日が沈み、クタクタになった蘇芳(すおう)は屋敷に向かって歩いていた。

(今日も忙しすぎる……)

 あちこちで揉め事が起きていて気が休まらない。
 甘味処で一服できなかったら、と思うとぞっとする。

(美味しかったな……)

 疲れていた体にさっぱりしたあんみつと、甘く柔らかいクリームが染みた。

(あのホイップクリームというやつはいいな……)

 初めて食べたが、すっかり気に入ってしまった。

(あんなものを食べたのは初めてだ。人間界で流行しているのもわかる……)

 蘇芳にとって人間界は忌避すべき場所なので諦めていたが、あの甘味処で出してくれるならまた食べられるかもしれない。

(いや……甘味を食べるなと言われているんだったな)

 すっかり再訪するつもりだった自分に苦笑する。

(腹が減ったな……そうか、今日も晩ご飯を寧々子(ねねこ)と一緒に食べるのか)

 昨晩のオムライスを思い出すと、お腹がぐう、と鳴った。

(付け合わせの甘味も美味かったな……)

 寧々子とミケの機転で、久しぶりに甘味が食べられた。

(つい、うっかり乗せられてしまう……)

 あやかしの王たる自分が、年下の女の子たちの手のひらの上で転がされている。
 だが、不快ではなかった。
 むしろ、少し楽しくもあった。

(今日は一品だけ作る、と言っていたな。銀花(ぎんか)と交渉したのか……)

 縄張り意識の強い銀花から、厨房を使う許しを得ているのであれば快挙だ。

(今日はいったいどんな――)

 蘇芳はついつい楽しみにしてしまっている自分に気づいた。

(相手は人間の女だぞ。気を許してはいけない。どんなしっぺ返しを食らうかもわからない)

 そう思いつつ、食べる自分を一心に見つめてくる寧々子の眼差(まなざ)しに嘘はない気がする。
 ふと、ミケを連れていった花畑が浮かんだ。

(ミケはとても喜んでいたな……)
(人間界にはない光景だから、とても驚いていた)
(他意はなかったが、デートみたいだったな……)

 仮にも自分の妻である寧々子を差し置いて、他の女の子をとっておきの場所に案内した後ろめたさがわき上がった。

(晩ご飯のお礼に、寧々子を連れていくか……?)
(いや、不用意に人間に気を許すわけにはいかない)

 座敷に行くと、既に寧々子がお膳の前に座って待っていた。

「蘇芳様! お帰りなさいませ」

 寧々子の裏のない笑顔に、思わず微笑み返しそうになるのをこらえる。

「ああ。待たせたな。いただくか」
「はい!」

 二人は銀花の料理に手をつけた。

(今日は豚肉の生姜(しょうが)焼きか……。うん、照りがちょうどいい)

 銀花の料理に舌鼓を売っていた蘇芳は、座敷がしん、と静まり返っているのに気づいた。

(……せっかく二人で食べているのだ。何か話したほうがいいか)

「今日はどうしていた」

 寧々子がびくりと肩を上げ、箸を取り落としそうになる。

「えっ、あっ、あの、散歩を」
「そうか」

 屋敷の中庭は広い。池も滝もあるし、それなりに見応(みごた)えがあるだろう。
 たった一人で嫁に来たとはいえ、珠洲(すず)もいるし寂しくはないだろう。

 そう思いつつも、広い屋敷にひとりぼっちにしているという罪悪感はある。

(たった一人で異界に来て、家族も友人もいない……)
(本来なら、夫である俺が無聊を慰めるのが筋だが……)

 そのとき、蘇芳はふと気づいた。
 寧々子の茶碗のご飯が減っていない。

「あまり食が進まないようだな。口に合わないか」
「そんな! 銀花さんのご飯は美味しいです」
「なら、どうして食べない」

 寧々子が言いづらそうに口を開く。

「……ちょっとおやつを食べ過ぎたみたいで」
「おやつ?」

 甘味など屋敷に置いていないはずだ。

「美味しかったですよ。珠洲もお土産(みやげ)をもらいました!」

 お茶のお代わりをもってきた珠洲が、ちょうど耳にしたのか話に入ってくる。

「お土産? どこの」
「新しくできた甘味処です。寧々子様と同じ人間が店主だそうで。さすが人の作った甘味! とにかく繊細な作りで、中身も凝っていて……最高です!」

 珠洲が興奮しすぎて、ポン、と雀の姿に戻ってしまった。

「わっ!」

 寧々子が驚いたように声を上げる。
 それも当然。人間にとっては衝撃的な姿のはずだ。

 おろおろしている珠洲をかばおうと、蘇芳が口を開きかけたときだった。

「ふふ! 興奮しちゃったのね」

 寧々子が楽しげに笑っている。

「はっ、はい……。すいません!」

 珠洲が恐縮したように、翼を抱えるようにして小さくなる。
 屋敷では人の姿を取るのが当たり前で、しかも人間の花嫁付きの女中である珠洲は特に厳しく言いつけておいた。

 此度(こたび)の人との婚姻は、朱雀国においてとても重要な意味がある。
 万一にも人間の花嫁を怯えさせて、逃げ帰りたいなどと言われるわけにはいかないのだ。

 なのに、珠洲はよりにもよって蘇芳の目の前で、その命令を破ってしまった。
 動揺した珠洲が小さく震えている。

「落ち着いたら大丈夫よ」

 優しく思いやりのある声音に、蘇芳は驚いた。
 食事中の女中の失態、しかもあやかしの姿を取っているのに寧々子はまるで動じる様子がない。

(この娘、あやかしの姿を間近に見て平気なのか?)

 それどころか、雀になってしまった珠洲の頭を指先で優しく撫でている。

(変わった娘だ……)

「珠洲、下がれ」
「はいっ」

 珠洲が慌てたように羽ばたいて座敷を出ていった。
 動揺しすぎて、人に化けるのに時間がかかりそうだ。

「すまない。女中が失礼をした」
「えっ、別に失礼なんて……」

 寧々子がきょとんとしている。

「ところで、甘味処に行ったのか」

 寧々子がぎょっとしたような表情になった。