夏が本格的にはじまる少し手前の日曜日。部屋の窓を開けて空の様子を確かめる。少し湿気を残した朝の空気を吸い込み、スマホで天気予報を確認して、まあ大丈夫だろうと窓を閉じる。今日の予報は快晴だ。よしっ。俺は小さく気合いを入れた。

 朝食はパンがいい。食卓と冷蔵庫にはおかずやサラダがたくさん準備されている。今日は日曜なので、家族みんな、好きな時間に起きて食べる。パンを一枚取ってトーストしていたら、音を聞きつけたらしく母がやって来た。
「コーヒーのおかわり」
 そう言いながら、サラダなどを手早く取り分けてくれる。朝からたくさんは食べられないが、なんとなくちょうどいい分量だ。
「今日セミナーに行ってくる」
「うん、面白いお話しだといいね」
 しばらく、ポツポツと講義の先生の話をする。母はおかわりしたコーヒーに牛乳を入れてゆっくり飲んでいた。
「ごちそうさま」
 食事が終わったら、使った食器を流しへ運ぶまでがうちのルール。時間によっては洗うこともあるが、たまに後からダメ出しされることもある。こういうのも慣れが必要らしい。
「置いといていいよ」
 母はカップにコーヒーを少し足しながら、手をふった。

 セミナー会場へは自転車で向かう。市内の中心ならバスで行けるが、今日の場所は少し離れたところにある。大きな川の近く。講義内容に沿った選択なのだろう。
 道路の前方や周囲を確認しながら、チラと目線を上げる。空には小さな雲のかたまりがところどころに浮かんでいる。これから晴れていけば薄くなっていくだろうか。地面は乾ききっていない場所もあるので、いつもよりスピードを落として進む。久しぶりに行く地域だ。だからという訳でもないが、何となく、周りの様子をうかがいながら自転車を進める。

 ようやく会場に到着し、所定の自転車置き場に停めて、カギをかけた。バッグを肩にかけて入口に向かうと、ドッと汗が噴き出してきた。風がなくなると一気に湿気につつまれる。自転車をこぎ続けて体温も上がっているので、ダブルで暑い。ハンカチを持っていてよかった。というか、タオルでもいいくらいだ。
 汗を拭きながら入口の方を見ていると、ガラスの扉越しに、受付の人たちが中で立っているのが見えた。入っていった人たちが話をして、出てくる。「あれ?」と思いつつ近づくと、お知らせのポスターにくっつけられた手書きの貼り紙が目に入った。

『講師の体調不良により、本日のセミナーは中止となりました。
 今後の詳しい情報はSNSでお知らせいたします。』

 マジか……。
 スマホを取り出して、セミナーのSNSを開く。主催者の連絡が三十分ほど前にあがっていた。
 いや、自転車に乗ってる最中だし……。
 はぁぁとため息をついて、とりあえず受付に近づく。配布物などが、何もないことだけ確認して、終わった。
 無料だったからまだマシか……。
 だけど、セミナー分の時間がまるまる空いてしまった。どうしようかと思いつつ、とりあえず自販機で水を買って立ち飲みする。一気にいろいろ考えていると、喉がすごく渇いていることも忘れてしまいそうだ。勢いよく飲んで、ふうとひと息ついていたら、受付にいた男の人が、少し手が空いたのか声をかけてきた。
「先生の研究にご興味があるんですか?」
「え、はい……」
 俺は男の人を見ながら、少しだけ考えた。
 ここにいるんだし、大丈夫な人、かな……。
「進路の選択肢になるかと思って」
「大学ですか?」
「来年、受験です」
「そうですか。先生の研究は面白いですよ。研究者も大募集中です」
 男の人は少しうれしそうに続ける。
「河川関連の著作もいくつかあるので、よければ図書館でご覧になってください。すぐ近くにありますよね、そちらに寄贈してるんです」
「そうなんですか……」
 たしか、交差点の向かいだ。
「近くに大きな橋がありますでしょう。その建設にもアドバイザーで関わったことがあって、今日もそのご縁で」
「あ、へぇ、あの橋……」
 そうなんだ、と思っている隙に、男の人は名刺くらいの大きさの紙を差し出していた。そこにはいくつか本の名前が横書きで書かれていて、二か所に手書きでチェックマークが付いている。
「私は先生のラボにいるんです。今日は突然中止になって、申し訳ありませんでした。めったに無いんですけどね、こんなこと。先生も昨日から来られていたら良かったんですけど」
 男の人は一気に話す。眉頭が少しだけ上がっているその顔は、困ったような残念なような照れ隠しのような、いろんな気持ちの笑みのように俺には見えた。
「ご興味が続くようなら、今後もいろんなところで無料セミナーを開催しますので。SNSでご確認ください」
 そう言うと男の人は小走りで受付に戻っていった。
 俺は軽く頭を下げて、もらった紙をもう一度見た。
 とりあえず、図書館に行ってみるか。
 水のペットボトルの蓋を閉め、ついている水滴をハンカチで拭ってバッグに突っ込み、自転車置き場に向かった。本も気になるが、俺の頭の中では別の言葉がぐるぐる回っていた。
『近くにある』
『大きな橋』

***

 セミナー会場の目の前の交差点を渡って、図書館の敷地に入り、自転車を停めた。入口は奥まった所にあるので、前庭のような空間が開けている。
 市内でもこの地域の図書館は他より少し広い造りになっていて、専門コーナーが充実していることで定評がある。企画展示も定期的に行っているらしく、たまに来たことはあるが、前回来たのはもうずいぶん前だ。
 入口近くの検索機で先ほどもらった書名を入力し、書棚の位置を確認する。いくつか貸出中で、今見られるのは二冊。うち一冊は持出禁止で分厚くて重いので見るのを諦め、もう一冊を借りた。図書貸出カードは市内全域で使えるから便利だ。他の図書館には別の本の在庫があるらしいので、後日近所で受け取れるように予約をしておく。
 借りた一冊は、先ほどもらった紙にチェックが入っていたうちの一つだった。ラッキー。専門書に近い分類だけど、ページ数もさほど多くなく、俺がパラっと見ても分かりやすいと思うくらいだから、読みやすそうだ。こういうのは助かる。

 本の内容は、河川の保全や堤防・護岸と橋梁などの考証や紹介のダイジェスト版。近くの川も事例として取り上げられている。俺は地形や地層にも興味があるが、全部が一度にそろう「専門」にはなかなかたどり着けない。だから、とりあえずいろんな情報を詰め込んで、知識を増やしておこうとしている。いつか、これだ、といえるものを見つけたいのだけれど。
 広い館内は窓が大きくとられていて明るい。それぞれ特殊なガラスにサンシェードの機能も埋め込まれているらしく、カーテン無しでもまぶしくない。ちょうど窓際の席が空いたので座ろうと近づいた時、ガラスの向こうの橋が視界に入ってきた。
 俺はふっと足を止めた。
 ……行くか!
 俺は借りた本をバッグに入れ、出口に向かった。途中、あ、と思って中を確認する。先に入れていたペットボトルの水滴はもう消えていた。湿り気もない。よかった。

***

 図書館の外へ出て、自転車に乗り、交差点を引き返した。その先の、川に向かってゆるく上り坂になっている車道を進む。上りきる手前で左の脇道にそれて、橋の下に向かって下っていく。こまめにブレーキをかけながら進むと、広い川と河川敷が目の前に近づいてくる。反対に、橋は俺から見ると高さを増して離れていく。
 いくつか橋脚を過ぎ、護岸整備がされた河川敷の一角に到着して、俺は自転車を降りた。少し先から向こうは緑地の整備区域になっていて、細い遊歩道で端まで行ける。小さなベンチが川に向かって設置されている先端まで――。

 緑地部分は、明るい陽を浴びた緑の草木がよく茂っている。だけど、境目の護岸ブロックのすき間からも、緑が伸びてきているのが気になる。せっかくの護岸整備に影響がなければいいけれど。最近、手入れはしているのだろうか。
 川沿いの遊歩道は長い河川敷全体の散歩道にもなっている。川の流れはやや速めだけど、橋の下はゆったりした風が通っている。俺は川に向かって階段状に下がっているコンクリートの護岸ブロックの一つに腰をおろした。大きな橋の下に日影ができていて、ちょうどいい。足元のブロックの平面はやや大きめ、高低差は小さめ、転落防止に滑り止めの突起が施されている。水の流れを見ながら、この辺りの川底は深かったかな、などと考える。
 散歩にやってくる人達は、さほど気にしないことなのだろう。俺がそういうところに興味があるから、気になるだけかもしれない。ここと似た場所だって、日本中に、世界中に、いくらでもあるのかもしれない。だけど、この川や地域を研究している人がいるのは少しうれしい。いろんな意味で、うれしい。

 もともとセミナーが終わる予定の時間には、まだ間がある。ここまで来たのだから、すぐ帰るのも何だし、久しぶりだし。
 俺は借りてきた本を開き、設計や地図みたいなページをかざして、川と橋の位置を確認する。ちょうどいい。この座った場所も、日影も、ゆるく動く風も。
 目の前に巨大な実物があるのは面白い。極小から極大までのパーツを備え、果ては空中での作業だ。ボルトを一つでも落としたら、水の流れに飲まれて消えるだろう。本を落としたら少しは風にあおられるだろうか。多少は抵抗してから水の中に沈んでいくだろうか。あの高さから落ちたら、水面はコンクリートの硬さだろうか。橋の裏側と、対岸の景色と、水流の多い流れを見ながら、そんなことをぼんやり考えていた。
 水のペットボトルをバッグから取り出して、一口飲む。俺はうつむいたり、たまに顔を上げたりしながら、本を読み進めていった。

***

 ぼやーっとした映像が浮かんでは消える。

 (ひら)けた水面に映る青空。流れは水の帯をつくって並び、薄く伸びた雲はそのすき間にゆがんで映り込む。座っている俺の視界には川と横顔。それだけで精一杯だった。

 夕暮れに並ぶ影。カバンを持ち直したタイミングで帽子がズレた。直してくれようと近づいた指が、俺のこめかみ辺りで止まる。温かい影が近づく。自分の中でいろんな音が聞こえていた気がした。

 懐中電灯の丸い光に照らされた靴。握った手に力が入ると、同じように力が返ってくる。あ、と小さい声がして手が離れようとする。バランスが崩れる。え、と自分の声がしてその手をつかみ直す。俺にその重心が移ってくる。

「あ、起きた」
 ぱちっ、と目を開けた俺の右側に誰かいる。目にうつる自分の膝には本が開かれたままだ。首が痛い。寝てしまったのか。いや、誰か。誰だ。
「え……、え?」
 顔を上げた俺の隣りで、斜め前から振り返るようにのぞき込んでいる人。女の人。知っている。
 かがみ込んで、膝にひじを置いて、手のひらにあごをのせている。川の方に重心が傾いているのか、髪が浮いて風に揺れている。その口元は機嫌がよさそうだ。
「声かけてたけど。聞こえてないよね」
「あ、あぶない、よ。もうちょっと、こっちに寄れば……」
 ふふっとその人は笑って、答えた。
「そうね。ちょっと増水してるもんね。昨日の雨かなー」
 ふっと空に視線を移し、また俺をじっと見る。
「なんか日焼けしてる? 顔、というか目の下、赤いよ?」
「ああ、チャリ、かな。今日セミナーで、中止になって……」
 うまく返せない。緊張している。なぜここに? なぜ隣りに?
 というか、あなたも赤い。日焼け……なのか?
「そっか。じゃあ偶然かぁ。まあそれしかないけど。でも、びっくりした」
 うん……。
「元気?」
 うん。そっちは――。
「Youくん、Youさん、のままでいっか」
 俺は一瞬止まって、うん、と小さく声に出して頷いた。そうだ、そう呼んでいた。
「ね、そのボトル、ぬるくなるよ、Youくん」
 え? と思ってその視線の先を、俺の左を見ると、日影に置いていた水のペットボトルが日向になっていた。その向こうに停めている自転車はしっかり日差しを浴びて光っている。俺の座っている場所も、もう少しで日向になりそうだ。そんなに寝ていたのか。朝からいろいろ動いたからか――。
 俺はペットボトルをつかみ、まだほんのり冷たさが残っている水を飲んで、日影に置いているバッグの上に転がした。

 Youさん、と口に出せないままの俺の隣りで、彼女は川に向かって座り直した。肩がほんの少し、触れて離れる。
「何か、足長くない? だいぶ伸びた?」
「うん……。三十センチ」
「うそ? そんなに?」
「うそ、二十センチくらい」
「なにー、もお!」
 二人でハハッと笑う。そうだ、俺の方が背が低かったんだ。
「弟とも会ってる? 高校は違うよね」
「最近はあんまり。でも夏休みになったら遊ぶと思う」
「そっか。家に帰る前にここ寄ったから。あ、緑地をね、散歩してきたの。ベンチがまだあって、しばらく座ってた」
 あの先端で?
「仕事は?」
「家に報告があるから、明後日まで有休もらったんだ。ちょうど橋を渡ったから、降りてきちゃった」
「車?」
 彼女は軽くうなずく。
「ちょっと草が伸びてるよね。そろそろ手入れした方がいいのに」
 同じこと考えてる……。
 ねぇ、聞いててね、と彼女は続ける。
 仕事はいろいろ覚えることがあって楽しい。専門を詳しく研究している人たちも多く、紹介やネットワークの広がりから、深堀りしたいなら勉強を勧められた。仕事の経験もあるから、それを考慮してくれる試験で行ける大学があるのだと。今の仕事はいったん離れて。
「だからちょっと遠くにね、住むから」
 どこに、とは聞かない。何を、とも。今だって、同じ市内にはいないんだ。
「家族には帰ってから話すんだ。その前に、何となく寄ったら、いた」
 俺は黙って聞きながら、呼び起こされた記憶の渦の中にいた。

 俺たちはよく一緒に緑地の先端で時間を過ごした。ベンチがあって、人があまり来ない場所。単に人に見られたくなかったし、そこで過ごす風景も気に入っていた。お互いの学校から行きやすく、時間が遅くなっても適度な灯りがあるのもよかった。
 呼び方を決めるまでは時間がかかった。苗字でも名前でも、バレてしまう。高校生はともかく、中学生の周囲は狭い。仲のいい友だちのお姉さん。弟と仲のいい友だち。近づいてきたのは彼女から。だけど無視する理由は俺にはなかった。簡単に「You」なら、もし口に出した時でも、どうにでもごまかせるだろうという思いつきだった。
 部活も塾もある。同級生との遊びもある。勉強も課外授業も講習も図書館も。それでも俺たちは時間を合わせられた。話しをして、手をつないで、ふざけて転んだり、虫に食われて足首が腫れたり。夕焼けも、流星群も、一緒に見た。
 何度かキスをした。最初は彼女から。そして、最後も彼女から。付き合うという言葉は――少なくともその頃の俺は、言ってよいのか、聞いてみてもよかったのか、分からなかった。
 友だちのお姉さんだから? それだけじゃない。
 俺に、それまでになく近づいてきた人だから? もちろん、それも大きい。
 好きだった? それは、そうだ。時間とともに気持ちは膨らんでいった。
 だけど、彼女は新しい生活の前にピリオドを打った。一年と数カ月の一緒の時間。
 離れてすぐの頃は勝手に出てくる思い出を閉じ込めていた。どうしようもなく無感情に慣れようとしていた。

「Youくんは? 進学?」
 俺はハッとして意識を戻した。気付かれないよう、しれっとバッグの中からセミナーのチラシを取り出して彼女に渡した。
「あ、この先生」
「知ってる?」
「うん、だって、ここに関係ある人でしょ」
 彼女は座っているコンクリートのブロックを指さした。
「さすが。知ってるんだ」
 だけど――。
「負けてらんない?」
 そのまま言い当てられた。ふふっと笑った顔がのぞき込む。
「そういうトコあるよね。いいよね」
 彼女は前を向いて明るく言う。
「なんで知ってるか。だって調べたもん、ずいぶん前に、ここの事いろいろ。この辺なら知ってる人にほとんど会わないし、見つかりにくいし。別に、やましいこともないんだけど――」
 俺は聞きながら勝手に照れてしまう。
「そもそも、何でこういう場所になったのかなぁって。計画や決まり事にも興味あったし」
「俺も、同じ」
「直接じゃないけどさ、行こうとしてる大学でも、この先生と関連があって。将来の研究者候補は大歓迎みたいよ」
「さっき、セミナー会場でも似たようなこと言われた」
「え? ああ、そう? んー、みんな言うからね」
 ほんの少し慌てたように見えたのは、気のせいだろうか。

「でも――」
 俺は伝えてみようと思った。
「ここがあってよかったって、思う。来るのは久しぶりだけど」
「ねえ……、前も、そう思ってた?」
「……前は、そんな考えるどころじゃなかったし」
 彼女は俺の声を聞きながら、対岸を見つめている。
「俺の人生を変えた場所」
「えー、変わった、くらいにしといてよ」
 彼女は笑う。
「そうかな」
 俺は軽く返す。
「まだまだこれからだもん。もっと変わるよ、お互い」
「そう、かな」
 俺の膝で開いたままの本に彼女の手が伸びる。本に添えていた俺の手の近くをかすめて、ページをめくっていく。
 喉の奥がキュッと痛む。もう以前のようにはさわれない。さわれるけれど、さわらない。吸い込む息が、浅くなる。
「なんかちょっと、喉が詰まっちゃうね」
 視線をあげ、川の方を向いた彼女は笑顔のまま、声が震えているように聞こえた。
 同じだ。
 一緒にいた時もよく思っていた、この感覚。
「同じだ……」
 外に表さないと相手に同じだと伝わらない。そうだな。そうだ。
 一緒にいたのと同じくらいの時間が過ぎた今、目の前にいる彼女を見て、かわいいと思う。だけど好きには種類がある。タイミングもある。俺は、今は、それが分かる気がする。
 俺はあなたのことが好きだった。そんな自分をもてあましていた。そして、あなたも、きっと。
 しばらく無言の時間が流れた。しばらく――。数分かもしれない。数十秒かもしれない。俺たちが、よし、と思うためだけの時間。

***

 ふと、彼女がつぶやいた。
「喉かわいたー」
「手ぶら?」
「向こうに車置いてる」
 じゃあ、と俺はバッグの上に転がしていたペットボトルを手に取った。彼女はゴクゴクゴクと飲んで、ありがと、とバッグの上にそっと戻す。
「さすがに座ってるのを見つけた時はびっくりしたけど。よかった、話しもできて」
 彼女はゆっくり立ち上がった。
「ねぇ、バッグのキーホルダー、お揃い? いいね」
 あ、内向きにつけていたのに、見えたのか。まあ、いいけど。
「ついでに。私も彼とこの先うまくいけばいいなってとこ。Youくんはずっとモテてるだろうけど、自分の思ってること、相手にちゃんと伝えてあげてね」
 彼いるんだ……。
「俺、真面目だし」
「知ってる。ねえ、ちゃんと触れてる?」
「うん……」
「うん、よかった」
 いい笑顔だ。俺たちは、お互いの目をじっと見て、うなずいた。
「あと、弟には……」
「言わない。てか、あいつの方から『姉ちゃん帰ってきたー』って連絡してくるかもしれないけど」
 うん、と小さく聞こえた気がした。立っている彼女を見上げた俺の目には、影と髪が顔にかかった表情がほんの少し寂しそうに見えた。いや、俺がそう見たかっただけかもしれない。
 歩きはじめた彼女に、俺は声をかけた。
「運転、気をつけて。あと大学も、がんばって」
「お互いさま。ありがとね、ヨウくん」
 ほんの少しだけこちらを振り返り、手をあげて、じゃあね、と行ってしまった。
 じゃあね、Youさん。
「じゃあね、リヨさん」
 もう届かないくらい小さな声で、彼女の名前を口にした。

***

 日差しが強くなってきた。頭上の橋の影は、座っている位置のギリギリまで近づいている。俺は急いで区切りのいいところまで手元の本を読み、貸出期限が印刷されている紙片をしおり代わりに挟んで、バッグに入れた。
 ペットボトルを取り、残りを勢いよく飲み干した。常温に近づいてぬるくなった水が飲み口からあふれ、口元からあごへと流れしたたる。手のひらで口の下の水を拭う。その手で首の後ろをパシャった。緑地区域への遊歩道、先端への道が目に入る。
 俺は川に向き直り、階段状のコンクリートの護岸ブロックをゆっくり降りた。その先の水との境ギリギリまで、腰を落として進んでいった。
 水面に向けて手をのばす。水には届かないが、指の間を風がぬけていく。もう一方の手ものばしてみる。つかめない水も風も、遠くへ遠くへと過ぎていく。
「よし、帰ろ!」
 わざと声に出して、両手を引き上げる。バッグを取って、歩道へ戻り、自転車にまたがった。ずっと日を浴びていたサドルやハンドルに熱がこもっている。そのままスマホを取り出すと、メッセージが二件入っていた。

『何時に帰ってくるんだっけ? お昼食べに出るけど、一緒に行く?』
『セミナー楽しかったかな。あとで時間あれば、連絡ください』

 スマホをバッグに戻し、自転車をこぎはじめる。とりあえず、まずは近くまで戻ろう。地面も車道もすっかり乾いていて運転しやすい。しばらく川風を受けていたからか、アスファルトや排気ガスのぬるく熱い風が体にまとわりつくように感じるのは、仕方ない。
 どちらから返事をしようか。一回、家に帰ろうか。
 駅前なら、このまま寄れるか。だけど――。
 これ、止まったらまた大汗だな。
 何だか可笑(おか)しい。どちらからなんて、もう決まっている。お昼の時間なら、なおさらちょうどいい。誘ってみるか。
 俺はペダルを強く踏み込んだ。キーホルダーがバッグの中で揺れる。肩と首を過ぎる風が、ほんの少しだけ涼しく感じた。