あれから10年が経った。あっという間の10年だった。弦は18歳になった。『グラウンド・ゼロ』と名づけられたワールドトレードセンタービルの跡地に立つ弦は、信じられない思いで慰霊碑を見つめた。そこには多くの人が訪れており、中には家族や友人を失くした人もいるのだろう。プールの形をしたモニュメントを真剣な表情で覗き込んでいる姿が痛ましかった。

 26ドルを払って完成したばかりの『911メモリアルミュージアム』の中に入ると、地下に降りていく途中に倒壊前のビルの写真や瓦礫(がれき)に刺した星条旗、折れ曲がった鉄柱があった。行方不明者の情報提供を呼び掛ける張り紙もあった。消防車の残骸を見た時は声を出すことができなかった。梯子(はしご)の部分がぐにゃりと溶けて折れ曲がっていたからだ。それは当時の火の凄まじさを物語っており、こんな状態の中で消火活動をしていた彼らの使命感に感銘を受けると共に、それがどれほど過酷なものだったかと想像すると居たたまれなくなった。しかし、それだけでは終わらなかった。ひときわ大きな柱を見た時にはグサッと胸に刺さるような痛みに襲われた。ビルが崩れ落ちたあとも最後まで残っていた柱だった。そこに写真やメッセージや名前が貼られていた。殉職した343人の消防士たちのものだった。

 弦は目を閉じて手を合わせて冥福を祈った。すると「ありがとう」という掠れた声が耳に届いた。顔を向けると、目を潤ませている白人男性の姿が目に入った。遺族だろうか、悲痛な表情を浮かべていた。
「かわいい孫がここに眠っています」
 柱に貼り付けられた写真を指差した。消防士の制服を着た凛々(りり)しい姿が写っていた。
「優しい子でした……」
 写真の顔を撫でた。その途端、老人の目から涙が零れた。
「うぅ……」
 肩が震えていた。10年前の悪夢が蘇ってきたのか、嗚咽(おえつ)がしばらく止まらなかった。その間、弦は何もできなかった。手を差し伸べることも言葉をかけることもできなかった。立ち去ることもできず、ただ茫然と見つめていた。

 しばらくして「んん」というくぐもった声が老人の口から漏れた。なんとか気を取り直そうと努めているようだった。それから心を落ち着かせようとするかのように静かに長く息を吐いた。そして息を吸い込むと、濡れた視線を弦に向けてきた。
「日本の方ですか?」
 まだ涙声だった。弦は僅かに頷いた。
「そうですか……」
 顔中を皺だらけにした老人が視線を落とした。
「日本が大変な時なのに……、こうしてここで祈りを捧げてくれるなんて……」
 目を瞑って静かに頭を下げた。東日本大震災のことを言っているようだった。
「今でも大変なんでしょう?」
 労わるような声に頷きで返した。
「お怪我はなかったですか?」
 また頷き返すと、「原発は……」と言いかけて老人は口に右手をやり、言ってはいけないことを口にした自らの愚行を戒めるような表情になった。
 弦はゆらゆらと首を横に振ることしかできなかった。あの大震災からまだ半年しか経っていないのだ。衝撃と心痛はまだ減衰する気配を見せていなかった。
「辛いことを思い出させてしまって……」
 語尾が薄れて消えた。
 弦は強く頭を振った。老人に悪意があったわけではない。それどころか震災と原発事故の影響を心配してくれる温かな想いに溢れているのは間違いないのだ。だから、決して気を悪くしているわけではないことを伝えたかったが、それを表現する言葉が見つからなかった。弦はただ頭を下げてその場をあとにした。