自意識というものが滞りなく確立されるのに、何日を費やした事だろう。
いやいや、何か月? 何年? ――下手すりゃ何十年だったかもしれない。
朝の目覚め共に寝床から起き出したが、朝露の乗った草々の上にまた腹這いで寝そべった。
ここは深い森に中にぽっかりと空いた広場で、中心には湖が広がっている。
ねぐらである虚の空いた巨樹はその畔に座していた。その傍らで俺は再びうとうとする。
午前のうちは、そうやって陽光を浴びないと本調子にならない。ひどく生理的な理由において。
麗らか天気の中、欠伸をかましながらじっくりと陽の光を浴びて体温を貯める。
十分に暖まった頃合いで、俺は〝四つん這い〟に起き上がり〝尻尾〟と〝羽根〟をほぐすように動かした。
背筋をぐっと伸ばした折に、思わず間抜けな鳴き声が漏れる。
と、上空を大きな影が過った。
太陽を覆い隠したその影が、旋回して俺のすぐ傍まで降りてきた。
強い風圧に眼を顰める。底強い羽ばたきが空気を打ち震わせている。
やがてずんと、巨大で重苦しい物体が着地した音が響いた。
「ぼうや」と、またあの優しい声が発せられる。
その大きな躯を寄せて俺の横っ腹に頬ずりをするのは、他でもない、俺の母ちゃんである。
マム――ママン――マミーと呼び方を変えようともどうともならない異様な存在感ではあるが、その瞳の色は優しい。
蜥蜴の顔をしていて、大角が生えていて、裂けた口元に鋭い牙が並んでいて、刃のような鱗が覆っていて、巨大な被膜の翼が生えていても、すごく穏やかで温かい自慢のマッマなのだ。
そしてこれが自分の母親である以上、言わずもがな俺とて似たような姿形である。
西洋の伝承に出てくる怪物――即ち竜。
まあ、その幼体って所か。
「おはよう、可愛いぼうや。もう起き出していたのね」
目の前の薄緑色をした大きなドラゴンがそう口にする。
普通に言語を介している事に、もう驚きはない。
「さあ、朝ごはんよ」
前脚で曳き掴んでいたグロテスクな魚を地面へと置いた。
その寸法故に彼女が持っている時は違和感がなかったが、実際の体積は俺の半分ほどあった。
深海魚の一種のような見た目だが、この付近の川辺に普通に生息しているらしい。
結構な頻度でママンが捕まえてくるこいつだが、俺は一向に馴染めなかった。
「ママぁ……」
「好き嫌いはダメよ?」
「せめて火を通して……」
「あらあら、またなの? しょうがないぼうや。獲物を焦がしてから食べるだなんて、ホントどこで覚えたのかしらね」
川魚は生食はダメなんすよマミー。寄生中がヤバイんすよマミー。
話しても埒のないそれらの事は心の中で呟くとして、俺の懇願に彼女は容易く折れ、その巨大魚を湖の縁辺に持っていった。
そして再び地面に置くと、息を吸い込んでからぼうっと口から炎を吐き出す。
絶妙な加減で俺の朝ごはんをグリルしてくれた。
味的には鰻の白焼きに近い。蒲焼のタレが欲しくなるね。
そんな俺をママンは微笑ましそうに眺めてくる。
はっきり言って超絶過保護に溺愛してくるのだった。
さて、ここらで、俺の今の状態を話しておこう。
まず俺が生きているこの場所、この惑星はおそらく地球ではない。
太陽は一つだが月は三つあるという天体配置でそれが知れた。
有り体に言えば異世界ってやつ。
そして、そこに転生した。
ただ厄介な事柄がいくつかある。
一つに俺が人間でなくなってしまった事。
はじめ、幾重もの薄い膜に包まれたように意識はぼんやりとしていた。それが一枚ずつ剥がれていって、ようやく自我と呼べる物が現れた。
そこで自分のその肉体に否定できない違和感を覚えた。
今でこそ特に不自由はないが、最初は翼や尻尾の動かし方、獣のように四足で行動する事に難儀したもんだ。
もう一つは、人間であった筈なのにその人間であった時の記憶を失っているという事。
記憶が無い――
いいや、断片的にはそれらの記憶はあった。
電車の窓から見ていた変わり映えのない町の景色。好んで聴いていた曲のメロディ。行き付けの定食屋の味付け。毎週欠かさずチェックしていた漫画の展開。ビルの屋上から眺めた夕日の、あの網膜にやきつく鮮やかさ。
そんな風な物ならちゃんと憶えている。
小学校、中学校、高校、大学、就職――
それらの流れは記憶している。だけど、その細部がまるで存在しない。
家族や友人がいた事は判る。
けれど、その彼らの顔と声と名前がどこをどう探しても見当たらない。
誰かと過ごしてきた事は知ってる。
なのに、誰とどう過ごしてきたかは判らない。
俺の頭の中は、そんな何とも表現し難い按配だ。
自分がこれまで過ごしてきた世界と、この世界の相違は判然としていた。
それが理由でひどく混乱したものだ。
そんな風にして生まれ変わった俺がここまで安穏とやってこれたのは、偏に偉大な母ちゃん――このグレートマザードラゴンのお陰だ。
衣食住――いや、衣はないか――の全てを面倒見てくれている訳で、ここまでうんと甘やかして育ててくれた。
本物の母親の顔も何も憶えていない今の俺にとって、見た目なんか一切どうでもよくなるレベルで母ちゃんなのだった。
「それじゃあ、良い子にしてるのよ」
ガッツリと朝食を済ませた俺を見届けてから、マッマはまた大きく翼を広げた。
「大人しくしてるから心配ないよ、ママ」
聞き分けの良い返事をして飛び立つ彼女を見送る。
いつものようにその世界を一巡できる翼で、天空の領域へと掻き消える。
三度、俺は陽だまりの中でうとうとするのだった。