それからは、慌ただしかった。
兎に角一旦、恵子さんの家に避難する事になった。
坂井は報復を恐れて、警察を嫌がっていたが、何とか説き伏せ警察も呼ばなければならない。
念のためタクシーも呼んで。
いつ以来だろう、目まぐるしく頭を働かせる。
第3設計部に配属される前の、充実していた日々を思い出す。
クライアントの設計変更依頼、現場対応不可案件等、楽しい程何かと戦い続けていた。
あの頃の事を思い出したら、不思議と肩の力が抜けて行く。
頭が働きたがっている。
私は、またあの頃の様に生きて行けるだろうか。
いつか、この静かな雪の中から這い出せるのだろうか。

「恵子さん、坂井さんと先行って下さい。私、戸締まりして行きます」
まずは2人を裏庭に送り出す。
混乱気味に荷物を抱える坂井を、恵子さんは裏庭へと引っ張って行くとスノーモービルの後部座席に乗せる。
スノーモービルなら恵子さんの家迄あっという間につく。
恵子さんと坂井の乗ったスノーモービルが家の裏の雪原を走らせる音が響く。
後は私が玄関脇の納屋のスノーモービルを引っ張りだし家の裏の雪原を、恵子さん宅へ向かうだけだ。
万が一、道で出会ってしまったらたまったものじゃない。
特に今日は天気もよく道路の除雪は終わっている。
その気になればタクシーで気軽に乗り付けられる。
あくまでも万が一だ、こんな所まで本当に追いかけて来るのは想像しづらい。
正確には追いたくても、直ぐに追える場所ではない。
町の中心部は隠れ過ぎた温泉地である、町にたどり着くには、市に通じる道路以外、かなりの労力がいる。
電車一本違えば、もう、次の日にしかたどり着く事は出来ない。
市からの道も除雪車でもない限り、冬の時期は危険で、タクシーどころか、地元の人間でも行き来しない。
坂井と同じ電車に乗ってない限り、このタイミングで現れるのはあり得ない。
私はスマホとスノーモービルの鍵をポケットに突っ込み玄関を出る。
「すいません」
「え?」
推定身長180cm、細身、綺麗な顔、不気味なほど白い綺麗な顔。
玄関を出た私の目の前に、男がいた。

「坂井日菜呼んで下さい」
綺麗な笑顔での要求、問いかけではなかった。
私は言葉が出ない。
一体どうやってたどり着いたのか。
出会ってしまった、嫌な汗が吹き出して来る。
「坂井日菜呼んで下さい」
さっきと全く同じ抑揚、変わらない表情で彼は繰り返した。
この男の張り付いた表情、テンプレートの様な声の抑揚。
感情の在り方が普通じゃない感じが見え隠れしている。
彼女を事あるごとに殴った様をリアルに感じる事が出来る。
話で聞く以上の状況だったに違いない。
彼女に死を意識させる程の暴力。
震えが背中をかけ上がった。
逃げなければ
恐らく男は状況を把握している。
GPSの消えた位置に民家は一軒、私の家に居なければ、消えたタイミングを考えると、道ですれ違う以外、恵子さんの家にいる事は想像出来るだろう。
彼は私が沈黙する間に笑顔を微塵も崩さない。
こちらの出方を待ってる、粗を探す様にじっと私を見ている。
第3設計部にもいた、同じ様な奴が。
人から情報を盗み取ろうとする嫌な奴。
「考えてますよね」
痺れを切らしたのか、男が口を開いた。
「家、上がってもいいですよね?」
男が口を開くたび、私の気持ちは暗い所へと落ちて行く。
坂井の頬のアザ、第3設計部の男達、そんな映像が頭の中をぐるぐる周り始める。
さっきまで働きたがっていた頭が、なりを潜め、体が強ばっていく。
気持ちが奥底へと沈み込んで行く。
歯の根が噛み合わなくなる。
それでも、最後まで沈み込みきらなかったのは、やはり恵子さんの存在だった。
恵子さんを傷つけたくない。

恵子さんに連絡しなければ、しかし体も顔も頭の中も、より強ばって身動き出来なくなっていく。
私を観察していた男は、身動き出来ない事を見透かした様に目を細めて、より笑顔の様なものを強めた。
「お邪魔しますね」
私の脇を悠々と通りすぎ、勝手に家に入り込んでいく。
ここの捜索が終わったら、次はきっと恵子さんの家だ。
この男は何をするか解らない。
恵子さんに危険が及ぶのだけは絶対耐えられない、私の支えを失う訳にはいかない。
私は奥歯を強く噛みしめ、言うことを聞かない体を無理矢理動かし、玄関に置いてあった、カンジキを引っ付かんで、ぎこちなく走った。
納屋から、スノーモービルを引っ張り出して、それから、あれ?何でカンジキ持ってるんだろう、私は必死にやる事を考えた。
走りながら、恵子さんにスマホで連絡する。
「来ました、逃げて」
「何処へ?」
静かだが、よく響く声が後方から聞こえてきた。