貴重なもので、貴族など一部の人の口にしか入らなかった。それが一般庶民の口に入るようになるにはルネサンスの時代まで待たねばならなかった。パン造りを修道院が独占していたからだ。その特権を守るために農民から石臼(いしうす)を取り上げることまでしたそうだ。しかし、ルネサンス期になって経済や文化が発展して人々の暮らしが豊かになると、美味しいパンが食べたいという欲求が高まり、その需要に応えるためにパンを製造販売する店の数が増えていった。それに連れて優秀なパン職人の数が増えると共に製造技術が向上していき、どんどん美味しくなっていったパンは主食の座を射止めることになった。イタリアといえばパスタが主食のように思われているようだが実際は違う。あくまでも主食はパンなのだ。

 すべては竈から始まった。ローマ神話に登場する女神にも『竈の神』がいる。『Vesta(ウェスタ)』だ。竈から転じて家庭や結婚の守護神とも言われ、処女神とされている。
「私はパン職人になるために生まれてきたのよ」
 それがウェスタの口癖だ。製薬会社の研究職を諦めた頃と違って、最近はパン職人を天職と思っているようだ。
 確かにその通りだとフローラは思った。彼女が処女である可能性は万が一にもなかったが、竈の神であることに疑いを持つことはなかった。
 さあ、食べよう、
 頭の中からウェスタの姿を追い出して、パンを置いた皿に手を伸ばした。そして、スライスしたチャバッタを塩を混ぜたオリーブオイルに付けて口に入れた。
 ん~最高!
 色々な具材を挟んでパニーノにして食べるのを好んではいるが、朝はシンプルな食べ方が一番気に入っている。
 次は……、
 フォカッチャとグリッシーニのどちらにしようか迷いが生じたが、皿の上の生ハムがグリッシーニを指名した。
 そうなのよ。生ハムを巻いたグリッシーニは最高なの。
 独り言ちたフローラは、スティック状のグリッシーニを半分に折って生ハムを巻いて口に入れた。
 これよ、これ!
 頬を緩めて皿のオリーブを一つ摘まんで口に入れると、たまらなくワインが欲しくなった。しかし、テーブルの上にはミルクしかないので我慢するしかなかったが、それは明日のディナーで解消されることになっている。ウェスタと食事をする約束をしているのだ。
 最後はこれね、
 気を取り直して穴にオリーブが入ったフォカッチャにかぶりついた。そして、スライスしたモッツァレラチーズとトマトを口に運ぶと、余りのおいしさにため息が出た。
 う~ん、たまらない。最高のコラボレーション!
 口福至福で朝食を終えた。