沈黙が続く。清志は勝手に冷蔵庫を開けて、グラスに麦茶を注いで戻ってきた。それをまた一気に飲み干して、空になったグラスをコツンとテーブルに置く。
「アキト」「キヨ」
 互いの呼び名が重なった。それで、二人のあいだに流れていた気まずい雰囲気がほんの少しほぐれる。「どうした?」と清志が言い、「キヨこそ」と僕が答える。
「何か言いたいことがあるんだろ。今度はキヨが僕に話す番だ」
 僕はもう、抱えていた秘密を話したんだから。
 清志に秘密はあるのだろうか。彼だって人間なのだ。抱えているもののひとつやふたつ、あるに違いない。清志がさっきの言葉の続きを話そうか迷っていることは、彼の態度からして一目瞭然だ。
 僕は待った。清志は僕に何かを話そうとしている。無理に促せば、彼はそれに蓋をしてしまうかもしれない。
 清志は、あーとか、うーとか、言葉にならない声を出して、そわそわしていた。挙動がおかしい。困ったような表情で僕を見て、視線を外し、また僕を見る。その後、五回も連続で深呼吸をしたあと、彼はソファーの上に正座をして、僕に向き直った。
「アキト」
 僕の名を呼ぶ彼の声は、今までに聞いた中で一番引き締まっていた。
「こんなこと言われるのは、困るかもしれねえけど……オレ、アキトが好きなんだ」

 人が他人に対して抱く好きという感情には、いろんな種類があると、僕は思う。家族、友達、ペット、友達とは言わないまでも仲の良い知り合い。
 清志が言った好きの種類は、そのどれでもなかった。
「オレ、ゲイなんだ」
「うん」
 僕は清志の告白に関して、頷くことしかできなかった。今まで全く気付かなかったといえば、それは嘘になる。ただこれまでは、もしかするとそうなのかなという小さな推測にしかすぎなかったし、わざわざそれを確かめる必要はないと思っていた。
 清志は僕と友達になってからずっと、恋人を作らなかった。彼の魅力に惹かれて言い寄ってくる女性たちをうまくかわしていた。それはきっと誰か好きな人がいるからなんだろうなと思っていたけど、彼がそのことには触れなかったので、僕も気にしていなかった。
 清志が職場のサッカーチームに顔を出しづらかった理由。それは、『他に好きなヤツがいるのに、女の社員に言い寄られて困っている』からだった。そして、僕が里菜と映画を観に行った話をしたとき、「オレも観たかった」と駄々をこねていた清志に、「好きな人を誘ってみれば」と提案した僕に、彼はこう言った。「いや、それは無理だ。ソイツも、その映画観たって聞いたし」と。
 清志の言った「ソイツ」とは、あのとき彼の目の前にいた僕だったのだ。
 アウトレットモールのスポーツ用品店の水着売り場で、競泳用の水着を履くことを躊躇った僕に、清志は「ちぇっ。水泳やってるアキト、結構好きだったのにな」とぼやいていた。聞き流していたけれど、いまとなってはその「好き」の意味も違って聞こえてくる。
「ごめんな、アキト。困るよな、こんなこと言われて」
 きもいよなと、彼は消え入るような声でつぶやいた。
「っ、そんなこと、ないっ! 絶対に、ない!」
「え?」
 いきなり大声で捲し立てた僕に驚いて、清志はきょとんとした表情で僕を見つめ返してきた。
「キヨ、話してくれてありがとう! キヨがどんな人を好きになったとしても、僕にはそれを否定することはできないし、するつもりもないよ。キヨが話してくれて、今までのキヨの行動や言葉が、あ、そういうことだったのかって納得できたし、……ごめん、ちょっと嬉しいんだ。……その、キヨがそんなふうに僕のことを想っていてくれて」
「アキト……」
 僕の名前が震える。彼はふっと顔を綻ばせたかと思うと、次の瞬間、ぼろぼろと涙をこぼしはじめた。
「ごめんなあ……オレ、こんなんで……なんでなんだろうな……ずっと言えないと思ってた。アキトに対する気持ちはオレの中で封じ込めておいて……ずっと友達のままでいようって思ってたんだ……。卑怯だよな、オレ……マジで。アキトが困ってるときにつけ込んでさあ……ほんとごめん……ごめんなあ!」
 彼はそれから周りを憚らずに、子供のように涙を流した。僕しかいないから、憚る必要はないのだけれど、これまで封じ込めていた想いが一気に溢れ出てきたようで、しばらく清志の感情の波がおさまることはなかった。
「なに謝ってんだよ。人を好きになることは、何も悪くないじゃないか。それがたまたま僕だっただけで、それだけのことでキヨが卑屈になる必要はない」
「アキトぉぉぉぉ!!!」
 清志の泣き声が大きくなる。大の男が、感情を爆発させているのだ。一体彼は、どれほどの感情を僕をはじめとする周りのみんなに必死に隠してきたのだろう。それはきっと並大抵の所業じゃなかったはずだ。
「アキトは、いま、オレだから、そんなことを言ってくれてんのか? ……その、気を遣って、そう言ってくれてるのか?」
 僕は首を横に振った。
「誰に対してもそう思っているよ」

 互いに抱えていたものを曝け出しあった僕たちは、憑き物がとれたかのように笑い合った。ソファーの上で清志が僕に飛び掛かってきて、僕はもみくちゃになった。前からスキンシップが多いなとは思っていたけれど、それも彼の個性のひとつだ。
 清志の気持ちに、僕がすぐに答えることはできないと言った。彼もそれは承知していたようで、「できればこれからも『親友』でいてくれたら、オレはそれでいい」と言ってくれた。
「キヨのことを否定しないなんて、君は良い友人を持ったね」と冷やかしのつもりで言ったのに、「本当にごめんな」とまた謝られてしまったので、何も言い返せなかった。
 また休みの日に遊ぼうなと約束をして、清志は帰っていった。静寂が訪れる。彼との別れがいつもより名残惜しく感じたのは、どうしてだろうか。
 一人になったリビングで、僕は電気もつけずに考える。
———僕は本当に里菜のことが好きなんだろうか———
 その答えは、部屋を染め上げていた夕焼けが沈んでしまっても、見つかることはなかった。