あれは十年前。
忘れもしない、夏祭りの日だった。
お気に入りの金魚柄の浴衣を着せてもらい、寧々子は両親と夏祭りに出かけた。
うだるように暑い夏の空気も夜にはやわらぎ、過ごしやすくなっていた。
期待に胸を膨らませ、意気揚々と慣れない下駄を鳴らした。
「わあ……」
提灯飾りのついた神社の隣にある空き地には、様々な出店がずらりと並んでいる。
薄暗い夜の中、そこだけが赤々と照らされていた。
祭りのお囃子を聞きながら、寧々子はわくわくしながら出店を一つずつ見ていった。
「……?」
気づくと辺りは暗く、森のような場所にいた。
夏祭りのざわめきは消え、人の姿もなく、ひとりぼっちになっていた。
「お母さん、お父さん!」
恐怖を感じて森の中をさまよっていると、明るい提灯飾りが見えた。
元の場所に戻れたのだと必死で足を進めた。
寧々子は出店がずらりと並んだ明るい空間に出た。
だが、なぜか雰囲気が違う。
寧々子は違和感に気づいた。
皆、お面をつけているのだ。狐、狸、猫、狗、天狗、カッパ、その他見たことのない異形の面もあった。
人の形をしてはいたが、中には信じられないような大きい背丈のものや、しっぽや角が生えているものもいた。
(お、お化け……?)
寧々子は異様な光景に足をすくませた。
(ここ……どこ?)
子ども心にも、明らかに自分がいた場所でないことがわかった。
恐怖と心細さに涙がこみあげてくる。
寧々子はぐすぐすと鼻を鳴らした。
「お母さん……」
「おまえ、なんで面をつけてないの?」
「きゃっ!」
とん、と肩を叩かれ、寧々子は飛び上がった。
振り返ると、目に飛び込んできたのは鳥のお面だ。
「ひっ!」
寧々子の怯えが伝わったのか、少年がおもむろにお面を外した。
「わ……」
男の子の髪は提灯の光に照らされて、明るい金色に光っていた。
毛先はなぜかほんのり赤い。
(こんな色の髪、初めて……)
そして、その目は赤く輝いている。
(が、外国の人……?)
(男の子だよね?)
綺麗な顔立ちには、少女のようにも少年のようにも見えた。
だが、よく見ると、骨張った手足は少年のものだ。
「あなた、男の子?」
「ああ。俺は蘇芳。おまえ、もしかして人の子か」
「う、うん」
その質問で、ぼんやりと気づいていたことが確信に変わった。
見たことのない少年の外見、お面をかぶった人々、珍しい名前。
(そっか、ここは異界なんだ……)
山に川に森、辻や橋、そして家の扉――日常のすぐそばに異界への道は存在する。
隣り合わせだが、遠い場所とも言える。限られた者しか往来できないからだ。
稀に世界が繋がってしまい、迷い込む人がいる。
神隠し、迷い家などの言い伝えが思い出される。
(私……どうしよう……)
心細さが込み上げ、寧々子は泣き出した。
大粒の涙がぼろぼろと落ちる。
ぐすぐすと泣き出した寧々子を、蘇芳が困ったように見つめた。
「おい、泣くなよ……」
ぽんと手に頭が載せられたが、涙はとまらなかった。
「うう……」
どうしたらいかわからず、ぎゅっと浴衣を握って泣くしかない。
「ちょっと待ってろ」
蘇芳が突然はぱっと駆け出した。
彼は人の子ではない。
そうわかっているのに、寧々子は唯一のよりどころのように彼の帰りを待った。
言葉どおり、あっという間に蘇芳は帰ってきた。
手に薄いピンク色の柔らかそうな餅を持っている。
「あっ……お餅……?」
「いや、大福だ」
見たことのない可愛らしい色の大福に、涙がぴたりと止まった。
寧々子の家は和菓子店だが、こんな大福は初めて見た。
「ほら、うまいぞ。食ってみろ」
差し出された大福をおそるおそる口に運ぶ。
もちもちした求肥の感触が懐かしい。
「あっ……」
何かが口の中で、しゅわっと爽やかに弾ける。
甘酸っぱいものが口の中に広がった。
「イ、イチゴ!?」
しっとりした餡の中にはイチゴが入っていた。
「おいしい!」
餡の甘さとイチゴの仄かな酸味が混ざり合う。
やわらかい求肥の口当たりが優しい。
寧々子は夢中で大福にかぶりついた。
笑顔になった寧々子に、蘇芳が嬉しそうに微笑んだ。
「うまいだろ! 俺の一番のお気に入りなんだ! いちご大福、初めてだろ?」
大きく頷くと、蘇芳はにやっと笑った。
「だろ? こっちの夏祭りも悪くないだろ?」
蘇芳が自分を安心させようと持ってきてくれたとわかった。
「ありがとう……」
「よし、泣き止んだな。大丈夫、元の世界に送ってやるよ。俺、そういうのわかるんだ」
寧々子はさっと差し出された手を握った。
蘇芳の手は人と変わらず、柔らかく温かい。
おそらくはあやかしなのに、すっかり信用している自分がいる。
「ねえ、その右手の模様は何?」
蘇芳の手の甲に炎のような赤い模様がついている。
「これ、朱雀のしるし」
「朱雀って何?」
「火の鳥だよ。この世界の王様で、一番偉い人っていう証」
「ええっ、子どもなのに?」
「すぐ大きくなるさ」
蘇芳は迷いなく暗い森に足を踏み入れ、突き進んでいく。
寧々子は手を引かれ、そのあとをついていった。
あんなに恐ろしかった夜の森が、蘇芳といるだけで全然怖くない。
再び、明るい提灯が見えてきた。
「ほら、おまえのとこの夏祭りだ」
懐かしいお囃子が聞こえてきて、寧々子はホッとした。
「気をつけて帰れよ」
「ありがとう、蘇芳!」
思い切って名前を呼んでみると、蘇芳が口元をほころばせた。
「もう迷うなよ!」
振り返ると、蘇芳がずっと手を振ってくれているのが見えた。
寧々子は大きく手を振り返す。
まるで夏の夜の夢のような――でも忘れがたい出来事だった。
忘れもしない、夏祭りの日だった。
お気に入りの金魚柄の浴衣を着せてもらい、寧々子は両親と夏祭りに出かけた。
うだるように暑い夏の空気も夜にはやわらぎ、過ごしやすくなっていた。
期待に胸を膨らませ、意気揚々と慣れない下駄を鳴らした。
「わあ……」
提灯飾りのついた神社の隣にある空き地には、様々な出店がずらりと並んでいる。
薄暗い夜の中、そこだけが赤々と照らされていた。
祭りのお囃子を聞きながら、寧々子はわくわくしながら出店を一つずつ見ていった。
「……?」
気づくと辺りは暗く、森のような場所にいた。
夏祭りのざわめきは消え、人の姿もなく、ひとりぼっちになっていた。
「お母さん、お父さん!」
恐怖を感じて森の中をさまよっていると、明るい提灯飾りが見えた。
元の場所に戻れたのだと必死で足を進めた。
寧々子は出店がずらりと並んだ明るい空間に出た。
だが、なぜか雰囲気が違う。
寧々子は違和感に気づいた。
皆、お面をつけているのだ。狐、狸、猫、狗、天狗、カッパ、その他見たことのない異形の面もあった。
人の形をしてはいたが、中には信じられないような大きい背丈のものや、しっぽや角が生えているものもいた。
(お、お化け……?)
寧々子は異様な光景に足をすくませた。
(ここ……どこ?)
子ども心にも、明らかに自分がいた場所でないことがわかった。
恐怖と心細さに涙がこみあげてくる。
寧々子はぐすぐすと鼻を鳴らした。
「お母さん……」
「おまえ、なんで面をつけてないの?」
「きゃっ!」
とん、と肩を叩かれ、寧々子は飛び上がった。
振り返ると、目に飛び込んできたのは鳥のお面だ。
「ひっ!」
寧々子の怯えが伝わったのか、少年がおもむろにお面を外した。
「わ……」
男の子の髪は提灯の光に照らされて、明るい金色に光っていた。
毛先はなぜかほんのり赤い。
(こんな色の髪、初めて……)
そして、その目は赤く輝いている。
(が、外国の人……?)
(男の子だよね?)
綺麗な顔立ちには、少女のようにも少年のようにも見えた。
だが、よく見ると、骨張った手足は少年のものだ。
「あなた、男の子?」
「ああ。俺は蘇芳。おまえ、もしかして人の子か」
「う、うん」
その質問で、ぼんやりと気づいていたことが確信に変わった。
見たことのない少年の外見、お面をかぶった人々、珍しい名前。
(そっか、ここは異界なんだ……)
山に川に森、辻や橋、そして家の扉――日常のすぐそばに異界への道は存在する。
隣り合わせだが、遠い場所とも言える。限られた者しか往来できないからだ。
稀に世界が繋がってしまい、迷い込む人がいる。
神隠し、迷い家などの言い伝えが思い出される。
(私……どうしよう……)
心細さが込み上げ、寧々子は泣き出した。
大粒の涙がぼろぼろと落ちる。
ぐすぐすと泣き出した寧々子を、蘇芳が困ったように見つめた。
「おい、泣くなよ……」
ぽんと手に頭が載せられたが、涙はとまらなかった。
「うう……」
どうしたらいかわからず、ぎゅっと浴衣を握って泣くしかない。
「ちょっと待ってろ」
蘇芳が突然はぱっと駆け出した。
彼は人の子ではない。
そうわかっているのに、寧々子は唯一のよりどころのように彼の帰りを待った。
言葉どおり、あっという間に蘇芳は帰ってきた。
手に薄いピンク色の柔らかそうな餅を持っている。
「あっ……お餅……?」
「いや、大福だ」
見たことのない可愛らしい色の大福に、涙がぴたりと止まった。
寧々子の家は和菓子店だが、こんな大福は初めて見た。
「ほら、うまいぞ。食ってみろ」
差し出された大福をおそるおそる口に運ぶ。
もちもちした求肥の感触が懐かしい。
「あっ……」
何かが口の中で、しゅわっと爽やかに弾ける。
甘酸っぱいものが口の中に広がった。
「イ、イチゴ!?」
しっとりした餡の中にはイチゴが入っていた。
「おいしい!」
餡の甘さとイチゴの仄かな酸味が混ざり合う。
やわらかい求肥の口当たりが優しい。
寧々子は夢中で大福にかぶりついた。
笑顔になった寧々子に、蘇芳が嬉しそうに微笑んだ。
「うまいだろ! 俺の一番のお気に入りなんだ! いちご大福、初めてだろ?」
大きく頷くと、蘇芳はにやっと笑った。
「だろ? こっちの夏祭りも悪くないだろ?」
蘇芳が自分を安心させようと持ってきてくれたとわかった。
「ありがとう……」
「よし、泣き止んだな。大丈夫、元の世界に送ってやるよ。俺、そういうのわかるんだ」
寧々子はさっと差し出された手を握った。
蘇芳の手は人と変わらず、柔らかく温かい。
おそらくはあやかしなのに、すっかり信用している自分がいる。
「ねえ、その右手の模様は何?」
蘇芳の手の甲に炎のような赤い模様がついている。
「これ、朱雀のしるし」
「朱雀って何?」
「火の鳥だよ。この世界の王様で、一番偉い人っていう証」
「ええっ、子どもなのに?」
「すぐ大きくなるさ」
蘇芳は迷いなく暗い森に足を踏み入れ、突き進んでいく。
寧々子は手を引かれ、そのあとをついていった。
あんなに恐ろしかった夜の森が、蘇芳といるだけで全然怖くない。
再び、明るい提灯が見えてきた。
「ほら、おまえのとこの夏祭りだ」
懐かしいお囃子が聞こえてきて、寧々子はホッとした。
「気をつけて帰れよ」
「ありがとう、蘇芳!」
思い切って名前を呼んでみると、蘇芳が口元をほころばせた。
「もう迷うなよ!」
振り返ると、蘇芳がずっと手を振ってくれているのが見えた。
寧々子は大きく手を振り返す。
まるで夏の夜の夢のような――でも忘れがたい出来事だった。