佐嶋(さじま)が帰ったあと、立ち上がろうとした寧々子(ねねこ)蘇芳(すおう)が声をかけた。

「天守閣に行ってみないか」
「天守閣……?」
「この屋敷の一番高い物見台だ」
「は、はい! 行ってみたいです」

 朱雀屋敷は王の住まう城でもある。天守閣があってもおかしくない。
 蘇芳のあとについて階段を上がっていく。

 廊下の奥の隠し扉を開けると、更に急な階段が出てきた。
 階段を上がると、小さな小部屋のような場所に出る。
 四方に柱があるだけの物見台に、寧々子は足を踏み入れた。

「うわあ……」

 風になびく髪を手で押さえながら、寧々子は外を見た。
 眼下に朱雀(すざく)国の町並みが広がる。

「壮観ですね」
「なかなか気持ちいいだろう。気晴らしにいい。だが、最近は上がってくる暇もなくてな」

「今は大丈夫なのですか?」
「ああ。火鳥(ひとり)組の活躍と、あとほころびが減ってきたようだ。結界破りのトラブルが目に見えて減っている」
「よかった……!」

 あやかしたちがのんびり暮らす町に戻れるのなら、それが一番いい。
 修三(しゅうぞう)も安心して店を続けられるだろう。

「おまえのおかげだな」
「えっ……?」

「おまえが来てくれたから、異界の気が落ち着いてきているのだと思う」
「そうなんでしょうか……だったら嬉しいですけど」
「感謝している」

 とても自然に口に出され、寧々子は一瞬呆気にとられた。

「えっ、そんな、私は何もしていません。ここに来ただけで……」

 花嫁らしいことも何もしていない。
 ただ、お菓子を作ったりしていただけだ。
 ふっと蘇芳が微笑んだ。

「ここに来てくれた、それで充分なんだ。人間の身でありながら、勇気を出して異界に来た。そして、あやかしの王の嫁になるなど、よほどのことがなければできることではない」
「私は……昔一度あなたに会っているから……だから、勇気を出せただけです」

 蘇芳が目を細める。
 髪を揺らせる風を楽しんでいるようにも見えた。

「そうか……」

 ふたりはしばし、風に吹かれながら遠くを眺めた。

「すまなかった」
「え?」

 蘇芳に見つめられ、寧々子はドキドキして思わず目をそらせていた。
 美しい赤い瞳をまともに見ることができない。

(なんて綺麗な人なんだろう……)

 もう何度も見ているのに、まだ慣れない。

「俺はすっかりおまえに出会っていたことを忘れてしまっていて……。言い訳になるが、過去の出来事はなるべく思い出さないようにしていたんだ」
「……」

 蒼火(そうび)から聞いた、人間に裏切られた事件のせいなのだろう。
 よほど深く傷ついたようだ。

(いつか……話してもらえる時が来るのかな……)

「いいんです。蘇芳様にとっては些細な出来事だったんでしょう」
「いや、嬉しかったよ。人間の子どもなのに俺を見て怯えなくて、お菓子を食べたら笑ってくれた」

 寧々子は思わず顔を赤らめた。

「私、すごく食いしん坊みたいですね」
「甘味の力は侮れないな。どんなに苦しく怖いときでも、(やわ)らげる力がある」

 そうかもしれない。
 寧々子にとっては甘味があったからこそ、この異界でいろんな繋がりを持てた。

(修三さんとも再会できたし、皆に喜んでもらえた)

 大きく風が吹き、寧々子の髪を揺らせる。

「少し寒いか」

 蘇芳がマントを取ると、寧々子の肩にかけた。
 毛皮のついたマントはとても温かく、寧々子の体をすっぽりと包んだ。

「蘇芳様、ありがとうございます」

 なぜか蘇芳が顔をそらせる。

「……?」
「蘇芳、と呼んでくれないか」
「え?」
「あの夏祭りの日のように」

 寧々子は驚いて蘇芳を見つめた。

「おまえの前では王ではなく、ただの蘇芳でいたい」

 寧々子の心臓が大きく弾み、顔が赤くなるのがわかる。
 もう自分はあの頃のような子どもではないのだと、はっきり自覚せざるを得なかった。

「蘇芳」

 思い切って口にする。
 改めて、自分が蘇芳の妻になるのだと実感する。

「おまえに触れてもいいか?」

 蘇芳の言葉に寧々子はつい笑ってしまった。

「ミケのときのようにですか?」

 そう言うと、蘇芳が慌てたように顔を赤らめた。

「悪かったよ。気づかなくて、その……」
「ふふ。化け面のおかげで全然バレませんでしたね」
「言っておくが、誰に対してもあんなに気安く触れるわけではない。その……おまえだからだ」

 耳まで赤くしている蘇芳に、寧々子は思わず微笑んだ。

「撫でてください。……ミケじゃなくて寧々子として」

 蘇芳がそっと手を伸ばし、寧々子の髪を優しく撫でる。

「すまなかった……」
「ふふ……。頭を撫でてもらったのは嬉しかったですよ」
「今後、妻以外の女性にみだりに触れたりしないようにするから勘弁してくれ」

 とうとう蘇芳は欄干に突っ伏してしまった。
 寧々子はそっと風に揺れる蘇芳の金色の髪を撫でた。
 初めて触れる髪は驚くほどやわらかかった。

「こんないい眺めの場所は初めてです。あの山の中の花の楽園も素敵でした……」

 寧々子はそっと蘇芳にささやいた。

「私、これからいろんな初めてのことをあなたとしていきたいです」
「……俺もだ」

 突っ伏したままだった蘇芳が、そろそろと顔を上げる。
 恥ずかしそうに目をそらせる蘇芳が(いと)しくて寧々子はもじもじした。

「抱きしめていいか?」
「は、はい!」

 寧々子が返事をするや否や、蘇芳が寧々子の体をそっと抱き寄せた。
 温かい蘇芳の体の感触に、寧々子は涙がにじむのを感じた。

(そうだ……私、ずっとこうしたかったんだ……)

 無視されるつらい日々はもう終わったのだ。
 寧々子はぎゅっと蘇芳を抱きしめた。