「いやー、よくわかんないけど、助かったのかな」
 久城さんのマンションを後にして、僕たちはトラックに乗り込んだ。思ったより大ごとにならずに済んで、内心ほっとしていた。
「パネェっす」
 相良はそれだけ言って、助手席のダッシュボードにコツンと額を当てた。安堵したのは、彼も同じだったようだ。すぐに顔をあげて、僕を見る。
「ホントにありがとうございました!アキトさんが対応してくれなかったら、おれ、やばかったっす」
 相良は、はあっと大きく息を吐いた。心の底から安心したような表情をしていた。
「それにしてもあの女、なんでアキトさんの顔を見た瞬間、コロッと態度が変わったんでしょうね」
「さあ……」
 僕は、トラックのエンジンをかけながら、間の抜けた返事をした。
「アキトさんは昔、やべえほどの不良で、あの女もそれに気づいて、怖気づいたとかっすか?」
「そんなわけないじゃん」
 勝手に僕の過去を捏造するなと、笑って続ける。営業所に帰る道中、相良は憑きものがとれたかのように晴れやかな表情で、助手席に座っていた。
「海に行こうぜ」と、清志が突然連絡してきたのは、相良のクレームを片付けた日の夜で、僕の次の休みが清志の休みと重なったため、それはすぐに決行されることとなった。クローゼットの奥から、水着を引っ張り出し、ナイロンの袋に入れる。普段と違うことをするその一瞬すらも、特別感がある。

 清志とは、彼の家の近くのコンビニで合流した。車に乗り込んできた清志は、僕にペットボトルの冷たい水を手渡してくれる。白いTシャツに黒い膝丈のハーフパンツ。顔がいいから、それだけでも様になっている。僕は私服でもポロシャツだ。ネイビーの生地に船の錨のような模様が所狭しと散りばめられている。
「会いたかったぞ〜 アキトぉ」
「朝から酔ってんのか?」
 真顔で返した僕に、清志は「うるせえ」と脇腹にパンチをかましてきた。その後「うおおお固えええ!!」と拳を作っていた手をひらひらさせながら一人で騒いでいる。
 清志がシートベルトを装着したのを確認して、僕は車を発進させた。真夏の日差しは朝から容赦なく僕たちを照りつけていて、気温は既に三十度にさしかかろうとしているらしい。たまたまつけていたラジオから、気象情報が聞こえてきた。
『ここでラジオネーム、ミングミングラバーさんからのリクエストをおかけしましょう』 
気象情報が終わると、軽快なDJのナレーションと共に、誰かのリクエストソングがかかり始めた。永遠の歌姫と称された歌手の曲だ。もう別れてしまった二人の男女が、自分達の出会いと別れを振り返り、後悔しているさまを描いた歌詞がとても有名で、僕のカーステレオの中にも入っている曲だから、耳馴染みのあるメロディーだ。海までの道中、リズムに合わせて、自然にアクセルを踏む足にも力が入る。今は朝だけれど、夜のハイウェイなんかをとばす際に聴きたくなるのは、きっと僕だけではないはずだ。
「オレも失恋をしたら、どうしてこんなヤツと出会っちまったんだろって思うんだろうなあ」
ぽつりと、清志が呟いた。
「え?」
「いや、別に。好きなヤツがいたとしてさ、でもソイツとは絶対に付き合えないと分かってて、それならソイツには何も言わず、友達同士のままでいればオレもソイツも傷つかずにすむのかなあって」
「やけに具体的だな。例のキヨの片思いの話か?」
 僕の問いかけに、清志は意味ありげに微笑んだ。きっと清志には想いを寄せている人がいるのだろう。だけど、何らかの事情で、その人に清志の思いを告げることは出来ない。容易に考えられるのは、その人にはすでに恋人がいるという場合だ。
「変な歌を流すから、変な空気になっちまったじゃねえか」
 清志は一人で焦って、ラジオのチャンネルを変えた。

「なあ」と清志が話しかけてきたのは、海について、水着姿で二人並んで砂浜に寝転んでいる時だった。二人とも、レジャーシートだの、ビーチパラソルだのといった、いろんな道具を持ってこなかったから、全身が砂にまみれているし、直射日光がまともに照りつけてくる。ただひとつ持ってきたペットボトルの水は、すでに温くなっている。
ここは僕たちのすむ県では有数の海水浴スポットで、平日だというのに周りはたくさんの海水浴客で賑わっていた。家族ではしゃいでいる人たち、カップルでじゃれあっている人たち、SNSにでも投稿するつもりなのか、スマホで自撮りをしている女のグループ。学生と思わしき集団。みんなそれぞれの世界の中で、このひとときを堪能している。時折吹く風が、汗ばんだ身体を撫でていく。
「ある中年の男がいました。その男には、行きつけの店があって、中でもメニューの水炊きがめちゃくちゃ美味いから、男のお気に入りのメニューでした。男は自分の娘にもその水炊きを食べてもらいたくって、仕事が休みの日に、娘をその店に連れて行きました。店の女将はその二人を見て『あら、今日はいつもと違う人なのね』と、言いました。娘は特に何も言わず、男と美味い水炊きを楽しみましたが、男はその時、女将の発言を娘が蒸し返さないか、気が気ではありませんでした」
 清志が、上半身を起こして、そんな喩え話を始めた。首にかけたタオルで、顔の汗を拭いている。僕がタオルすらも持っていないのをみてか、傍に置いてある袋の中から、もう一枚タオルを取り出し、僕の顔の上に置いてくれた。
「サンキュ」
 僕も起き上がり、頭にそのタオルをかける。少しは日除けになりそうだ。
「アキトは今の聞いて、どう思った?」
「うーん。その中年男は、不倫でもしてるっていう前提の話か?」
「アキトの思うままで言ってみてくれ」
「その男は、色々と詰めが甘いよね。いくら水炊きが美味かったとしても、自分の家族を連れていくべきではなかった」
「一番多い答えだな」
「量産型……」
 そう言った僕をみて、清志はにっと笑った。そして、僕の背中を見やると「砂まみれじゃん」と言って、パシパシと両手ではらってくれる。
「アキトは今の話を聞いて、なんで男が不倫をしているって思ったんだ?」
「え?」
「オレは一言も、男は不倫をしているとは言ってないけどな」
「あ、ほんとだ」
 清志に言われて初めて気が付く。僕は、『中年の男』『行きつけの店』『女将の言葉』の三つだけで、中年男がこの店で不倫をしていたのだと思ってしまったのだ。
「この話をいろんなヤツにしてるんだけどさ、みんなおもしれえんだよ。大体が男が不倫をしているもんだって思い込んで、『不倫は悪いことだ』だの、『そもそもそんな店に娘を連れて行ったのが悪い』だの、『前に誰と来たかを仄めかす女将が悪い』だの、口々に言うんだ」
 清志のよく焼けた身体に、結露のように汗の玉が浮いている。僕は彼の首筋を流れていくそれを見ながら、言葉の続きを待った。
「オレは、その男が不倫をしていたとしたら、密会現場に、わざわざ家族を連れてくるようなことはしないと思うけどな」
「僕も含めて、みんな物事を一辺倒に見がちだってこと?」
「イッペントウ?アキトはたまにわけわかんないこと言うよな」
「そうかな……。一辺倒って、物事が一方に偏ってるって意味だったと思うけど」
「へええ!」
 清志は間の抜けた声をあげた。ちょうど僕たちの前を通った五人くらいのビキニの集団が、全員驚いたように清志を見る。彼女たちは互いに顔を見合わせ、意味ありげに口角をあげて、もう一度清志を一瞥して歩き去っていった。僕には彼女たちが、一瞬にして清志のルックスに好意を持ったようにしかみえなかったが、清志は全く気づいていないようだった。
「まあとにかく、色んなことを、色んな角度から見ないと、物事の本質ってヤツはわからねえってことだ」
「大の男二人が、海に来てする話か?」
「うるせえ」
 清志は、僕の上腕にパンチをしてきた。「痛い!」と、腕をさすりながら、僕はふと考える。くだんの中年男が不倫をしていなかった場合、女将の言った『いつもと違う人』の『いつも』に当てはまる人は一体誰なのだろうか、と。それは会社の同僚や部下なのかもしれない。そもそも女将は、その人のことを女性だとも言っていない。
「いつも一緒に来てるのは、奥さんかもしれないね」
「どうしてそう思う?」
「だって『女将の発言を娘が蒸し返さないか、気が気ではありませんでした』ってことは、男にとって、女将の発言がまずかったんでしょ。今までは娘に内緒で、奥さんと店に来ていた可能性もあるよね」
「さすが」
 清志はそれだけ言って、背伸びをした後、勢いよく立ち上がった。
「干からびる前にひと泳ぎして、飯でも食おうぜ」

 
 学生時代は、毎日のように泳いでいたというのに、社会人になってからは陸上で荷物を担いで走っているばかりだ。とはいえ、長年の鍛錬で僕の身体に染み付いた習性は、なかなか抜けることもないようで、海水に浸かると、すぐに勘を取り戻せたようだ。浅瀬で戯れ合っている海水浴客たちの間をぬって、僕は沖に向かってクロールで泳いでいった。後方から「ウヒョー!やっぱりはえー!」と、清志の声が聞こえてくる。
「ごめん、つい」
 泳ぐのをやめ、清志が追いついてくるのを待つ。プールで泳ぐのと比べて、海で泳ぐのは難しい。波はもちろん、水の流れもある。流れといっても、横に流されたり、沖に流されたり、浜に流されたりと、自分は、まっすぐ泳いでいるつもりでも、実際はかなり流されていることがほとんどだ。清志は運動神経が抜群だから、どんな運動もそつなくこなす。そんな彼が、僕に追いついてきた時には、直線上とはいえ、僕よりも結構離れたところにいた。
「どうやったらアキトみたいに、真っ直ぐ泳げるんだよ」
 ちゃぽちゃぽと波をかき分けながら、清志は僕の元へと泳いできた。海水浴場のたまり場からは少し離れた、遊泳可能エリアのぎりぎりの箇所まで到達していた。これ以上沖まで泳ぐと、砂浜で目を光らせている屈強なライフセーバーのお兄さん方に注意を受けるだろう。
「真っ直ぐにはなかなか泳げないけど、波に流されないようにするんだったら、遠くにある何かを、時々確認しながら泳ぐかな」
「なるほどなー」
「自分ではちゃんと泳いでいるつもりでも、意外と流されたりしてるから、軌道修正をするために景色を見るといいよ」
「さすがアキト。配達員よりライフセーバーになればよかったのにな」
 清志の言葉に、僕は苦笑する。他意はないのだろうけど、今の自分の立場を否定された気がして、心がもやっとなった。それは学生時代の僕が、将来の自分の姿を真剣に考えることなく、あれよあれよと流されるままに今の自分を造りあげてきたことに対する後悔からくる感情なのかもしれない。子どもの頃は水泳選手になりたいだとか、お金持ちになりたいだとか、それなりの夢を抱いていた。年齢を重ねるにつれ、そのどれもが現実的ではないと知った僕は、自覚のないままに諦めていったのだ。
「オレもここで溺れたら、アキトが助けてくれるかな」
「僕なんかに助けられたいの?」
 清志は僕の言葉に噴き出した。「助けてくれるって信じてるぜ」
 そう言って彼は、溺れたふりをして、僕にじゃれついてきた。
「うわわわわ、あぶ、あぶ、あぶないって!」
 清志は僕よりも細身とはいえ、大人の男だ。そんなのがいきなりまとわりついてきたら、僕もバランスを崩して溺れそうになるかもしれない。
「はー、やっぱアキトはいい身体してんなあ」
 清志は僕の胸に飛び込むかのように、自分の身体を預けてくる。
「オレ、筋肉フェチだからさ、アキトの体型はマジで理想なんだ。羨ましいぜ、全く」
 顔を下げると、上目遣いで僕を見る彼と、目が合う。妙な感覚だった。そして清志にそんな性癖があったということも、彼との付き合いの長さが両手の指では数えきれなくなったというのに、初耳だった。里菜もそんなことを言っていたけれど、僕の周りには同じようなタイプの人間が集まってくるのかもしれない。だから彼は、今の職業を選んだのだろうか。
「ごめん、キモかったか?」
 清志が僕の身体にまとわりつくのをやめた。二人の間に、子供が一人割り込めそうな隙間ができる。
「いや、大丈夫」
 僕はどちらかというと要領のいい人間ではない。だからこそ、この世界をどうにかこうにか生き抜くために、与えられた境遇のなかで、あらゆることを愚直に行う必要があった。それは自分の好きなことに対しても、だ。
 年齢を重ねていくにつれ、水泳というものは、ただ単にプールで自分勝手に泳いでいればいいというものではなくなった。他人と速さを競って輝かしい記録を残すことを目標とした「スポーツ競技」として、水泳に関わらなければならなかったからだ。スポーツジムでマイペースにゆったりと泳ぐだとか、何人かの仲間たちと連れ立って、町のプールで泳ぐだとか、「誰かと競わない」水泳をすることは、学生時代には叶わなかった。それはきっと、僕が学校の水泳部に所属していたことが因果なのであって、仕方のないことだ。
 とはいえ、僕はそれが嫌だったわけではない。嫌だったとしたら、当時の僕はそこから逃げ出していたはずだ。僕は自他共に認めるとおり、あまり自己主張の強い方ではなかったが、内なる承認欲求は人一倍に強かった(今もそうかもしれないけれど)。水泳部でもそれが幸いして、がむしゃらに身体を鍛え、誰よりも早く泳ごうとして時間の許す限り練習に打ち込んだ。才能なんてものは皆無に等しかったかもしれないけれど、それらが努力というのなら、僕は部内で一番努力をしていた自負がある。おかげで僕の承認欲求は、欠乏することなく、ほどほどに満たされていたように思う。
 筋肉フェチの清志が、僕の肉体を誉めてくれたのは、今になってもまだ心に巣食っているその欲求を満たしてくれた。つまりは嬉しかったのだ。心を猫じゃらしみたいなものでくすくすとくすぐられたような感覚におそわれる。
「ドン引きされなくってよかった」
 清志はそれだけ言うと、僕に背を向けて、砂浜に向かって泳ぎ始めた。褐色の背中が波を掻き分けていく。僕はその姿を見て、彼も充分に他人から賞賛される見た目をしているのになあと思った。

 海水浴場に併設されている海の家は水着のままで入っても大丈夫とのことだったので、僕たちは軽く身体を拭いたあと、食事を摂ることにした。僕はたこ焼き、清志は焼きそばを注文した。飲み物は二人とも、レモネードを選んだ。店内の隅の方の二人用のテーブルが空いていたので、そこに座る。清志は大盛りの焼きそばを見て、にこにこと笑っていた。
「うまそーだなあ」
 清志は割り箸を割り、ずるずると勢いよく麺を啜った。僕はその食いっぷりを眺めながら、たこ焼きを一口頬張る。
「こういうところで食べるものって、普段より美味しく感じるよね」
「だよな!祭りの屋台とかもな!」
 勢いあまって、清志は焼きそばのソースを胸元に飛び散らせてしまっていた。「あつっ!」と肌についたソースを拭いとる仕草をする。衣類を纏っていたら、シミになっていただろう。
「大丈夫?」
 どうみても大したことはなさそうだったが、念の為に聞いてみる。清志は「大丈夫」と答え、指についたソースをぺろりと舐めた。
しばらくの間、僕たちは無言でそれぞれの食事を楽しんでいた。店内は、夏の楽曲が大音量でかかっており、ところどころで賑やかなグループが歓声をあげているので、結構騒がしかった。非日常の空間を、各々が楽しんでいるのだろう。僕がたこ焼きの最後の一個に爪楊枝を刺した時だった。
「ねえ、アタシたちと遊びませんかあ?」
 頭上で声がした。明らかに僕たちに向けられたものだ。顔をあげると、ビキニ姿の女性二人が僕たちの横に立っていた。清志は焼きそばを口に入れる途中だったらしく、「ふあ?」と間抜けな声で応じた。
「座っていい?」
 女性たちは、僕たちの返事も聞かず、隣の座席から椅子を運んできて、僕と清志の隣に、それぞれ座った。きっと、自分の見た目に凄く自信を持っているんだろうなという立ち振る舞いの二人だ。顔のメイクもばっちり決め、スタイルの良い体躯を惜しげもなく披露している。そのくせ、嘘みたいに真っ白な肌だ。
「アタシは美優。女子大生でーす」
 僕の隣に座った女性が、僕の目を見つめながら名乗った。それに続いて「有紗でーす」と、清志の隣の女性が言った。「わたしたち、同じ大学、でーす」
「へえ」
 清志は、そう言ってレモネードを一口啜った。僕は知っている。それは、彼が、話題に興味がない時に出す声色だ。
「お兄さんたちは、学生さんですかあ?」
 有紗は、清志のよく焼けた二の腕に手のひらを付けながら、猫撫で声で言った。
「そう見えますか?」
 清志は、さりげなく身体を反らせ、有紗の手から逃れたようにみえた。
「二人とも、腹筋とか割れてるし、すごい筋肉だから、部活でもやってるのかなーって」
「残念だけど、オレたちは学生じゃないから」
「えー!みえなーい」
 美優が、大袈裟に目を見開いて、両手を口に当てた。その手が僕の腕に伸びてくる。ボディータッチの多い二人だ。
「何の仕事してるんですかあ?」
「あっ、僕が配達員で、キヨがジムのインストラクターです」
 有紗はきっと僕に聞いたのではないだろうけれど、清志がまたそっけなく答えそうだったので、雰囲気を悪くするのも悪いと思い、横槍を入れた。清志が無言で僕を見る。
「カッコイイ〜」
 二人は同時に同じことを言った。清志は無表情でその様子を見ている。目が笑っていない。
「え?じゃあ、じゃあ、お兄さんは名前なんて言うんですか?」
 美優が上目遣いに僕を見てくる。僕はもごもごと自分の名前を伝える。
「アキトさんと、キヨさんって言うんですね」
 美優は「ね」のあたりでにっこりと笑い、ついには自分の身体を僕にくっつけてきた。彼女の手が、僕の脇腹に触れる。正直、少しくすぐったい。
「キヨさん、彼女さんとかいるんですかあ?」
 有紗も負けじと、清志にまとわりついている。「いねえよ」とぶっきらぼうに言った清志は、もう一度レモネードを啜った。
「え〜、もったいなーい!こんなにイケメンなのにぃ」
 清志は、その職業柄もあるだろうが、誰とでも分け隔てなく、愛想よくコミュニケーションを図ることができる性格だ。だから、今彼が見せている態度に、僕は内心戸惑っている。確かにこの女性二人は、初対面だというのに随分と馴れ馴れしい。とはいえ、これまでも、清志のルックスに惹かれて声をかけてくる女性なんて、数多存在していた。僕の記憶では、そんな歴戦の女性たちと交際には発展せずとも、邪険にあしらっている姿など見たことはない。そんな清志が見るからにイライラしているのは、よほどこの二人の印象が悪いからなのだろうか。
「じゃあ、アキトさんは?」
「あっ、一応……」
 何だかいたたまれなくなって、僕もレモネードを喉に流し込んだ。清志は焼きそばを少し残しているようだが、皿に箸が乱雑に投げ出されている様子から、もう続きを食べる気はないようだ。僕はぬるくなった最後のたこ焼きを口に放り込み、ほとんど噛まずに飲み下した。気まずい。背中に汗が流れる。今気づいたが、店内は四方が開け放たれていて、空調は天井にいくつかぶら下がっている扇風機だけだから、外気が中まで入ってくるのだ。とはいえ、僕がだらだらと汗を流しているのは、きっと気温のせいだけではないはずだ。
「君たちは、こんなところで油売ってていいのか?多分オレもアキトも、二人にはなびかないと思うぜ」
 清志の放った冷たい言葉に、美優と有紗は目を丸くして、互いに顔を見合わせる。そして、急に笑顔が消えたかと思うと、有紗の方が「チッ」と舌打ちをして、「ちょっと顔がいいからってお高くとまってんじゃねえよ」と怒気をはらんだ低い声で言い放ち、「行こ」と美優に言ってそそくさと僕たちの元から立ち去っていった。美優は何だか名残惜しそうに僕の腹のあたりを見ていたが、有紗が「何してんのよ!!」とヒステリックに叫んだため、慌てて立ち上がり、小走りで遠のいていった。
「……随分そっけなかったね」
 グラスについた水滴を指で拭いながら、僕はおそるおそる言った。
「あんな奴らと関わると、碌なことが起きねえからな」
 清志は苦笑した。「釣れる男がいれば、誰でもいいんだよ、ああいう奴らは。どうせオレたちの身体か、金目当てだろ。興味もねえ奴らなんかの相手を、なんでしなきゃいけねえんだ」
「じゃあ、わざとそっけなく振る舞ったのか?」
「当たり前だろ。普段からオレはあんなことしねえよ。……それに今オレは、アキトと遊んでるんだ。オレは見ず知らずのヤツの相手より、友情を大事にするぜ」
「そっかあ、そうだよね」
「オマエもオマエだぞ。ベラベラとオレたちの職業をしゃべってんじゃねえよ。あれ以上個人情報をばら撒くなら、腹パンでもしてやろうかと思ってたぞ」
「……ごめん」
 そこまできつく言うようなことかな……と思ったが、清志のいうことは一理あるのかなとも思う。たったあれだけの情報だったとしても、僕たちの職場が特定されてしまう可能性だってあるのだ。「シバイヌの配達員です」と言わなくて、本当によかった。
「分かればいいよ」
 清志が笑う。もういつもの彼に戻っていた。海は街中と違って、水着姿になるからか、とても開放的な気分になる。身体のあらゆる箇所を露出しているのだから、目に映る誰かをそういう目で見てしまうのは、男も女も同じなのかもしれない。僕だって女だったとしたら、清志のような男がいたら、きっと目が釘付けになっていただろう。いや、女でなくとも、単純にかっこいいな、とは思ってしまう。現に、僕は今、思っている。それはきっと「恋」のような感情ではなく「憧れ」なのだろう。子供たちが、アニメのヒーローを見て「かっこいい!」と興奮するあれだ。とすると、僕は、清志に憧れているのだろうか。
「もうひと泳ぎして帰ろうぜ!」
 清志はそう言って、箸を掴むと、残っていた焼きそばを一気にかき込んだ。もごもごと咀嚼しながらレモネードの残りも飲み干して、席を立つ。僕も慌ててレモネードを一気飲みして、清志の後についた。
 昼時は過ぎているというのに、海の家の中は混雑していて、人混みをかき分けるのは大変だった。おかげで、砂浜についたときは、僕はじんわりと汗をかいていた。日はまだ高く、ジリジリと僕たちを焼いている。年々、夏の暑さが、最高記録を更新しているような気がする。火照る身体に、冷たい海水は、とても気持ちよかった。
 頭が痛い。しまったと、僕は思った。
 配達件数が多く、水分補給もそこそこに走り回っていたせいだ。コンビニに駆け込んで購入した、二リットルのペットボトルの水を、喉に流し込む。
「あーーーー!」
 水の美味さに、思わず運転席で独りごちるが、飲んだ分だけの量の汗が、全身から噴き出てくる。トラックのエアコンの風量を全開にする。生ぬるい風が、湿ったポロシャツに吹き付けてくる。がんがんと頭の中にしつこく巣食う鈍痛に、僕はイライラしていた。自業自得なのはわかっている。舌打ちをして、アクセルを踏んだ。
 ストレスが溜まる仕事だ。いや、どの職業に就いていたとしても、そうなのかもしれない。現代社会に生きる人間は常に、ストレスと闘っているといっても過言ではない。

 営業所に帰ると、昼の便も山のように荷置き場に積まれてあって、うんざりとした。トラックの観音扉を開けて、トラックバースに車体を近づけたあと、その全てを車内に積み込んでいく。
「おう城谷、お疲れ」
 二百サイズの段ボールを担ぎ上げ、荷台に足を踏み入れた僕の背後から、田曽井が声をかけてきた。
「お疲れ」
 荷物をどかっと下ろし、田曽井のほうを見る。僕はこんなに忙しいのに、こいつはこんなところで油を売っている暇があるのかと、思う。
「大変そうだな。手伝うか?」
「別にいい」
 本当は猫の手も借りたいくらいだったが、自分のコースの荷物は、自分で片付けないと、ドライバー失格だという概念があったし、何より、今はあまり人と関わりたくない気分だった。
「そうか。頑張れよ」
 田曽井はそう言って、スタスタと構内に消えていった。彼はいわゆるウザ絡みはしてこないタイプだ。僕が内心イライラしているのを、悟ってくれたのかもしれない。社内の全員が田曽井のように空気が読める人間とは限らないが、同じコースを走る軽四ドライバーの小泉も、思慮深い人物の一人だ。
「城谷さん、ちょっといいですか……きゃっ!」
 僕がトラックの荷台の中でシャツを替えようと、汗拭きシートで身体を拭いていたときに、彼女が姿を現したのだ。そういえば直前に、軽四のバック音が、隣でピーピー鳴っていた気がする。
「すみません」
 僕が服を着ていないからだろう、小泉は顔を背けてそう言った。汗拭きもそこそこに、僕は「ごめんごめん」と言い、慌ててシャツをかぶる。
「で、どうしたの?」
「城谷さんの昼便の配達が多いと聞いて、少しでも手伝おうかなと思いまして。あ、相良くんから聞いたんです」
「小泉さんは大丈夫なの」
「はい、私はもう、時間指定の宅配だけなので」
「そっか。じゃあ、少しだけ頼もうかな」
「任せてください!」
 僕は、小泉の軽四の荷室を確認し、そこに積めそうな荷物を厳選していく。それぞれの住所が近いところに配達する小物が中心だが、それを行ってくれるだけで随分と僕の負担が軽減される。
「ん?」
 荷物を探っている途中、僕はひとつの段ボールに貼られた伝票に目が留まる。宛名のところに「久城麗様」と書いてあるものだった。住所は、僕の担当エリアの中にある雑居ビル。夜にネオンがキラキラとやかましく輝いている印象があるところだ。
 荷物には夜の時間帯指定のシールが貼ってある。これも小泉に渡そうかと、一瞬思ったが、彼女も夜は配達がたくさんあるかもしれないと考え直し、自分で行くことにした。
「じゃあ、これだけお願いします」
 僕はそう言って、小泉にいくつかの荷物を手渡すと、彼女は快く引き受けてくれた。
 夜になり、最後の配達として、僕は久城さんの店に行った。雑居ビルの老朽化したエレベーターに乗り、店のある階まで昇る。エレベーターが開くと、その真正面に片開きの板チョコ柄の扉が目に飛び込んでくる。こういう店は、大体裏口から訪ねるべきなのだろうけど、そもそもそれがどこなのか分からない。それに扉にはまだ準備中という札が掛かっているから、正面から入っても差し支えないはずだ。
「こんばんは!カラー運輸です」
 扉を開けて、声をあげる。暗い店の奥から、タキシードを着た若い男が顔を覗かせ「はい」と無愛想に言う。僕がその男に「久城様宛にお荷物が届いています」と伝えると、彼はふんと鼻を鳴らし、奥へと引っ込んだ。僕がその場で待っていると、しばらくして、久城麗が姿を現した。
「あらあ、このあいだのお兄さん、ご苦労様〜」
「ご無沙汰しています。先日は、大変失礼いたしました」
「いいのよ。アタシもむしゃくしゃしてて、あなたたちに当たっちゃって、ごめんなさいね」
「あ、いえ、そんな……あ、これお荷物です」
「ありがと」
 久城さんはにこやかにそう言って僕から荷物を受け取った。ボールペンで伝票にサインを書いたあと、僕の手に触れ「よかったら、プライベートでも、来てね」と耳元で囁く。僕は鳥肌が立ったが、平静を装って「き、機会があれば……」と愛想笑いをした。
 店を出て、小走りでトラックに戻る。どうもああいう雰囲気の場所は苦手だ。仕事だから仕方ないが、極力近寄りたくはない。早くここから立ち去ろうと、どことなく気分が急いてしまい、僕はトラックをエンストさせてしまった。

 営業所に戻ると、何やら構内がざわついていた。荷下ろし場に人だかりが出来ている。何事だろうと思い、「どうかしたんですか」と、近くにいた社員に尋ねる。
「田曽井さんと神田川さんが言い争ってて……」と、その社員は伏し目がちに言った。
「え?」
 僕はすみませんすみませんと、人をかき分けて、人だかりの先頭へ飛び出した。そこには、向かい合って対峙する田曽井と神田川、それに田曽井の背後で腕を前に組み、俯きながら震えている相良の姿があった。
「だからさっきも言いましたけど、ここまで大袈裟にことを荒立てるようなことでもなかったでしょう」
「大袈裟にしたのはどっちだ。お前がいちいち首を突っ込んでこなければよかったんじゃないのか」
 神田川を睨む田曽井に、嘲笑で受ける神田川。僕は状況がよく分からず、「何があったんですか」と、隣で固唾を飲んでいる社員に聞いてみた。
「あそこで俯いてる子が、破損している荷物を客に謝らずに配達してしまったらしい。それでクレームが来て、神田川さんが謝罪に行ったんだけど、その後あの子に注意してたら、田曽井くんが割って入ってきたんだ」
 ここに人だかりを造っている社員たちの多くは、神田川が相良にパワハラをしている疑いがあることは、おそらく知らないだろう。だから、僕に説明をしてくれたこの彼も、なぜ田曽井が二人のあいだに割って入ったのか、疑問に思っているのかもしれない。
「オレも回収してきた荷物を見ましたけど、荷姿を見ただけじゃ、中身が破損しているなんて思いもしなかったと思いますよ。ダンボールはどこも破損していなかったし、相良が何も言わずに配達したのも、致し方ないんじゃないですか」
 田曽井は淡々とそう言った。神田川の眼鏡の奥の目が、キュッと細まる。こうして見ると、彼は運送会社の配達員というよりは、胡散臭い理系のビジネスマンのような見た目をしている。シバイヌのポロシャツではなく、スーツを着て、どこかの商社に紛れ込んでいても一瞬にして馴染みそうだ。腕っ節の力ではなく、理論で相手も打ち負かそうとしそうなのに、相良に対する仕打ちが事実だったとしたら、見た目からは乖離した印象だ。
「だから何だ。俺はそんなことを言っているんじゃない。そいつが素直に自分の非を認めなかったことに、注意をしただけだ。」
「破損に気づかなかった、と相良は言っただけですよね。自分の状況を説明しただけで、非も何もないでしょう」
「言い訳だ。客にそんなことが通じると思っているのか」
「客には謝罪をしたんだからもういいでしょう。俺らの間では『運が悪かったな』で済むようなことを、いつまでもネチネチネチネチ言ってるから、相良も萎縮しちまってるじゃないですか」
「始めからそうやって危機感も持たずに仕事をさせていたら、いざ大きなクレームになった時にどうするんだと、俺は言っているんだ」
 二人の押し問答がなかなか終わらないので、人だかりはやがてばらけていき、残されたのは僕だけとなる。みんな各々の業務が残っているのだろう。神田川と田曽井が取っ組み合いの喧嘩でも始めたらえらいことになりそうだが、今のところはそんな様子はなさそうだから、みんな関心を示さなくなったのだ。社員同士の小競り合いは、血の気の多い男たちが集う会社ではたまにあることだ。それにいちいち干渉していたら、身がもたない。とはいえ、僕には他人事とは思えなかった。無視をしてはいけないと思いつつも、今更僕まで参戦したら、余計に話がこじれるかもしれない。だから僕は、何をするでもなく、そこに立ち尽くして、成り行きを見守っていた。
「あ、あの、す、すみませんでした、おれ、もっと気をつけて、仕事、します」
 険悪な二人の間を埋めるかのように、相良が田曽井の横に出てきて、震える声で言った。神田川に深々と頭を下げる。伸びた手が、スラックスのクリースのあたりを、ぎゅっと掴んでいる。
「俺の足を引っ張りやがって、クズが」
 神田川は、吐き捨てるように言うと、田曽井と相良の脇を、早足で通り去っていった。構内の、荷物を流すベルトコンベアの轟音に紛れて、相良が鼻を啜る音がはっきりと聞こえた。肩を震わせ、腕で目頭を拭う姿を見た僕は、居た堪れなくなって、神田川の後を追いかけた。
「待て!!!!」
 いくら班が違うからといっても、神田川は営業主任という肩書きをもつ目上の人間だ。そんな人に投げるべき言葉ではない。頭の中では分かっていても、込み上げてくる怒りが理性を制御できなかった。神田川が立ち止まり、振り返る。奴の名を呼んだわけではないのに、反応したのは、自身に心当たりがあるからなのだろう。
「誰だお前」
 僕に投げつけてきた言葉の冷たさに、一瞬怯んだが、「久住班の、城谷です」と名乗る。
「フン、相良のお気に入りか」
「別にそんなんじゃないですけど、さっきのは言い過ぎじゃないですか?相良に謝ってください」
 感情の成すがまま、僕は神田川に詰め寄った。上背は奴の方が大きいが、身体の厚みは僕の方が勝っている。万が一殴りかかられても、負けはしないだろう。
「他所の班の者が、口を挟むな」
「誰であろうと関係ない。まだ経験の浅い新人を泣かせるなんて、上司失格だ!」
 今度は僕が注目の的になる番だった。営業所に帰ってきたドライバーたちがその後の業務のために集まる部屋をドライバーズルームというが、そこから何事かと顔を出して見てくるドライバー然り、帰り際に気まずそうに横を通っていく社員然り。田曽井の時と違うのは、周りに人だかりはできないところだ。
「口の利き方がなってない奴だな。社会人失格だぞ」
「話を逸らすな!おま……あなたのやっていることはパワハラだ!仮に相良に非があったとしても、あいつを貶めていい理由にはならない!」
 僕も思わず口を滑らせてしまいそうだったが、寸でのところで言い直した。怒りやら焦りやらで身体が熱くなって、冷や汗が背中に流れるのを感じる。
「アキトさん、すみませんおれのせいで……もういいっす。アキトさんまで巻き込んで騒ぎにしたくないです」
 パタパタと足音を鳴らして、相良が近寄ってくる。目が潤み、赤くなっている。彼がそう言うなら……と引き下がることも一瞬考えたが、ここでうやむやになってはいけないと、後には引けなかった。
「やめておけ」
 口を開こうとした僕の腕を引っ張ったのは、田曽井だった。思いのほか、強い力で腕を掴まれる。僕が振り解いて、神田川に突っかかっていかないためだろうか。田曽井の顔を見ると、鋭い眼光を投げかけられ、たじろいだ。
「あまり騒ぐな。気持ちはわかるが、相良の気持ちも分かってやれ」
「……」
 僕はあまり納得がいかなかったが、田曽井の言うことに従った。神田川はチッと舌打ちをして、場から離れていく。ドライバーズルームから顔を覗かせていた他の社員たちも、騒ぎが収まったと認識したのか、各々の業務へと戻っていった。僕は怒りを燻らせたまま、「残荷を片付けてくる」とぶっきらぼうに言い放ち、田曽井と相良とは目も合わせずに、トラックへと戻った。僕がもっと分別の無い人間だったとしたら、壁や物に当たっていたかもしれない。それほどに、感情のやり場に困っていた。
「くそったれ……」
 トラックの荷台に僕の独り言が虚しく響いた。

「城谷、ちょっといいか」
 業務が終わり、着替えを済まして更衣室から出た僕を、田曽井は待ち構えていたようだ。隣には相良も立っていた。僕を見て、ぺこりと頭を下げる。肩から提げているショルダーバックの紐を、両手でぎゅっと掴んでいた。
 僕に拒否権はない。田曽井、相良、僕の順に並んで廊下を歩き、階段を降りる。三人揃って社員証を機械にかざし、退勤の打刻をした後、建物の外に出た。営業所の入り口のすぐ近くには、自販機が並んでいて、ベンチが何台か置かれている。さらには灰皿も設置されているから、業務の合間や終業後に、そこでたむろして雑談をしている社員を見かけることが多い。
 田曽井は自販機で飲み物を三本買い、僕と相良に一本ずつ投げて寄越した。
「ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
 僕には水、相良にはオレンジジュース。そして自分は缶コーヒー。それぞれの好みの飲み物を購入してくれたようだ。
「お前があんなにキレるとは、ちょっと意外だった」
 ベンチに腰をおろした田曽井は、缶コーヒーのプルタブを開け、空を見ながらそう言った。相良もそれに倣う。僕も続くと、相良を真ん中にして三人の男が夏空を見上げながら飲み物を飲んでいる光景が出来上がった。
「い、いや、だってあれは」
 夜とはいえ、真夏だ。昼間ほどではないが、じめじめと蒸された空気が身体にまとわりつく不快感は、健在だった。時折吹く申し訳程度のそよ風が心地よい。
「おれがもっとちゃんとしてたら、田曽井さんにもアキトさんにも迷惑をかけることはなかったと思います。すみません」
 相良が言葉にも缶を握る手にも力を入れて言った。アルミ缶がペコっと鳴る。
「相良、お前はあまり自分を卑下するな。卑屈になると、どんどん病んでいくぞ」
「……はい」
「社会なんてな、理不尽なことしかないもんだ。どこに行っても、どんな仕事をしていても、神田川みたいなヤツはいる。相良がこの先どんどん成長して、俺たちより優秀なドライバーになったとしても、ああいうヤツはお前の揚げ足取りをしてくるだろう。そんな糞みてえなヤツに人生を狂わされるなよ。お前が頑張ってることは、みんな知ってるから。なんかあったら、俺と城谷が守ってやるから、元気出せ」
「……うぅ」
 相良が俯いて、ズズズっと長く鼻を啜った。田曽井はぽんぽんと優しく、相良の頭を撫でる。
「僕も班は違うけど、いつでも頼ってよ」
「暴力沙汰は起こすなよ」
 間髪入れずに田曽井が茶化してくる。「うるさい」と一蹴し、そっぽを向いて、水をがぶ飲みした。
「リングの上ならあんなヤツ、ボッコボコにしてやるんだがな」
 そう言って田曽井は缶コーヒーを飲み干し、その缶をぐしゃりと潰した。僕はぎょっとする。スチール缶を片手で潰せる人間を見たことがなかったからだ。田曽井なら、リンゴも粉々に砕いてしまうんじゃないだろうか。
「お二人とも、ありがとうございます、おれ、頑張ります」
 顔をあげた相良に笑顔が戻っていた。目はまだ潤んでいたが、「ちなみに頭の中で、主任を何回もブッ飛ばしてます」と、拳をつくってみせてきた。田曽井がにっと笑い、「オマエもなんかやってたのか」と聞くと、相良が「学生時代は喧嘩ばかりしてたっす」と言ったものだから、僕はまた驚いた。喋り方からしてやんちゃそうな奴だなとは思っていたけれど、学生時代の彼は、僕が考えていた以上のやんちゃっぷりだったのかもしれない。
「よく我慢したな」
「やっぱ、大人になって、真面目に生きようと思ったんで、なるべくキレないようにって決めてました。社会に出たら、ガキの時の喧嘩の強さなんて、なんの役にも立ちませんから。でも、悔しいもんは悔しいし、お二人の優しさに感動して、ちょっと泣いちゃったっす」
「神田川のパワハラを、課長や所長に報告する気はないの?」
「アキトさんはどう思うんすか」
 相良がオレンジジュースの蓋を開け、ぐびぐびと飲んでいる間に、僕は考えた。
「僕なら、する、かな」
「おれはしません。めんどくせーし。いつか、おれにしてきたことが公になって、自滅してくれるのを待つっす。冷凍庫に閉じ込められた時は焦ったけど」
 僕は相良のことを少し誤解していたかもしれない。お調子者だけど、少し気の弱い子犬のような奴だと思っていた。だが、実際は違う。子犬も牙を剥く時だってあるのだ。いや、もしかすると彼は子犬のふりをしているだけかもしれない。愛らしく振る舞って、味方をつくり、いざという時には敵を欺く。良い意味で狡猾な獣のように。
「冷凍庫の件、神田川にやられたって気づいてたの?」
「はい。直前におれ、主任に怒られてましたし、冷凍庫に荷物を返しにいく時、近くに主任がいましたから。最初は自分の不注意で鍵が閉まっちゃったのかなと思ってましたけど、そんなことありえないはずだし」
「神田川がやったっていう証拠はあるのか?」
「もちろんっす」
 そう言って彼は得意げな表情でポケットからスマホを取り出した。しばらく操作して、僕たちに画面を見せてくる。そこには、営業所の防犯カメラのモニターを映した動画が表示されていた。
「守衛のおっちゃんに頼んで、あの日の防犯カメラの映像を見せてもらったっす。『荷物を無くしちゃったみたいで』って頼んだらすんなり確認させてくれました。おっちゃんがタバコを吸いに行ってる間に、この映像を観ました」
 相良のスマホの中の動画に映るモニターには、彼が冷凍庫に入った後、扉の鍵を閉める神田川の姿がはっきりと映っていた。
「おれの切り札っすよ。ちゃんと家のパソコンにバックアップも取ってます。もしスマホを壊されたとしても、証拠は消えないっす」
「すげえじゃん」
 田曽井はなぜかとても嬉しそうにそう言った。「オレとしてはすぐにでもその動画を拡散してほしいところだけど、まあ、それは相良の気持ちを尊重するよ」
「田曽井さんが言うなら、考えときます」
 相良が言い終えた後、一際強い風が吹いて、僕はぶるっと身体を震わせた。
「ふうん、良かったじゃない。相良くんもやられてるだけじゃなかったのね」
 里菜が僕の背中の上に乗ったまま、感心した様子で言った。家に帰ると里菜が出迎えてくれたのだ。合鍵を使って僕の家に入っていたようだ。随分と待ちくたびれていたようで、手持ち無沙汰となっていた彼女は、僕が日課としている筋トレの、プランクをこなしている時に、ふざけて背中に乗ってきたのだ。僕はフーッと息を吐き、時間が流れるのを待った。胸筋や腹筋がぎゅっと収縮し、身体が地に着くまいとぷるぷる震えている。汗が床に流れ落ちて、小さな水溜まりができていた。
「相良も、ちゃんと、自分の、身を守るために、いろいろ、考えてて、良かった」
 女とはいえ、いつもより大人の人間一人分の負荷が上半身にかかっているのだ。一句一句、言葉を絞り出すように、話す。床に着けている腕が痺れてきて、頭がぼうっとなってきた頃、セットしたスマホのタイマーが鳴り、それと同時に僕は床に平伏した。
「お疲れ」
 人を乗せての三分間のプランクは、拷問に近い。僕は荒い呼吸がしばらく止まらず、うつ伏せのまま動けないでいた。
「やば、死ぬかと思った」
「そりゃあ、私を乗せて十分もやってたらそうなるわよ」
 里菜は呆れたようにそう言ったが、僕が頼んだわけではない。彼女が勝手に上に乗ってきたのだ。僕は起き上がって「シャワー浴びてくる」と言い残し、リビングを後にした。