そのまま、暫くトイレに閉じ籠もっていたが、他の女子生徒たちも頻繁に使うトイレに何時間も居られるわけがなく、私は全てを諦めて便器から立ち上がった。
トイレから出ると行く宛の無い私は、赤い縄に引っ張られるようにしてふらふらと歩く。そして、気付けばいつものように保健室へと向かって足を運んでいた。
体育祭中の体育委員の仕事はもう終わったし、他に出る競技もない。そんなどうでも良い事を、言い訳のように考えながら保健室に向かう。
誰も居ない校舎に入って、静かな廊下を歩く。保健室のドアを開けようと手を掛けると、どうやら鍵が掛かっているようで全然動かない。
そういえば、体育祭の最中は競技中に怪我をした生徒や気分の悪くなった生徒の為に、保健室の先生は常にグラウンドにある救護テントで待機していた筈だ。
この無人の保健室にやって来る人間はそうそう居ない為、施錠されているのだろう。
なんだか今日は何もかもが上手くいかない気がして、酷く落ち込む。鍵の閉まったドアの前でしゃがみ込み、抱えた膝に顔を押し付けて項垂れた。
溢れてきそうなものを堰き止めるように、強く目を瞑る。目の前に広がった暗闇に、思考さえも呑まれていくように深く沈んだ。
何やっているんだろうな、私。
こんな腹で、私はこの先も生きていけるんだろうか。皆と同じ事が出来なくて、普通の生活がどんどん難しいものになっていく。
私だって引っ掛かりたくて、縄に引っ掛かったんじゃない。そもそも体育祭なんてやりたくないし、体育委員にもなりたくなかった。毎日学校なんて行きたくもないし、さっさと辞めてしまいたいに決まってる。
それより何より、こんな私になりたくてなっているわけじゃない。全部全部、私が望んでなんかいないのに。いつだって、この世界は私の望まない事ばかりで成り立っている。
「…早く、楽になりたい。」
いつかの放課後、結川が言っていた言葉をまた無意識に呟く。願っている事はただそれだけなのに、なんでこんなにも難しいのだろう。
「…あれ、三上さん?」
突然真っ暗な世界で聞こえた声に、驚いて顔を上げる。ずっと瞼を閉じていたせいか目の前がチカチカした。よく見ると、薄暗い廊下に一人立っていたのは結川だった。
「どうしたの?体調悪い?」
こんな所で一人しゃがみ込んでいる私を、結川は心配そうに伺ってくる。結川の方こそ、こんな所に何をしに来たんだと視線を向けたところで「あっ、」と思った。
「…転んだの?」
体操着姿の結川の膝には、大きなガーゼが貼られていて少量の血滲んでいる。その様子を見るに派手に転びでもしたのだろうか、随分と痛々しかった。
「あー、リレーで転んじゃってさ。お陰でチーム最下位!」
結川は何でも無いように、ヘラヘラと笑いながらそう言った。けれど、その顔色は若干青白く見えて、何処か無理をしているじゃないかとも思う。
そんな結川を見ながら、しゃがみ込んでいた足に力を入れて立ち上がる。少々、足が痺れた。
「一応、救護テントで手当てしてもらったんだけど、先生に保健室に行きたいって言ったら鍵貸してくれたんだ。」
手に持っていた鍵をチャリンッと鳴らすと、結川は得意気に保健室の鍵を開けた。ガラッと開いたドアに、私は重たかった心が少し軽くなるのを感じる。
結川は「いてて、」と怪我した足を引き摺りながら、閉め切っていた保健室の窓を開けた。私もそれを真似するように、反対側の窓を開ける。
少しの風と共に室内に入り込んできた蝉の声に、本格的な夏の訪れを感じた。七日で消えゆく命に抗っているかのように力強い鳴き声は、どうしてか私の胸を打つ。
耳障りな人の声なんかよりも、よっぽど聞いていられると思った。
「なんか、蝉の声ってさ『死ね』って言ってるように聴こえない?」
「え、」
唐突な結川の発言に顔を向ければ、結川は窓の外に視線を向けたまま、瞳を細めてヘラリと笑みを浮かべていた。
窓の外から聞こえる蝉の声に耳をすませば、確かに結川の言った通り「シネシネシネシネ」と言ってるように聞えてくる。
「…本当だ、聞こえる。」
一度そうだと思ってしまうと、どうしても「死ね」以外には聞こえなくて、蝉がひたすらに「シネシネシネシネ」言っていると思ったらなんだか笑えてきた。
「なんか、死ねって言われてるみたい。」
「ねー。」
まるで呪いのように浴びせられる蝉の声を聴きながら、結川と二人ただただ窓の外を見ていた。その時間が今日一日の中で、一番有意義なものだと思った。
夏風が室内の空気を循環して、一層呼吸がしやすくなる。頭に巻き付けていた黄色を鉢巻を取れば、固まっていた髪をほぐすように風がさらりと撫でていく。
「結川くんも、蝉の声聞いてそんな風に思うんだね。」
「えー、だって聞こえるじゃん!」
結川の態とらしく弾むような声が保健室に響く。そして、急に静かになったかと思うと、今度は随分と真面目な表情になって結川は慎重に言葉を発し始めた。
「俺さ、どんな風に見られてるか分かんないけど、すっごい根暗な奴なんだよ。」
「…そうなの?」
結川の言葉が意外というよりかは、結川と関わるようになってからはその「根暗な奴」という表現にそこまで驚きはなく、やけにしっくりと来るような気もする。
田所たちスクールカースト上位集団に都合の良い存在と思われても、それを分かっていながら、まるで道化のように振る舞う結川には健全な明るさを感じない。
それにきっと暗い奴じゃなかったら、蝉の声が「死ね」と言っているようにはとても聞こえないだろう。
「うん、いつも暗い事ばっかり考えてる。…昨日の俺見て分かったでしょ?」
秘密を共有するような結川の言葉に、思わず息を呑む。そして思い出されるのは、昨日の下校中での出来事だ。結川の知り合いだと思われる他校生が、結川を馬鹿にしたように絡んできたのを頭に思い浮かべて、再びその時の苛立ちが蘇った。
「俺、中学の頃アイツらいじめられててさ、どうしょうもなかったんだよね。」
「…そっか。」
昨日の他校生たちとの様子を見るにもしかしたらと、少し想像はしていた。けれど、やっぱり本人の口から聞くその事実はショックだ。
「だから俺、高校生になったらもういじめられないように、自分を変えたかったんだけど…」
結川は今だに窓の外を見ていて、私と視線が合うことは無い。目の前の外の景色よりも遥か遠くを見ているようなその横顔が、酷く疲れているように見えた。
「なんか、難しい。」
ポツリと消えてしまいそうに零された小さな声は、蝉の声にかき消されていく。結川の苦悩が、痛いくらいに私に伝わる。
本当に人生ってやつは、上手くいかない。いつまで経ってもなりたい自分になれなくて、「こんな筈じゃなかった」を繰り返している。どうやったって私は私にしかなれないのに、私は私になんてなりたくないのだ。
「……っ、」
結川の言葉に何か声を掛けたいのに、何を言ったら良いのか分からなかった。
そんな過去がありながらも、自分を変えようとここまで必死に頑張れる結川は本当に凄いと思う。スクールカースト上位集団の中に居て、クラスメイトたちの関心を浴びる存在になるのはとても難しくて、恐ろしいことだったに違いない。
だからこそ、そんな簡単に言葉なんて掛けれなかった。たった一言で片付けられるようなそんなものを、結川に向けたくはない。それくらいに、結川は学校という狭い世界で必死に生きている。
なんだか、どうしょうもなく泣きたくなって、誤魔化すように視線を窓の外へと向ける。外を流れるそよ風が瞳を乾かしてくれるのを待った。
不意に離れたグラウンドから、放送席による次の競技を呼び掛けるアナウンスが聞こえてきた。それに結川は、クラスのムードメーカーに似合わない程の重たい溜め息を吐く。
「…次の種目も出なきゃだから、もう戻らないと。」
結川は名残惜しそうに窓の外から視線を外すと、怪我した足でよたよたと歩き保健室を出て行く。その姿に釣られるように私も窓の側から離れると、結川は表情をやわらげて振り返った。
「俺はもう行くけど、三上さんがまだ保健室に居たかったら居てもいいよ。」
「…大丈夫なの?」
「まぁ、保健室の先生じゃないから俺が偉そうな事言えないけど、多分大丈夫だと思うよ!」
正直、今の私が居られる場所はこの保健室以外に無いので、結川の言葉はかなり有り難い。保健室の壁に貼られている時計を確認し、「鍵は、後で保健室の先生に渡しといて!」と言い放った結川は足早に保健室を後にする。
そんな結川を私は慌てて追いかけ、立ち去る背中に届くように声を上げた。
「結川くん、ありがとう…!」
私の声が届いたのか、結川は軽く手を挙げて微笑む。
「それはお互い様だよ。」
そう言って振り返った結川の表情が、酷く優しくて落ち着いたはずの涙腺がまた緩みそうになる。それを必死に耐えながら、パタパタと静かな廊下に響く足音を見送った。
再び、静寂に包まれた廊下から保健室へ戻る。保健室の中心に置かれた長椅子に腰掛けて、体育祭の最終種目のアナウンスが流れるまで一人の時間を過ごした。
最後のアナウンスが流れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろグラウンドに戻らなくてはいけないと思うのに、私の身体は全く動かない。長椅子に座ったまま、目の前のテーブルに項垂れて目を瞑る。
その時、誰の気配もしなかった静かな廊下を誰かが歩いてくる音がした。ガラッと保健室のドアが開き、テーブルに伏せていた顔を上げる。
「三上さん、来てたのね。さっき、結川くんから三上さんが保健室に居るって聞いてきたの。」
保健室の先生がそう説明しながら、室内に入って来る。 そして、結川がわざわざ保健室の先生に私の事を伝えてくれたのだと思うと、嬉しくて有り難かった。
「今は閉会式とかも終わって、もうじき皆も校舎に戻って来ると思う。」
その言葉通りに静かだった校舎内が、次第にざわざわと騒がしくなってきた。一気にたくさんの人の気配を感じて、なんだか胃のあたりが落ち着かない。
閉会式が終わったとなると、私も本当にそろそろ戻らなくてはいけないようだ。あれほど、準備に追われていた体育祭が終わる。まぁ、これから体育委員は体育祭の後片付けをしなければならないのだけど、それもあと少しの辛抱だろう。
力を振り絞って立ち上がりながら、「先生、私戻ります。」と保健室の先生に向かって声を掛ける。それに対して、保健室の先生は「うん、体調には気を付けて。今日はお疲れ様。」と、いつもと変わらない微笑みで送り出してくれた。
椅子を抱えて校舎に戻って来る生徒たちに、逆らうようにグラウンドへ戻る。砂埃が舞うグラウンドには、まだ何人かの生徒が残っていた。その中には、私のクラスメイトたちも殆ど残っていて、各々が好き勝手にはしゃいだり、担任教師に向けられたカメラの前で楽しそうにポーズを決めている。
体育祭のお手本のような過ごし方をしているクラスメイトたちに、薄暗い気持ちが湧き上がってくる。自分の椅子を片付ける為に彼らに近付いても、私の存在なんて誰も気にしてなんかいなかった。空気のように扱われるのは、もう慣れている。
「結川ー!お前、こっち来いよ!」
「センセー!俺等も写真撮って〜!」
少し離れた場所では、田所に肩を組まれてスクールカースト上位集団の中で写真を撮られる結川の姿があった。
昨日、他校生たちに遭遇してあんなに動揺していたのに、それを感じさせずにヘラヘラ笑ってあの場に居る結川はやっぱり凄いと思う。
そんな結川とも、体育祭が終わってしまったらもう関わる事も少なくなるんだろうか。一時的に体育委員の仕事してくれていただけだから、きっとこれまでの関係に戻る筈だ。
スクールカースト上位集団に居る結川と、スクールカースト最下層に居る私。そこには、本来なんの繋がりも無かったのに、結川の存在は私とって不思議なくらいに悪いものではなかった。むしろ、ほんの少しの居心地の良ささえも感じていた。
何の危な気も無く、クラスメイトのたちの中でヘラヘラ笑う結川のその首には、相変わらず気味の悪い赤い縄が括りつけられている。けれど、やはりそれはいつものように揺れておらず、ただじっと息を潜めるようにだらりと垂れ下がったままだった。
トイレから出ると行く宛の無い私は、赤い縄に引っ張られるようにしてふらふらと歩く。そして、気付けばいつものように保健室へと向かって足を運んでいた。
体育祭中の体育委員の仕事はもう終わったし、他に出る競技もない。そんなどうでも良い事を、言い訳のように考えながら保健室に向かう。
誰も居ない校舎に入って、静かな廊下を歩く。保健室のドアを開けようと手を掛けると、どうやら鍵が掛かっているようで全然動かない。
そういえば、体育祭の最中は競技中に怪我をした生徒や気分の悪くなった生徒の為に、保健室の先生は常にグラウンドにある救護テントで待機していた筈だ。
この無人の保健室にやって来る人間はそうそう居ない為、施錠されているのだろう。
なんだか今日は何もかもが上手くいかない気がして、酷く落ち込む。鍵の閉まったドアの前でしゃがみ込み、抱えた膝に顔を押し付けて項垂れた。
溢れてきそうなものを堰き止めるように、強く目を瞑る。目の前に広がった暗闇に、思考さえも呑まれていくように深く沈んだ。
何やっているんだろうな、私。
こんな腹で、私はこの先も生きていけるんだろうか。皆と同じ事が出来なくて、普通の生活がどんどん難しいものになっていく。
私だって引っ掛かりたくて、縄に引っ掛かったんじゃない。そもそも体育祭なんてやりたくないし、体育委員にもなりたくなかった。毎日学校なんて行きたくもないし、さっさと辞めてしまいたいに決まってる。
それより何より、こんな私になりたくてなっているわけじゃない。全部全部、私が望んでなんかいないのに。いつだって、この世界は私の望まない事ばかりで成り立っている。
「…早く、楽になりたい。」
いつかの放課後、結川が言っていた言葉をまた無意識に呟く。願っている事はただそれだけなのに、なんでこんなにも難しいのだろう。
「…あれ、三上さん?」
突然真っ暗な世界で聞こえた声に、驚いて顔を上げる。ずっと瞼を閉じていたせいか目の前がチカチカした。よく見ると、薄暗い廊下に一人立っていたのは結川だった。
「どうしたの?体調悪い?」
こんな所で一人しゃがみ込んでいる私を、結川は心配そうに伺ってくる。結川の方こそ、こんな所に何をしに来たんだと視線を向けたところで「あっ、」と思った。
「…転んだの?」
体操着姿の結川の膝には、大きなガーゼが貼られていて少量の血滲んでいる。その様子を見るに派手に転びでもしたのだろうか、随分と痛々しかった。
「あー、リレーで転んじゃってさ。お陰でチーム最下位!」
結川は何でも無いように、ヘラヘラと笑いながらそう言った。けれど、その顔色は若干青白く見えて、何処か無理をしているじゃないかとも思う。
そんな結川を見ながら、しゃがみ込んでいた足に力を入れて立ち上がる。少々、足が痺れた。
「一応、救護テントで手当てしてもらったんだけど、先生に保健室に行きたいって言ったら鍵貸してくれたんだ。」
手に持っていた鍵をチャリンッと鳴らすと、結川は得意気に保健室の鍵を開けた。ガラッと開いたドアに、私は重たかった心が少し軽くなるのを感じる。
結川は「いてて、」と怪我した足を引き摺りながら、閉め切っていた保健室の窓を開けた。私もそれを真似するように、反対側の窓を開ける。
少しの風と共に室内に入り込んできた蝉の声に、本格的な夏の訪れを感じた。七日で消えゆく命に抗っているかのように力強い鳴き声は、どうしてか私の胸を打つ。
耳障りな人の声なんかよりも、よっぽど聞いていられると思った。
「なんか、蝉の声ってさ『死ね』って言ってるように聴こえない?」
「え、」
唐突な結川の発言に顔を向ければ、結川は窓の外に視線を向けたまま、瞳を細めてヘラリと笑みを浮かべていた。
窓の外から聞こえる蝉の声に耳をすませば、確かに結川の言った通り「シネシネシネシネ」と言ってるように聞えてくる。
「…本当だ、聞こえる。」
一度そうだと思ってしまうと、どうしても「死ね」以外には聞こえなくて、蝉がひたすらに「シネシネシネシネ」言っていると思ったらなんだか笑えてきた。
「なんか、死ねって言われてるみたい。」
「ねー。」
まるで呪いのように浴びせられる蝉の声を聴きながら、結川と二人ただただ窓の外を見ていた。その時間が今日一日の中で、一番有意義なものだと思った。
夏風が室内の空気を循環して、一層呼吸がしやすくなる。頭に巻き付けていた黄色を鉢巻を取れば、固まっていた髪をほぐすように風がさらりと撫でていく。
「結川くんも、蝉の声聞いてそんな風に思うんだね。」
「えー、だって聞こえるじゃん!」
結川の態とらしく弾むような声が保健室に響く。そして、急に静かになったかと思うと、今度は随分と真面目な表情になって結川は慎重に言葉を発し始めた。
「俺さ、どんな風に見られてるか分かんないけど、すっごい根暗な奴なんだよ。」
「…そうなの?」
結川の言葉が意外というよりかは、結川と関わるようになってからはその「根暗な奴」という表現にそこまで驚きはなく、やけにしっくりと来るような気もする。
田所たちスクールカースト上位集団に都合の良い存在と思われても、それを分かっていながら、まるで道化のように振る舞う結川には健全な明るさを感じない。
それにきっと暗い奴じゃなかったら、蝉の声が「死ね」と言っているようにはとても聞こえないだろう。
「うん、いつも暗い事ばっかり考えてる。…昨日の俺見て分かったでしょ?」
秘密を共有するような結川の言葉に、思わず息を呑む。そして思い出されるのは、昨日の下校中での出来事だ。結川の知り合いだと思われる他校生が、結川を馬鹿にしたように絡んできたのを頭に思い浮かべて、再びその時の苛立ちが蘇った。
「俺、中学の頃アイツらいじめられててさ、どうしょうもなかったんだよね。」
「…そっか。」
昨日の他校生たちとの様子を見るにもしかしたらと、少し想像はしていた。けれど、やっぱり本人の口から聞くその事実はショックだ。
「だから俺、高校生になったらもういじめられないように、自分を変えたかったんだけど…」
結川は今だに窓の外を見ていて、私と視線が合うことは無い。目の前の外の景色よりも遥か遠くを見ているようなその横顔が、酷く疲れているように見えた。
「なんか、難しい。」
ポツリと消えてしまいそうに零された小さな声は、蝉の声にかき消されていく。結川の苦悩が、痛いくらいに私に伝わる。
本当に人生ってやつは、上手くいかない。いつまで経ってもなりたい自分になれなくて、「こんな筈じゃなかった」を繰り返している。どうやったって私は私にしかなれないのに、私は私になんてなりたくないのだ。
「……っ、」
結川の言葉に何か声を掛けたいのに、何を言ったら良いのか分からなかった。
そんな過去がありながらも、自分を変えようとここまで必死に頑張れる結川は本当に凄いと思う。スクールカースト上位集団の中に居て、クラスメイトたちの関心を浴びる存在になるのはとても難しくて、恐ろしいことだったに違いない。
だからこそ、そんな簡単に言葉なんて掛けれなかった。たった一言で片付けられるようなそんなものを、結川に向けたくはない。それくらいに、結川は学校という狭い世界で必死に生きている。
なんだか、どうしょうもなく泣きたくなって、誤魔化すように視線を窓の外へと向ける。外を流れるそよ風が瞳を乾かしてくれるのを待った。
不意に離れたグラウンドから、放送席による次の競技を呼び掛けるアナウンスが聞こえてきた。それに結川は、クラスのムードメーカーに似合わない程の重たい溜め息を吐く。
「…次の種目も出なきゃだから、もう戻らないと。」
結川は名残惜しそうに窓の外から視線を外すと、怪我した足でよたよたと歩き保健室を出て行く。その姿に釣られるように私も窓の側から離れると、結川は表情をやわらげて振り返った。
「俺はもう行くけど、三上さんがまだ保健室に居たかったら居てもいいよ。」
「…大丈夫なの?」
「まぁ、保健室の先生じゃないから俺が偉そうな事言えないけど、多分大丈夫だと思うよ!」
正直、今の私が居られる場所はこの保健室以外に無いので、結川の言葉はかなり有り難い。保健室の壁に貼られている時計を確認し、「鍵は、後で保健室の先生に渡しといて!」と言い放った結川は足早に保健室を後にする。
そんな結川を私は慌てて追いかけ、立ち去る背中に届くように声を上げた。
「結川くん、ありがとう…!」
私の声が届いたのか、結川は軽く手を挙げて微笑む。
「それはお互い様だよ。」
そう言って振り返った結川の表情が、酷く優しくて落ち着いたはずの涙腺がまた緩みそうになる。それを必死に耐えながら、パタパタと静かな廊下に響く足音を見送った。
再び、静寂に包まれた廊下から保健室へ戻る。保健室の中心に置かれた長椅子に腰掛けて、体育祭の最終種目のアナウンスが流れるまで一人の時間を過ごした。
最後のアナウンスが流れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろグラウンドに戻らなくてはいけないと思うのに、私の身体は全く動かない。長椅子に座ったまま、目の前のテーブルに項垂れて目を瞑る。
その時、誰の気配もしなかった静かな廊下を誰かが歩いてくる音がした。ガラッと保健室のドアが開き、テーブルに伏せていた顔を上げる。
「三上さん、来てたのね。さっき、結川くんから三上さんが保健室に居るって聞いてきたの。」
保健室の先生がそう説明しながら、室内に入って来る。 そして、結川がわざわざ保健室の先生に私の事を伝えてくれたのだと思うと、嬉しくて有り難かった。
「今は閉会式とかも終わって、もうじき皆も校舎に戻って来ると思う。」
その言葉通りに静かだった校舎内が、次第にざわざわと騒がしくなってきた。一気にたくさんの人の気配を感じて、なんだか胃のあたりが落ち着かない。
閉会式が終わったとなると、私も本当にそろそろ戻らなくてはいけないようだ。あれほど、準備に追われていた体育祭が終わる。まぁ、これから体育委員は体育祭の後片付けをしなければならないのだけど、それもあと少しの辛抱だろう。
力を振り絞って立ち上がりながら、「先生、私戻ります。」と保健室の先生に向かって声を掛ける。それに対して、保健室の先生は「うん、体調には気を付けて。今日はお疲れ様。」と、いつもと変わらない微笑みで送り出してくれた。
椅子を抱えて校舎に戻って来る生徒たちに、逆らうようにグラウンドへ戻る。砂埃が舞うグラウンドには、まだ何人かの生徒が残っていた。その中には、私のクラスメイトたちも殆ど残っていて、各々が好き勝手にはしゃいだり、担任教師に向けられたカメラの前で楽しそうにポーズを決めている。
体育祭のお手本のような過ごし方をしているクラスメイトたちに、薄暗い気持ちが湧き上がってくる。自分の椅子を片付ける為に彼らに近付いても、私の存在なんて誰も気にしてなんかいなかった。空気のように扱われるのは、もう慣れている。
「結川ー!お前、こっち来いよ!」
「センセー!俺等も写真撮って〜!」
少し離れた場所では、田所に肩を組まれてスクールカースト上位集団の中で写真を撮られる結川の姿があった。
昨日、他校生たちに遭遇してあんなに動揺していたのに、それを感じさせずにヘラヘラ笑ってあの場に居る結川はやっぱり凄いと思う。
そんな結川とも、体育祭が終わってしまったらもう関わる事も少なくなるんだろうか。一時的に体育委員の仕事してくれていただけだから、きっとこれまでの関係に戻る筈だ。
スクールカースト上位集団に居る結川と、スクールカースト最下層に居る私。そこには、本来なんの繋がりも無かったのに、結川の存在は私とって不思議なくらいに悪いものではなかった。むしろ、ほんの少しの居心地の良ささえも感じていた。
何の危な気も無く、クラスメイトのたちの中でヘラヘラ笑う結川のその首には、相変わらず気味の悪い赤い縄が括りつけられている。けれど、やはりそれはいつものように揺れておらず、ただじっと息を潜めるようにだらりと垂れ下がったままだった。