学生時代は、毎日のように泳いでいたというのに、社会人になってからは陸上で荷物を担いで走っているばかりだ。とはいえ、長年の鍛錬で僕の身体に染み付いた習性は、なかなか抜けることもないようで、海水に浸かると、すぐに勘を取り戻せたようだ。浅瀬で戯れ合っている海水浴客たちの間をぬって、僕は沖に向かってクロールで泳いでいった。後方から「ウヒョー!やっぱりはえー!」と、清志の声が聞こえてくる。
「ごめん、つい」
泳ぐのをやめ、清志が追いついてくるのを待つ。プールで泳ぐのと比べて、海で泳ぐのは難しい。波はもちろん、水の流れもある。流れといっても、横に流されたり、沖に流されたり、浜に流されたりと、自分は、まっすぐ泳いでいるつもりでも、実際はかなり流されていることがほとんどだ。清志は運動神経が抜群だから、どんな運動もそつなくこなす。そんな彼が、僕に追いついてきた時には、直線上とはいえ、僕よりも結構離れたところにいた。
「どうやったらアキトみたいに、真っ直ぐ泳げるんだよ」
ちゃぽちゃぽと波をかき分けながら、清志は僕の元へと泳いできた。海水浴場のたまり場からは少し離れた、遊泳可能エリアのぎりぎりの箇所まで到達していた。これ以上沖まで泳ぐと、砂浜で目を光らせている屈強なライフセーバーのお兄さん方に注意を受けるだろう。
「真っ直ぐにはなかなか泳げないけど、波に流されないようにするんだったら、遠くにある何かを、時々確認しながら泳ぐかな」
「なるほどなー」
「自分ではちゃんと泳いでいるつもりでも、意外と流されたりしてるから、軌道修正をするために景色を見るといいよ」
「さすがアキト。配達員よりライフセーバーになればよかったのにな」
清志の言葉に、僕は苦笑する。他意はないのだろうけど、今の自分の立場を否定された気がして、心がもやっとなった。それは学生時代の僕が、将来の自分の姿を真剣に考えることなく、あれよあれよと流されるままに今の自分を造りあげてきたことに対する後悔からくる感情なのかもしれない。子どもの頃は水泳選手になりたいだとか、お金持ちになりたいだとか、それなりの夢を抱いていた。年齢を重ねるにつれ、そのどれもが現実的ではないと知った僕は、自覚のないままに諦めていったのだ。
「オレもここで溺れたら、アキトが助けてくれるかな」
「僕なんかに助けられたいの?」
清志は僕の言葉に噴き出した。「助けてくれるって信じてるぜ」
そう言って彼は、溺れたふりをして、僕にじゃれついてきた。
「うわわわわ、あぶ、あぶ、あぶないって!」
清志は僕よりも細身とはいえ、大人の男だ。そんなのがいきなりまとわりついてきたら、僕もバランスを崩して溺れそうになるかもしれない。
「はー、やっぱアキトはいい身体してんなあ」
清志は僕の胸に飛び込むかのように、自分の身体を預けてくる。
「オレ、筋肉フェチだからさ、アキトの体型はマジで理想なんだ。羨ましいぜ、全く」
顔を下げると、上目遣いで僕を見る彼と、目が合う。妙な感覚だった。そして清志にそんな性癖があったということも、彼との付き合いの長さが両手の指では数えきれなくなったというのに、初耳だった。里菜もそんなことを言っていたけれど、僕の周りには同じようなタイプの人間が集まってくるのかもしれない。だから彼は、今の職業を選んだのだろうか。
「ごめん、キモかったか?」
清志が僕の身体にまとわりつくのをやめた。二人の間に、子供が一人割り込めそうな隙間ができる。
「いや、大丈夫」
僕はどちらかというと要領のいい人間ではない。だからこそ、この世界をどうにかこうにか生き抜くために、与えられた境遇のなかで、あらゆることを愚直に行う必要があった。それは自分の好きなことに対しても、だ。
年齢を重ねていくにつれ、水泳というものは、ただ単にプールで自分勝手に泳いでいればいいというものではなくなった。他人と速さを競って輝かしい記録を残すことを目標とした「スポーツ競技」として、水泳に関わらなければならなかったからだ。スポーツジムでマイペースにゆったりと泳ぐだとか、何人かの仲間たちと連れ立って、町のプールで泳ぐだとか、「誰かと競わない」水泳をすることは、学生時代には叶わなかった。それはきっと、僕が学校の水泳部に所属していたことが因果なのであって、仕方のないことだ。
とはいえ、僕はそれが嫌だったわけではない。嫌だったとしたら、当時の僕はそこから逃げ出していたはずだ。僕は自他共に認めるとおり、あまり自己主張の強い方ではなかったが、内なる承認欲求は人一倍に強かった(今もそうかもしれないけれど)。水泳部でもそれが幸いして、がむしゃらに身体を鍛え、誰よりも早く泳ごうとして時間の許す限り練習に打ち込んだ。才能なんてものは皆無に等しかったかもしれないけれど、それらが努力というのなら、僕は部内で一番努力をしていた自負がある。おかげで僕の承認欲求は、欠乏することなく、ほどほどに満たされていたように思う。
筋肉フェチの清志が、僕の肉体を誉めてくれたのは、今になってもまだ心に巣食っているその欲求を満たしてくれた。つまりは嬉しかったのだ。心を猫じゃらしみたいなものでくすくすとくすぐられたような感覚におそわれる。
「ドン引きされなくってよかった」
清志はそれだけ言うと、僕に背を向けて、砂浜に向かって泳ぎ始めた。褐色の背中が波を掻き分けていく。僕はその姿を見て、彼も充分に他人から賞賛される見た目をしているのになあと思った。
「ごめん、つい」
泳ぐのをやめ、清志が追いついてくるのを待つ。プールで泳ぐのと比べて、海で泳ぐのは難しい。波はもちろん、水の流れもある。流れといっても、横に流されたり、沖に流されたり、浜に流されたりと、自分は、まっすぐ泳いでいるつもりでも、実際はかなり流されていることがほとんどだ。清志は運動神経が抜群だから、どんな運動もそつなくこなす。そんな彼が、僕に追いついてきた時には、直線上とはいえ、僕よりも結構離れたところにいた。
「どうやったらアキトみたいに、真っ直ぐ泳げるんだよ」
ちゃぽちゃぽと波をかき分けながら、清志は僕の元へと泳いできた。海水浴場のたまり場からは少し離れた、遊泳可能エリアのぎりぎりの箇所まで到達していた。これ以上沖まで泳ぐと、砂浜で目を光らせている屈強なライフセーバーのお兄さん方に注意を受けるだろう。
「真っ直ぐにはなかなか泳げないけど、波に流されないようにするんだったら、遠くにある何かを、時々確認しながら泳ぐかな」
「なるほどなー」
「自分ではちゃんと泳いでいるつもりでも、意外と流されたりしてるから、軌道修正をするために景色を見るといいよ」
「さすがアキト。配達員よりライフセーバーになればよかったのにな」
清志の言葉に、僕は苦笑する。他意はないのだろうけど、今の自分の立場を否定された気がして、心がもやっとなった。それは学生時代の僕が、将来の自分の姿を真剣に考えることなく、あれよあれよと流されるままに今の自分を造りあげてきたことに対する後悔からくる感情なのかもしれない。子どもの頃は水泳選手になりたいだとか、お金持ちになりたいだとか、それなりの夢を抱いていた。年齢を重ねるにつれ、そのどれもが現実的ではないと知った僕は、自覚のないままに諦めていったのだ。
「オレもここで溺れたら、アキトが助けてくれるかな」
「僕なんかに助けられたいの?」
清志は僕の言葉に噴き出した。「助けてくれるって信じてるぜ」
そう言って彼は、溺れたふりをして、僕にじゃれついてきた。
「うわわわわ、あぶ、あぶ、あぶないって!」
清志は僕よりも細身とはいえ、大人の男だ。そんなのがいきなりまとわりついてきたら、僕もバランスを崩して溺れそうになるかもしれない。
「はー、やっぱアキトはいい身体してんなあ」
清志は僕の胸に飛び込むかのように、自分の身体を預けてくる。
「オレ、筋肉フェチだからさ、アキトの体型はマジで理想なんだ。羨ましいぜ、全く」
顔を下げると、上目遣いで僕を見る彼と、目が合う。妙な感覚だった。そして清志にそんな性癖があったということも、彼との付き合いの長さが両手の指では数えきれなくなったというのに、初耳だった。里菜もそんなことを言っていたけれど、僕の周りには同じようなタイプの人間が集まってくるのかもしれない。だから彼は、今の職業を選んだのだろうか。
「ごめん、キモかったか?」
清志が僕の身体にまとわりつくのをやめた。二人の間に、子供が一人割り込めそうな隙間ができる。
「いや、大丈夫」
僕はどちらかというと要領のいい人間ではない。だからこそ、この世界をどうにかこうにか生き抜くために、与えられた境遇のなかで、あらゆることを愚直に行う必要があった。それは自分の好きなことに対しても、だ。
年齢を重ねていくにつれ、水泳というものは、ただ単にプールで自分勝手に泳いでいればいいというものではなくなった。他人と速さを競って輝かしい記録を残すことを目標とした「スポーツ競技」として、水泳に関わらなければならなかったからだ。スポーツジムでマイペースにゆったりと泳ぐだとか、何人かの仲間たちと連れ立って、町のプールで泳ぐだとか、「誰かと競わない」水泳をすることは、学生時代には叶わなかった。それはきっと、僕が学校の水泳部に所属していたことが因果なのであって、仕方のないことだ。
とはいえ、僕はそれが嫌だったわけではない。嫌だったとしたら、当時の僕はそこから逃げ出していたはずだ。僕は自他共に認めるとおり、あまり自己主張の強い方ではなかったが、内なる承認欲求は人一倍に強かった(今もそうかもしれないけれど)。水泳部でもそれが幸いして、がむしゃらに身体を鍛え、誰よりも早く泳ごうとして時間の許す限り練習に打ち込んだ。才能なんてものは皆無に等しかったかもしれないけれど、それらが努力というのなら、僕は部内で一番努力をしていた自負がある。おかげで僕の承認欲求は、欠乏することなく、ほどほどに満たされていたように思う。
筋肉フェチの清志が、僕の肉体を誉めてくれたのは、今になってもまだ心に巣食っているその欲求を満たしてくれた。つまりは嬉しかったのだ。心を猫じゃらしみたいなものでくすくすとくすぐられたような感覚におそわれる。
「ドン引きされなくってよかった」
清志はそれだけ言うと、僕に背を向けて、砂浜に向かって泳ぎ始めた。褐色の背中が波を掻き分けていく。僕はその姿を見て、彼も充分に他人から賞賛される見た目をしているのになあと思った。