「いらっしゃいませ〜。あら?」
 目的地に到着して、扉を開けると、ちょうど久城さんはカウンターに立って、グラスにささったマドラーをかき回しているところだった。
「アキトくん、来てくれたの?」
「ええ、まあ……」
 さっきも配達で来ましたとは、言わなかった。客としてこの店に入るのは初めてのことだ。「スナック 麗」久城さんの名前をそのまま店名にしている。
「嬉しい〜! さあ、座って座って」
 久城さんは、自分の正面の空席に僕を促す。「ちょうどお客さんが帰ったばかりで、もう閉めようかと思ってたところなの」
「あっ、じゃあ帰り」
「いいのよ。せっかく来てくれたんだもの」
 僕の言葉を途中で遮って、久城さんは小皿にのったミックスナッツをテーブルに置いた。「なに飲む?」
「え?」
「えって、呑みに来たんでしょ? それとも、別の用事?」
 くすくすと笑う久城さんは、大胆に露出した肩を揺らした。配達の荷物を受け取る時の彼女とは、なんだか別人みたいだ。それこそ、相良へクレームを言ったときに初めてこの人を見たときとは。
「あ、はい、じゃあ、カルーアミルクを……」
「は〜い」
 久城さんはそう言って、小さめのグラスを背後のケースから取り出し、手際よくカクテルを作ってみせた。「そうだ、甘い飲み物に合うかわからないけど、今日作った料理が余ってるの。いつも配達してくれているお礼にサービスするから、よければ食べていって」
 そういえば、やっぱり腹が減っている。家から離れて、少し心も落ち着いたようだ。
「遠慮しないで食べてってね」
 久城さんはそう言って、僕の前に小皿と箸を置き、冷蔵庫からいくつかのタッパーを取り出して、中身をそれぞれ平皿に盛り付けて、レンジで温めてくれた。
 唐揚げ、卵焼き、きんぴらごぼう、手羽先の煮込み。どれも美味そうだ。
「これは、久城さんの手作りなんですか?」
「そうなの。こう見えて、アタシ、料理には自信があるのよ」
 箸をとって、卵焼きを口に放り込むと、出汁の旨みがジュワッと口に広がった。
「うまい!」
 それは決して世辞ではなかった。入れてもらったカルーアミルクなどそっちのけで、しばらく夢中で料理を貪った。
 ふうっと一息ついたとき、久城さんはお冷やの入ったグラスを置いてくれたので、それを一気に飲み干す。
「随分お腹が空いてたの?」
 久城さんは人の良さそうな笑みを浮かべて、カウンター越しに僕を見つめていた。
「あ、すみません、晩飯、食べそびれちゃって……」
「仕事、大変そうだもんね」
 今日夕食を摂っていないのは、仕事のせいじゃないんだけどなと言おうかと思ったが、やめた。初めてまともに会話をした相手に、僕と里菜のことを言っても、仕方ない。そりゃ、話のネタにはなるだろう。僕が第三者に里菜のことを話したとしたら、どう転んでも相手は僕のことを不憫に思い、里菜のことを悪く言う結果になるだろう。なんでそんな奴と付き合っているんだ。なんで暴力を振るわれて、平気でいられるんだ。そんな的外れなことばかり言われるのが目に見えている。自分のためにならないアドバイスをされて苛立つくらいなら、最初から何も言わない方がいい。
僕が黙っていると、久城さんが言った。
「なんかね、アキトくんみたいな若い子を見かけるとね、応援したくなっちゃうの」
久城さんはそう言って目を細め、僕の頭に手を伸ばしてきた。僕は体が硬直するのを感じる。しかし、その手は僕の髪をわしゃわしゃと撫でるに留まった。撫でられながら、僕はそこではっとして我に返る。僕は今、里菜以外の女性から頭を撫でられていたのか。それはなんだかとても変な気分だったが、嫌な気分ではなかったことに少し驚いた。
なんとか久城さんの手から抜け出して、二杯目の酒を注文する。
どうやら僕が料理を食べ終わるまで、久城さんは静かに待っていてくれたらしい。店内は僕と久城さんの二人きりだ。ということはもしかして、僕は一人の女性を独占状態にしているということになるのか。それは少し気が引ける。
二杯目のカルーアミルクを作ってもらってから、僕は話題を変えた。
普通は配達先の人がどんな生活をしているかなんて詮索しないものだが、話題作りのために、久城さんのプライベートに切り込んでいくことにしたのだ。どうしてこの仕事を始めたのか、と。
意外なことに、それはあっさりと聞くことができた。
彼女はかつて、普通の一般企業に勤めていたという。事務の仕事をしていたそうだ。しかし、その会社で、様々なハラスメントに遭い、強いストレスからか会社のトイレで倒れて病院に運ばれるほどの病気を患ったそうだ。幸い命には別状はなく、日常生活に支障はなかったらしい。
「そんなこともあって、ちょっと会社を休職する形になってたの。でも、結局会社は辞めることになったわ。一度体を壊しちゃって、それから就職活動するのも大変でね。かと言って、遊んで暮らせるほど裕福ではないし」
 そして彼女は、水商売を始めたのだそうだ。しかし夜の女というのは意外に厳しい世界らしく、それなりにお客さんはつくものの収入は安定しなかったという。そこで久城さんが見つけた新しい働き口が、今の店だったというわけだ。僕は彼女の事情をそこまで聞いた。