「そんなわけなんだけど、田曽井、このあいだお腹壊してただろ」
 夜の配達が終わって社内で一息ついたとき、ドライバーズルームで田曽井の姿を見つけた僕は、集荷のときの一件を彼に話して聞かせた。田曽井は、僕がコーヒーを彼に押しつけたせいで、被害を被ったというのに、怒ることも慌てることもなく、黙って僕の話を聞いていた。つくづく冷静なやつだ。
「たしかにオレが腹を壊してたのは、オマエがコーヒーをくれた日が多かったが、いまさらそんなことを言われてもな」
「ごめん、僕がコーヒーを押しつけてたから」
「オマエが下剤を入れたわけじゃねえんだ。気にするな。まあ、仮にオマエがそんなことをしてるってことがわかったら、今ここでゲロ吐くまで殴ってやるよ」
 田曽井が口角を上げる。彼としては冗談を言ったつもりなんだろうけど、僕は笑えなかった。
「それに、仮に下剤入りのコーヒーを飲んだ日にオレがクソばっかりぶちまけてたからといって、いまさら因果関係は証明できねえだろ。缶は捨てちまったし、オレの体も、今はなんともねえ。……会社に報告するのもめんどくせえし、聞かなかったことにしてやるよ。……ただし、オマエは二度とオレに差し入れを横流しするな。ほいほい受け取ってたオレもわりいが、こんなことがあっちゃ、お互いに気まずいだろ」
「わかった、ごめんな田曽井」
「気にすんな、まあ、今度晩飯でもおごってくれ」
 田曽井はそう言って、テーブルの上の小銭をじゃらじゃらとかき集めると、入金のために僕の元から去っていった。

 ちょうど相良が帰ってきたので、「お疲れ」と声をかけてやる。「あ、アキトさん、お疲れっす!」と彼は笑顔になった。このところ相良は、すっかり以前のような調子を取り戻し、僕にも人懐っこく接してくれる。
 神田川の謹慎はまだ解けておらず、おそらくこのまま退職するのではないかと噂になっている。まあ、僕が彼の立場だったら、会社には居づらいから、さっさと身を引くだろう。
 このところ、営業所では、ボーナスの話でもちきりだった。僕たちはドライバー職でもあるが、同時に営業職も兼任しているので、ボーナスの査定に営業成績は大いに影響してくる。
 一つでも多く荷物を集めてくることが、僕たちドライバーに課せられているノルマだ。僕は日々の集配で手一杯だから、新しい取引先を開拓している暇はなかなかないけれど、今付き合いのあるお客さんたちのおかげで、自分のコースのノルマ以上に荷物を獲得できている。その状況を軽んじることなく、常に荷物獲得のために目を光らせておかなくちゃならないんだって怒られそうだけど、あいにく僕に、そんな上昇志向はない。
 それなりに仕事をして、生活ができるくらいの給料をもらえれば、それでいい。
 とはいえ、ボーナスとなると、心が湧き立ってくるのも事実だ。貰える額は時期によって違うから、一体どれくらい支給されるのだろうと、支給日が近づくにつれて、そればかりを考えてしまうものだ。
「俺たちの営業所だと、SSランクで百二十万ほどらしいぞ」と、他の班の社員が隣のドライバーに話している声が聞こえた。
「おまえ、いつもどこでそんな情報を仕入れてくるんだよ」
 僕もその意見に心の中で頷いてみる。シバイヌでは、社員の業務成績によって『営業所ランク』なんてものが決められる。その基準は、集配する荷物の量はもとより、ドライバーが事故や違反を起こしていないかや、営業車両のメンテナンスは適切に行えているか、カスタマーサービスの電話対応は丁寧に行えているかなど、挙げればキリがないほど多岐にわたっている。つまりは、職務内容に関係なく、従業員一丸となって、きちんと丁寧な仕事をしなさいということだ。
 僕たちの営業所のランクはわからないけれど、営業所のランクと、SSからDまで、従業員が評価されたランクを掛け合わせて、ボーナスの支給額が決まるのだ。
 先ほど聞こえてきた噂が本当なら、最高で百二十万円も貰えるとしたら、最低でもその半分は貰えるということだ。多く貰えるに越したことはないけれど、半分だったとしても、僕は充分だ。高級車が一台買えるくらいには、僕だって貯金しているのだ。
 ボーナスの話に花を咲かせているドライバーたちの傍を通り過ぎて、僕は事務所に入った。事務所にはカスタマー課が併設されており、パソコンと電話が並んだ事務机の前に、まだ何人かの社員が残っているようだった。里菜はいない。
 あれから、僕は里菜との接触を避けていた。社内でも顔を合わせることなく、彼女から送られてくるメッセージも返していない。
 逃げているのだ。清志との会話のあと、僕は里菜との関係に疑問を抱き始めた。ただ、結論を出すことから逃げていた。疑問を肯定してしまえば、今まで自分が築き上げてきた里菜との関係を、自分で否定してしまうことにならないか。それが怖かった。
 僕はなんと情けない男だろう。自分の保身にはしっていることはわかっている。そして、結果的には里菜のことを蔑ろにしていることも。僕には勇気が足りない。現状に踏みとどまるばかりで、それを打破できる気概が。