愕然とする寧々子(ねねこ)を落ち着かせるように、佐嶋(さじま)が優しく微笑んだ。

「突然の話で驚かれるでしょうが、あやかしの王に嫁いでいただけないですか?」
「私が……あやかしの花嫁に?」
「あやかしと言っても、王は男の私でも見とれるような美男子で、非常に礼儀正しく人柄のいい方です」

 佐嶋の口ぶりに嘘はなさそうだった。
 だが、いくら人の姿をしているといっても相手はあやかしだ。
 寧々子の固い表情に気づいたのか、佐嶋が本題に入った。

「寧々子さんのことは少し調べさせてもらいました。お家の事情も。縁談を受けてくれたら、借金は私どもで帳消しにします」
「帳消しって……5万円以上ですが……」

 よほどの金持ちでも、ポンと出せる金額ではない。

「それほどこの縁談の成就を願っていると、ご理解いただけると幸いです」

 寧々子はごくっと唾を飲み込んだ。
 これほどの規模の交渉は、町の世話役の彼の一存とは思えない。
 寧々子の家の事情にも詳しいし、背後にはもっと大きな権力を持つ誰かがいるのだろう。
 佐嶋が茶をずずっとすする。

「寧々子さんは真面目で心根の素直ないいお嬢さんだ。期待しています」
「え、ええっ?」

 あやかしの王の花嫁になるなど、人間界代表のいわば大使のような重責ある役割を担うことになる。

「そんな大役、私には無理です! そもそも霊力が高いなんて……」
「これは専門家の方の見解なんですよ。何か人ならざるものを見たり、不思議な声を聞いたりしたことはありませんか?」
「な、ないと思います……」
「では、人間界に似ているけれど、違う場所に行ったことは?」

 佐嶋の言葉に古い記憶が蘇ってきた。

「あ、あの……」

 十年前の夏祭りの出会いが脳裏に浮かぶ。

「お心当たりがおありのようですね」

 佐嶋が満足げにうなずく。

「霊力が高い人は、異なる二つの世界の狭間にいるのですよ。どちらにも足を踏み入れられる」

 佐嶋がすっと畳に指をつくと、丁寧に頭を下げてきた。

「寧々子さんが適役だと思っております。ぜひ、前向きに検討ください」

 これほどまでに自分に期待を掛けられるのは初めてで、寧々子は戸惑った。

「返事はすぐでなくとも構いませんが――なるべく早くお願いします。私どもは一刻も早く事態の改善に乗り出したいのです」

 顔を上げた佐嶋が静かに、だが重い口調で言う。

「ですが、軽い気持ちで受けられては困ります。あやかしの王の信頼を損ねることになりかねませんから」

 佐嶋の声音から、崖っぷちの瀬戸際なのだと痛いほどわかる。
 嫁ぐのであれば、決して出戻らぬという決意が必要ということだ。

(……私が嫁ぎさえすれば、家族は助かる)

 最悪の場合、全員で首を吊る羽目になるかもしれない借金だ。

(でも……思い切れない)

 あやかしに嫁ぎ、しかも異界との狭間にあるあやかしの国で暮らすことになる。

(想像がつかないわ……)
(怖い……)

「怯えられるのも無理はありません」

 寧々子の顔色に気づいたのか、佐嶋の声が優しくなった。

「ですが、普通の政略結婚と変わりませんよ。異界との狭間とはいえ、人間界に慣れ親しんだあやかしたちが人の営みを真似て作った国です。この町内と風景は変わりません。普通に店が建ち並んで――まだ少ないですが人間も住んでいますよ。異界の方が水が合うとかでね」
「……」

「それと王の屋敷はとても立派ですよ。その妻ともなれば、贅沢もできます。ああ、こちらの世界と商売もしていますから、同じ食べ物や品物も手に入りますよ」
「……」
「それに、王の花嫁ともなれば、とても大事に扱われますよ」

 確かに話を聞く分には、人間界での政略結婚と変わりないようだ。

「あの、どんな方なのですか、その、あやかしの王って……」
「先程話しましたように、見た目は私たちと変わりません。そうですね……」

 考え込むように、佐嶋が首を傾げた。

蘇芳(すおう)様はすらりとした長身の端整な顔立ちをされた方ですよ。金色の美しい髪をしていて、若い娘に騒がれそうな容姿をしていますね」
「蘇芳……?」
「ええ。その名のとおり赤い目をしていましてね。赤い目なんて気味悪いと思われるかもしれませんが、実際に見ると宝石のように美しいですよ」

 佐嶋の言葉が耳を素通りしていく。
 金色の髪をした、赤い目の少年が脳裏に浮かぶ。
 彼は言っていた。
 自分の名は蘇芳だと。

(もしかして、あの時の男の子……?)

 寧々子の脳裏に、幼い頃に迷い込んだ異界の記憶が蘇ってきた。