「初めまして、三池(みいけ)寧々子(ねねこ)と申します」

 震える声で挨拶をした寧々子は、ゆっくりと顔を上げた。
 目の前にいるのは、嫁入りをする相手――あやかしの国の王だ。
  
 端整な顔立ちはまるで彫像のように美しい。
 艶やかな金色の髪の毛先は赤く、まるで朱雀の長い尾羽のようだ。

 首回りに毛皮のついた赤いマントを羽織る姿は、王の名にふさわしい堂々たる出で立ちだ。
 あやかしの証のように、その両目は紅玉のように赤く輝いている。

(やっぱり……蘇芳(すおう)だ……)

 国の名にちなんで朱雀王と呼ばれる若き王は、その名のとおり輝く炎のような外見をしていた。
 右手の甲には赤い炎を象った聖痕のような模様が浮かんでいる。
 間違いない。十年前に自分を助けてくれた少年だ。

「このたびは、人間界から花嫁として参りました。どうぞよろしくお願いいたします」

 寧々子はドキドキしながら返答を待った。

「……朱雀国の王、蘇芳だ」

 ぼそりと名乗ると、蘇芳はおもむろに立ち上がった。

「後のことは侍従に任せてある」
「えっ……」

 それだけ言うと、蘇芳が素っ気なく背を向ける。

「あの、蘇芳様……」
「おまえはこの屋敷で大人しくしていろ。街に出るな。おまえに望むのはそれだけだ」

 長い金色の髪を揺らせ、蘇芳は部屋を出ていった。
 一度も寧々子の顔を見ることもなく。

「……っ」

 寧々子は呆然と閉ざされた障子を見つめた。
 手にした小さな箱が涙でぼやける。
 白い箱には挨拶代わりにと、手ずから作ったお菓子が入っていた。

(食べてもらうどころか、渡すこともできなかった……)
(私のこと、見てもくれなかった……)

 寧々子はこみあげる涙をぐっとこらえた。

        *

「申し訳ございません。蘇芳様は無愛想なもので……」

 黒髪に青い目をした袴姿の青年が部屋に入ってくるまで、寧々子は動くこともできず座布団の上で固まっていた。

「私は蒼火(そうび)と言います。蘇芳様の侍従(じじゅう)をしております」

 浅葱色の着物を着た青年は、18歳の寧々子より少し年上に見えた。
 蘇芳の侍従であるからにはあやかしなのだろうが、どこから見ても人間そのものに見える。
 力のあるあやかしは化けるのもうまいと聞いていたが、実際に目にすると驚くばかりだ。

 異界と人間界の狭間にある境目の国にいる、というのがまだ実感できない。
 朱雀の屋敷もそこにいる人々も、なんら人間界と変わりないように見える。

「初めまして、寧々子です。どうぞよろしくお願いいたします」

 蘇芳の侍従といえば、これから長い付き合いになるだろう。
 寧々子は丁寧に頭を下げた。

「あ、そんなかしこまらないでください。私は侍従にすぎませんから」

 深々と頭を下げ、額を畳みにつける寧々子に、蒼火が慌たように言う。

「私……何か蘇芳様のご機嫌を損そこねるようなことをしてしまったでしょうか……?」

 寧々子はいてもたってもいられず、不安を口にした。
 政略結婚だとわかっていた。
 だが、まさか一瞥(いちべつ)もされないとは思わなかった。

(……嫌われてしまったのかしら)

 どんどん心が沈み込んでいく。
 うなだれる寧々子に、蒼火が困ったように頭をかく。

「蘇芳様は私がお嫌みたいで……」

「いえ、寧々子さんのせいではありませんよ」

 蒼火のきっぱりした口調に、寧々子やようやく顔を上げた。

「蘇芳様は事情があって、人間を警戒していて……」

 言いづらいことなのか、蒼火が口ごもる。

「そうなんですか……」

 寧々子が、というよりも、人間が好きではないようだ。

「こうなった以上率直にお伝えしておきます。実はこの縁談に蘇芳様は乗り気ではなかったのです」
「……わかっています。政略結婚ですよね」

 寧々子は事前に受けた説明を思い出した。

「ええ。この結婚は異界を安定させるための婚姻です。陰陽のバランスをとるための、あやかしの王と人間の女性との契約結婚。望んで人間を(めと)るわけではありません」
「承知しております……」

 蒼火の言葉はすべて了承の上だったが、改めて聞かされるとずきりと胸が痛む。

「蘇芳様は国を統べる王として責務を果たすと決意して、嫁入りの申し出を受けました。寧々子さんを大事にしたいとは思っているはずですが、思うところがあるのでしょう」

 蒼火が悲しげな表情になる。

「どうか、蘇芳様の無礼をお許しください。本当はとても思いやりのある優しい人なのです」
「はい……」

 こちらの存在を完全に無視するかのような蘇芳の対応に少なからず衝撃を受けた寧々子だったが、やむを得ない事情があるようだ。

(異界のバランスをとるための形式的な婚姻だと承知の上でこの縁談を受けたんだから……)

 寧々子があやかしの王への嫁入りを受けた理由は二つ。
 一つは実家の莫大な借金を肩代わりしてもらうために。
 そして、もう一つ――。

(初恋の男の子に会えると思ったから……)

 政略結婚とはいえ、淡い期待をいただいていた。
 だが、素っ気ない態度に、すべてが打ち砕かれた。

 ――おまえはこの屋敷で大人しくしていろ。街に出るな。おまえに望むのはそれだけだ。

 寧々子に何ら期待していないのが明白な言葉だった。
 面倒事を起こすな、ということだろう。

俊之(としゆき)さんからも、似たようなことを言われたわ……)

 寧々子は元婚約者の俊之のことを思い出した。
 店の商売についての展望などを話そうとしたが、一笑に付された。

 ――きみはそういうことを考える必要はないから。

 軽んじられているのは明らかだった。
 その証拠に、利用価値がなくなった瞬間、あっさり捨てられた。

 きっかけは利害の一致だとしても、縁あって夫婦となるのだから、ふたりで協力しあって人生を歩んでいきたい。
 そう望む寧々子だったが、その願いは叶えられそうになかった。

(今度こそは、蘇芳様とならば、と思ったけれど)

 期待はあえなく散り、寧々子はしょんぼりとうつむいた。