寧々子(ねねこ)は驚いて足を速めた。

「本当に……俊之(としゆき)さん?」

 なぜ洋菓子店の跡取りである俊之が異界にいるのだろう。
 信じられない思いで近づくと、俊之がぎょっとしたような表情になった。

「誰だ、おまえ?」
「え?」

 寧々子は自分が三毛猫の化け面をつけていることに気づいた。
 どうやらあやかしに声をかけられたと思ったらしい。

「私です、俊之さん」

 化け面を外すと、俊之が驚愕の表情になった。

「寧々子!? なんでここに……!」
「俊之さんこそ、どうして朱雀(すざく)国へ?」
「俺は商売をしに来たんだよ。朱雀国では飲食店が不足していると聞いて、ウチの店を出そうかと」
「えっ……?」

 思わぬ言葉だった。
 俊之の夢は自分の店である『洋菓子ウエハラ』をもっと繁盛させ、もり立てることのはずだ。

「なんでわざわざ異界にお店を出すの? 元のお店はどうするの?」

 俊之が目をそらせる。

「……あの店はもうダメなんだ」

 俊之の苦しげな表情に、不吉な予感が(つの)る。

「どういうこと?」
「材料が(いた)んでたのか調理の環境が悪かったのか、食中毒を出してしまって……。今、営業停止になっている」
「ええっ!?」

 婚約破棄された先月の時点では、店はうまくいっていたはずだ。
 その後、とんでもない事態に陥っていたらしい。

 寧々子は自分の嫁入りや、実家の借金の手続きなどに追われ、他のことにはまったく目がいっていなかった。

(こんなにすべてが急変してしまうなんて……)

 寧々子は驚きを隠せなかった。
 話題の洋菓子店として注目を浴びていたというのに、一瞬で商売の継続が困難になるほど追い詰められるとは。

「親父は寝込んでしまって、俺がなんとかするしかない。あちこち駆けずり回って、頭を下げまくって……それでようやく佐嶋(さじま)さんに繋いでもらえたんだ」
「佐嶋さんに!?」

 にっちもさっちもいかなくなって、境国との交渉を(にな)っている世話役に頼ったらしい。

「佐嶋さんに苦境を話したら、朱雀国の往来許可証を取ってくれた。とりあえず商売ができるか自分の目で確かめるチャンスをもらったんだ」
「……!!」

 よく見ると、俊之はやつれ、顔色が悪かった。
 あれほど意気揚々と自分の将来について語っていた俊之が、見る影もなく肩を落としている。
 かなりの辛酸をなめたらしい。

「おまえの家ほどじゃないが、ウチも設備の新調に(ともな)って借金もあってね。金が必要なんだ。人間界では悪評がたっているからとうぶん商売はできないけど、別の世界ならやり直せるかと思って」
「そう……」

 それにしても、あやかしの世界に店を出そうというのは勇気がいっただろう。

(私も同じか……)

 寧々子もやむにやまれず、新たな世界に飛び込んだのだ。

「そういうおまえはどうなんだよ。新しい縁談って……ここの王らしいじゃないか」

 佐嶋から聞いたのか、俊之は事情を知っているようだった。

「ええ。一応、嫁入りしました」
「相手はあやかしなんだろ。恐ろしくないのか」

 俊之の無神経な物言いに胸がズキンと痛む。
 元はと言えば、俊之との婚約破棄が端を発していると自覚しているのだろうか。
 まるで他人事のようだ。

(婚約破棄をしてよかったのかもしれない)

 情の薄い人と結婚しても、いつか手ひどく裏切られただろう。

(もともと政略結婚だったけれど、私はきっと俊之さんに期待していたのね……)

 結婚してから、少しずつ寄り添っていければいい、と思っていた。
 だが、それは寧々子の一人相撲だった。

(私ってどこまで甘いんだろう……)

 だからこそ、あやかしの王に嫁ぐなどと思い切った行動に出られたのかもしれない。

(世間知らずゆえの無謀さね……)

 自嘲気味に微笑んだ寧々子に、俊之は何か勘違いしたようだ。

「うまくいっているのか? 火の鳥のあやかしっていうけど、ここの王だから人間の姿をしているのか?」
「ええ、人の姿をしているわ。でも、私たちの国では珍しい黄金色の髪と、赤い目をしているの」

 とても美しい、とは口に出さなかった。

「へえ……外国人みたいな外見なのか」

 俊之が感心したようにうなずく。

「で、どんな男だ? あやかしの王って……怖くないのか? いや、ほらさ、これから商売をするなら、やっぱり王のことを知っておきたくてさ」
「……」

 改めて、俊之に自分への思いが微塵もないことを思い知らされる。

(都合のいい相手、と思っているのね。婚約破棄された私の気持ちなど、まるで考えていない……)

 ただ、情報をうまく取れる道具としてしか見ていないのは明らかだ。

「いいお方よ。優しくて……」

 口にした瞬間、それが真実だと気づいた。
 冷ややかに対応されたが、ミケとして接する蘇芳(すおう)は、王とは思えないほど気さくで優しかった。
 それに、人間の寧々子に対しても、約束を守って晩ご飯を一緒に食べてくれた。

(お礼に、ってリボンまでもらって……)

 蘇芳となら俊之とは違う関係性を築けるのではと思うのは、やはり甘いのだろうか。

(私、期待しているんだ……蘇芳に)

 俊之がちらっと町並みに目を走らせた。

「なあ、ここは甘味屋みたいだけど知ってるか?」

 俊之が指差したのは、修三(しゅうぞう)の店だった。