僕はふと思い立って、体を起こした。「どうしたの」と里菜が問うてくる。しかし僕はそれには答えず、彼女に背を向けて部屋を出た。
「ちょっと、どこに行くのよ!」
 無言で靴を履く僕の背後に、里菜が追いかけてくる気配がする。靴箱の上に置いてあった鍵と財布をサコッシュに突っ込んで、玄関の扉を開けた。
 逃避行。そう言えば大袈裟だが、互いの休みの前の日は一緒に過ごすと、いつの間にか暗黙の了解となっていたその掟を破るというのは、少し快感だった。そもそもそうしなければならないという縛りなどないのだ。夜になっても相変わらず外はジメジメと蒸し暑かったが、僕の気分は爽快だった。
 そうか、初めからこうしていれば良かったのだ。
 里菜の「発作」が出たとしても、何も最初から最後までそれに付き合うことなどない。僕がその場にいなかったら、あるいは家財などを破壊されるかもしれないが、僕の心が壊れるよりはましだ。
 とはいえ、悲しいかな、如何せん僕は手持ち無沙汰になる。品行方正とは口が裂けても言えないが、夜に街を出歩く習慣のない僕は、こんな時間に外に出て、何をすればいいのかわからなかった。
 ずんずんと歩き続ける。コンビニの明かりを浴びながらその前を通り過ぎ、やがてたどり着いたのは最寄りの駅だった。駅前の広場には、飲食店が数軒と、さっきと同じ、数字のロゴのコンビニが並んでいる。そのどれもが営業中だったが、入る気は起きなかった。
ポケットの中に入っているスマホで時間を確認すると、夜の十一時前になっていた。
 無機質な駅舎を見上げる僕の脳裏に、少し前に言われた言葉がよぎる。
 よかったら、プライベートでも、来てね。
 最近、毎日のように店に配達のある、久城さんが言っていた言葉だ。あの時僕は、「機会があれば」と答えた。社交辞令のつもりで咄嗟に言ったものだったが、その「機会」は、ともすると今なんじゃないだろうかと考える。
 気がつくと、僕は駅の改札をくぐり抜け、電車に乗っていた。感情に任せて家を出たはずなのに、貴重品の類いは持ち出してきた自分が可笑しくなる。
 電車の揺れに身を任せて、僕は職場の近くの駅を目指す。いつもは車で通勤しているから、通い慣れた場所へ、違う手段で向かうというのは新鮮だ。
 ガタンゴトンと揺れる音を聞いて思い出すことがある。日本でも指折りの女性歌手の一人は、この音が「Don't let me go」と聴こえたらしく、現状を憂いている主人公が、将来に不安を抱きながらも、燃えたぎるように熱い日々を過ごした青春時代を回顧しているという曲を作った。
 もう一度あの頃に戻りたい。僕もこれから歳を重ねると、自分の歩んできた道を振り返って、もう取り戻すことのできない「今」を縋るように求めるときがくるのだろうか。
Don't let me go, Don't let me go…… それは、もう二度と手にすることなく遠ざかっていく昔の自分への嘆きなのかもしれない。