――やめて。もうこれ以上は、見過ごせなくなる。だからお願い……。

 彼女の瞳から水滴がこぼれた。
 それをみた彼は、はじめて後悔を知った。


  ○


「ふぅ……。自転車さん、ここで待ってて」
『承知した、我が主!』

 自転車をこぎ終えた彼――旭祐吾(あさひゆうご)は、呼吸を整うのを待ちながら自転車に語りかけた。
 自転車はうなずいた。祐吾には届かないと知っていても。

 ここは青空の下、橋のおかげで陰ができる場所。酷暑の夏に安らぎの場所だった。
 彼は呼吸が整ったあと、読書をはじめた。
 夏になると彼はいつもこうしているのを自転車は毎日みているので、もうなれていた。

「旭くん?」
「……栗島(くりしま)先生?」

 しかし、今日は違った。
 彼に声をかける女性――栗島(りん)が現れた。
 自転車は捻るように前輪をわずかに彼らに向けた。
 彼の好物の栗モンブランよりも落ち着いた髪を肩に流し、シャツはボタンをひとつ開け、黄色のパンツはひまわりのように明るい。

「栗島先生は何してるんですか」
「近くで夏祭りがあってね。それの見回り」
「ってことは、先生は先生になれたんですね」
「うん」
「おめでとうございました」
「いえいえ」

 鈴は首を少し傾け、微笑を浮かべる。
 彼女は、祐吾が中学生の頃、教育実習で彼のクラスにやってきた。三年後の今、彼女は国語の中学教師に、彼は高校二年生になった。
 鈴はベージュのパンプスをコツリと鳴らし、彼のとなりに屈んだ。それから祐吾が持っている本を見つめて、「へぇ」と声を漏らした。

「旭くん、ちゃんと勉強してるんだね」
「一応、塾通ってるんで……」
「あれ? もう受験生?」
「いえ、受験は来年です」
「もうはじめてるんだ。はやいなぁ」
「高二は、そんなはやくないんじゃないんですかね」

 自転車は、祐吾がいつもと様子が違うことに気がついた。彼は顔を赤くして呼吸も浅い。ただ声音は低く、おさえているようだった。

「そうなの? わたしは高三からはじめたからなぁ」
「バレー部って言ってましたよね」
「そう! バレーが楽しくてね、勉強は全然してなかった……。それにしても、うれしいな」
「うれしい?」
「旭くんが私の話、覚えててくれてたこと。教育実習の先生と話したことなんて普通、忘れるじゃない?」

 鈴が笑顔で祐吾を視線を送ったのと対照的に、祐吾は表情を曇らせた。自転車はその変化を見逃さなかった。
 しかし、彼はわざとらしく微笑んだ。

「栗島先生こそ、よく僕を覚えてましたよね」
「覚えてるよ。君は少ぅし問題児だったからね」
「そう、でしたね……。すみませんでした」
「ううん。中学生はみんな、そういうものなんだと思う」

 鈴の言葉を聞いた彼の表情は晴れないまま、彼は静かに立ち上がる。

「そろそろ戻らないと」
「そっか。わたしも戻ろうかな。勉強がんばってね」
「はい。ありがとうございます」

 鈴も立ち上がり、少し沈黙の間があったあと、彼女は橋の向こうを指差しながら、

「よかったら旭くんも夜、お祭りにいったら? 花火、きれいだと思う」

 と言った。

「花火が上がる頃、僕はまだ塾だと思います。それに、ひとりでいくのはちょっと」
「そうかな? ひとりの夏祭りも楽しいよ」
「……考えておきます。じゃあ僕、いきますね」
「うん。じゃあ、また」

 自転車は主の祐吾にあわせて走り出した。
 彼は塾に戻るまでのわずかな距離を立ち漕ぎした。
 自転車は、彼が中学一年生のときからの付き合いだった。だから、わかる。
 我が主、祐吾は栗島鈴が好きだ。
 三年前と同じように。


  ○


 塾が終わり、昼間の熱がさまよう夜。
 祐吾は自転車に鍵を通した。
 カチャン。
 そして、またがった。はじめは重心を橋のほうに置いて漕ぎ出したが、そのあと、すぐ反対方向に進路を変えた。彼は家に帰ろうとしていた。

 自転車は、主の祐吾に抵抗した。
 突然重くなった自転車に、彼は驚く。

「自転車さん、どうしたの? 調子悪い?」
『我が主。嫌だ。三年前をちゃんと終わらせるべきだ。今じゃないとダメだ。あの人のいるところに行こう』

 自転車の声は彼に届かない。
 だが、そのわずかな時間が彼に考え直しの時間を与えた。

「……屋台、見るくらいならありかな。お腹空いたし」

 彼は、ふたたび橋のほうへと進路を向ける。
 生ぬるい夜風を受けながら黙って走った。
 自転車は途中どこかで置いていかれると思ったが、そうはならなかった。彼女は夏祭り会場の手前である、橋の上にいたからだ。

「栗島先生」
「……旭くん」

 彼は自転車から降りた。

「夏祭りは終わったんですか」
「ああ、うん、そろそろ帰ろうかなって。旭くんは? これから夏祭り?」
「まぁ……」
「そう。楽しんでね」

 鈴はそういって歩きだす。

「栗島先生!」
「ん?」

 祐吾が引き止めると、鈴はすぐに振り向いた。
 遠くの夏祭りに浮かぶ提灯の灯火が、ほんの少し橋のほうにも届いていた。
 淡い光を受けた彼女は、はかなげに口を引き結んでいる。彼女の瞳は透き通り、それに祐吾は後悔の念を抱く。三年前のあの日と同じ感情だった。

「三年前のこと、すみませんでした」

 祐吾は深々と頭を下げた。

「今日まで謝れなくて、すみませんでした。三年前、連絡先をしつこく聞いてすみませんでした」
「……懐かしいね」
「懐かしくないです。全然。僕は危うく先生の未来を壊すところでした」

 祐吾が中学二年生のとき、教育実習生としてやってきた栗島鈴を好きになった。
 彼はどうしても話したくて、連絡先を求めた。何度も、しつこく、求めた。
 しかし、教育実習生の彼女は教えることができなかった。教えてしまったら、先生になることができなくなってしまう。
 最後は担任が迫る彼と泣いている彼女を見つけ、ふたりを引きはがした。
 その後、ふたりは話していないどころか会ってすらいなかった。

「懐かしいよ。そんなこともあったなぁって思う」
「先生にとっては数多の過去のひとつだとしても、僕は違います。あれは後悔です。汚点です。あのとき、先生を好きになってごめんなさい。今日で会うのは最後にして、もう迷惑をかけないようにします」
「そっか……。うん、わかった。じゃあ最後に、ちょっと待って」

 と彼女は小さな鞄から手帳とペンを取り出した。
 手帳から一ページ紙をちぎりとり、何か書いている。
 そのとき、風が吹いた。
 紙が飛んでいく。
 彼女は追いかけようと数歩、足を進めた。
 彼の目も紙に奪われた。
 自転車だけが、彼女の後ろから自転車を漕ぐ人の陰を見ていた。

『――危ない!』

 自転車は鈴をかばうように、道のほうへ倒れる。
 自転車同士の擦れる音が響いた。
 イヤホンをつけたまま走行する男は、舌打ちひとつして通りすぎていった。

「危なかったね。旭くんは大丈夫?」
「はい、でも自転車さんが……。ちゃんとスタンド立てたはずなんですけど」

 自転車を立て直しながら、彼は自転車を優しくなでる。

『気にするな、我が主。ふたりが無事ならいい』

 自転車は彼に起こしてもらったあと、彼女を確認する。怪我している様子はなく、むしろ先ほどよりも笑顔があった。

「旭くんって物に話しかけるタイプ?」
「へ、変ですか」
「ううん。そういう人は物を大切にする人多いよね。素敵だと思う」

 鈴は祐吾に数歩、歩み寄る。
 自転車は彼と彼女に挟まれ、気まずくなって震えた。けれども彼の支える手が強くなるばかり。彼らの緊張が伝わってきて、さらに気まずい思いをした。

「さっきの紙は飛んでいっちゃった。書き直すね」

 鈴は新たに書き直した紙切れを、今度は彼をしっかり視界におさめて渡した。
 受け取った祐吾は目を見開き、彼女のほうを見つめ返した。

「いいんですか」
「うん。あのときはタイミングがよくなかったから……。さ、子どもは帰った帰った!」

 鈴のわざとらしい明るい声音に、祐吾もまた「は、はい」と明るく声を震わせた。

 彼は自転車に乗る。

「じゃ、じゃあ、先生、さよなら!」
「うん。……これからよろしくね」

 彼は紙を握ったまま、自転車のハンドルを握った。紙越しに伝わる熱は、夏の暑さよりもずっと強く、自転車のハンドルを焦がすのだった。

 そして、これまでよりもはやく走った。夏祭りの会場から離れ、来た道をたどるように家に向かう。自転車も今度は抵抗しなかった。

 彼女から離れて橋が見えなくなった頃、祐吾は泣き出した。

「自転車さん。僕、連絡先を教えてもらえたんだ。先生から、初恋のあの人から……。うれしいんだ。でも、うれしさと同じくらい申し訳なく思う。一度傷つけてしまったのに、先生はどうして教えてくれたんだろう。許されたとは思えないし、許されたと思うのは傲慢な気がするよ」

『それは……。本人に聞いてみるしかないと思う』

「帰ったら先生に聞いてみよう。いや、まずはお礼の連絡を……。あ、でももう夜も遅いかな」

 赤信号で、祐吾は自転車を止める。
 信号を待っている間、袖で涙を拭き、彼女からもらった連絡先をカバンにしまう。

「……そうだ。自転車さん、あのとき止まってくれてありがとう。偶然かもしれないけど勇気を持てたんだ。ありがとうね」

 彼は優しくハンドルをなでた。

『……大丈夫だ、我が主。自分が楽をするためじゃなく、あの人を思って謝り身を引いた我が主なら、きっと同じ失敗はしない。そんな主だから、あの人も受け入れてくれたのさ」

 自転車の声は、やっぱり彼には届かないので、代わりに彼がペダルを踏んだと同時にギギギと音を鳴らしてみせた。
 彼は小さく笑った。