――恐怖と狂気と絶望が渦巻くベトナムの大地から、傷つき疲れ果て命からがら飛び出した僕は、故郷へと帰り着き君に会うことさえできればすべてが元通りになると思っていた。
壊れたものも、失くしたものも全部ね。
どうしてそんな風に考えてしまったんだろう。落ちた花の蕾は、自らの力で茎に戻ることもないし、蕾を失った茎が頭を垂れて落ちた蕾を拾い上げることもないのに。
「バラは赤い、スミレは青い、お砂糖は甘い、そうして君も」
僕たちに与えられた魔法のような時間――湖で過ごした君との色鮮やかな思い出は今も鮮明に浮かぶのに、より一層心は深いもやで閉ざされてしまうのは、きっと失ったものの大きさに心が耐えられないからなのかな?
ねぇ、ハンナ。この悪夢から覚めない限り、前に進むなんて僕にはとてもできそうにない。この部屋には、まだ微かに君の匂いと温もりが残っている。君のお父さんの計らいで、僕の治療のために用意してもらった部屋だ。君が使っていたベッドの上で、僕は今横たわっている。
僕はもうクタクタだ、なにも考えることができないくらいに。なにも見たくないし、なにも聞きたくない。なにも感じたくもないんだ。
微かにドアをノックする音が聞こえると、部屋に入ってくる人の気配を感じた。そしてその気配は僕に訊ねる。
「具合はどうだね?」
僕の右肩に触れ、まだ聴力の残る右の耳元に顔を近づけ、言葉を投げかけたのはロバート・コールドマン――ハンナ、君の父親だ。
「この街には最高の治療を施してくれる一流の医者がいる」
彼は、ベトナムから戻った僕のために力添えをしてくれたよ。どうやらこのフィラデルフィアという街は、医療でも有名なようだ。
だからといって、壊れたものがきれいに元通りになる訳じゃない。僕の両目はすでに手遅れだったし、右の聴力はわずかな回復を見せたけれど、同時に酷い耳鳴りに悩まされるようにもなったからね。
医者は心的外傷後ストレス障害が大きな原因だろうといって、精神科の治療も勧めてくれたけれど、僕はそれを断った。たとえこの耳鳴りが止んでも、失ったものは帰ってこない。今の僕には、ハンナやグレッグの元気な声以外に聞きたいものなんてなかったから。
「君の希望通り、退院の手続きをとってきたよ」
僕は静かにうなずいた。
「君のご両親は、すでにこちらに向かっているようだ」
淡々と話す彼に、僕は改めて礼を伝える。
「コールドマンさん、いろいろとご尽力いただいて本当にありがとうございます。あなただって、今はつらいはずなのに……」
コールドマンの気持ちくらいは理解できる。冷静を保ってはいるが、心は深い悲しみで溢れているのが手にとるようにわかった。
「残された者は……つらいな……」
コールドマンはつぶやいて言葉を濁した。
「なぁ、ベン。少し私に付き合わないか。病院の向かいに美味いコーヒーを出す喫茶店があってね、そこで毎日コーヒーを飲むのが、今の日課なんだ」
うなずくと、彼は廊下から車椅子を持ち出して、そこに僕を座らせた。
陽の光を浴びるのは久しぶりだ。瞼は閉ざされていても、うっすらと白く、明るく見えるような気がした。喫茶店までは病室から三分もいけばたどり着いた。人の話し声が賑やかで、別世界のように感じられた。
「君も同じもので良かったか?」
座席らしい場所に僕を乗せた車椅子をとめると、椅子を引く音がして、コールドマンが隣に座る。僕がうなずくと、コールドマンはウェイトレスを呼んでコーヒーを二つ注文した。チップを渡したのだろう――ふんわりとした明るい声がお礼をいうと、「ごゆっくり」とにこやかな声を残していった。
「毎朝、ハンナの病室に行く前に、ロザリーとここでコーヒーを飲んだんだ……儀式のようにね。私たちはいつも一言も話せないほど憔悴してたがね。この店で黙ってコーヒーを飲み、気持ちを切り替えるんだ。ハンナの前では絶対に暗い顔をしないと決めていたから……」
「おまたせ」
少しだけツンとする香水を漂わせてウェイトレスが戻ってくると、僕の前にコーヒーが置かれた。彼女の気配が離れると、コールドマンは再び話し始めた。
「しかしね、私たちの心配をよそに、ハンナは一度として不安そうな顔を見せることはなかったよ……なぜだかわかるかい」
答えを求めるコールドマンに僕は首を振り、同じ質問を返した。
「あなたはなぜだと思ったんですか?」
「答えは君だよ、ベン」
コールドマンは、なにやらがさがさと音をさせた。
「君の存在があったから、ハンナは不安などかけらも覚えずに、ただ病気を克服した後のことばかり考えていられたんだ。君との未来を望む気持ちが、ハンナのつらい状況を支え、病気と闘うパワーを与えていたと、私は考えているんだ」
思わぬ言葉に僕は俯いていた顔を上げる。不意にコーヒーの良い香りが鼻腔に漂った。
「実は、君に渡すかどうかずっと迷っていたものがある。今の君は身も心も憔悴しきって、なにかを受け入れられるような状態じゃないからな。しかし、だからこそ君にはハンナの助けが必要だと私は思うんだよ」
その言葉が胸を締めつける。コールドマンが僕に渡すべきか迷っていたものの正体がなんとなくわかるからだ。
「ハンナが、その直前まで書いていた君への手紙だ……」
壊れたものも、失くしたものも全部ね。
どうしてそんな風に考えてしまったんだろう。落ちた花の蕾は、自らの力で茎に戻ることもないし、蕾を失った茎が頭を垂れて落ちた蕾を拾い上げることもないのに。
「バラは赤い、スミレは青い、お砂糖は甘い、そうして君も」
僕たちに与えられた魔法のような時間――湖で過ごした君との色鮮やかな思い出は今も鮮明に浮かぶのに、より一層心は深いもやで閉ざされてしまうのは、きっと失ったものの大きさに心が耐えられないからなのかな?
ねぇ、ハンナ。この悪夢から覚めない限り、前に進むなんて僕にはとてもできそうにない。この部屋には、まだ微かに君の匂いと温もりが残っている。君のお父さんの計らいで、僕の治療のために用意してもらった部屋だ。君が使っていたベッドの上で、僕は今横たわっている。
僕はもうクタクタだ、なにも考えることができないくらいに。なにも見たくないし、なにも聞きたくない。なにも感じたくもないんだ。
微かにドアをノックする音が聞こえると、部屋に入ってくる人の気配を感じた。そしてその気配は僕に訊ねる。
「具合はどうだね?」
僕の右肩に触れ、まだ聴力の残る右の耳元に顔を近づけ、言葉を投げかけたのはロバート・コールドマン――ハンナ、君の父親だ。
「この街には最高の治療を施してくれる一流の医者がいる」
彼は、ベトナムから戻った僕のために力添えをしてくれたよ。どうやらこのフィラデルフィアという街は、医療でも有名なようだ。
だからといって、壊れたものがきれいに元通りになる訳じゃない。僕の両目はすでに手遅れだったし、右の聴力はわずかな回復を見せたけれど、同時に酷い耳鳴りに悩まされるようにもなったからね。
医者は心的外傷後ストレス障害が大きな原因だろうといって、精神科の治療も勧めてくれたけれど、僕はそれを断った。たとえこの耳鳴りが止んでも、失ったものは帰ってこない。今の僕には、ハンナやグレッグの元気な声以外に聞きたいものなんてなかったから。
「君の希望通り、退院の手続きをとってきたよ」
僕は静かにうなずいた。
「君のご両親は、すでにこちらに向かっているようだ」
淡々と話す彼に、僕は改めて礼を伝える。
「コールドマンさん、いろいろとご尽力いただいて本当にありがとうございます。あなただって、今はつらいはずなのに……」
コールドマンの気持ちくらいは理解できる。冷静を保ってはいるが、心は深い悲しみで溢れているのが手にとるようにわかった。
「残された者は……つらいな……」
コールドマンはつぶやいて言葉を濁した。
「なぁ、ベン。少し私に付き合わないか。病院の向かいに美味いコーヒーを出す喫茶店があってね、そこで毎日コーヒーを飲むのが、今の日課なんだ」
うなずくと、彼は廊下から車椅子を持ち出して、そこに僕を座らせた。
陽の光を浴びるのは久しぶりだ。瞼は閉ざされていても、うっすらと白く、明るく見えるような気がした。喫茶店までは病室から三分もいけばたどり着いた。人の話し声が賑やかで、別世界のように感じられた。
「君も同じもので良かったか?」
座席らしい場所に僕を乗せた車椅子をとめると、椅子を引く音がして、コールドマンが隣に座る。僕がうなずくと、コールドマンはウェイトレスを呼んでコーヒーを二つ注文した。チップを渡したのだろう――ふんわりとした明るい声がお礼をいうと、「ごゆっくり」とにこやかな声を残していった。
「毎朝、ハンナの病室に行く前に、ロザリーとここでコーヒーを飲んだんだ……儀式のようにね。私たちはいつも一言も話せないほど憔悴してたがね。この店で黙ってコーヒーを飲み、気持ちを切り替えるんだ。ハンナの前では絶対に暗い顔をしないと決めていたから……」
「おまたせ」
少しだけツンとする香水を漂わせてウェイトレスが戻ってくると、僕の前にコーヒーが置かれた。彼女の気配が離れると、コールドマンは再び話し始めた。
「しかしね、私たちの心配をよそに、ハンナは一度として不安そうな顔を見せることはなかったよ……なぜだかわかるかい」
答えを求めるコールドマンに僕は首を振り、同じ質問を返した。
「あなたはなぜだと思ったんですか?」
「答えは君だよ、ベン」
コールドマンは、なにやらがさがさと音をさせた。
「君の存在があったから、ハンナは不安などかけらも覚えずに、ただ病気を克服した後のことばかり考えていられたんだ。君との未来を望む気持ちが、ハンナのつらい状況を支え、病気と闘うパワーを与えていたと、私は考えているんだ」
思わぬ言葉に僕は俯いていた顔を上げる。不意にコーヒーの良い香りが鼻腔に漂った。
「実は、君に渡すかどうかずっと迷っていたものがある。今の君は身も心も憔悴しきって、なにかを受け入れられるような状態じゃないからな。しかし、だからこそ君にはハンナの助けが必要だと私は思うんだよ」
その言葉が胸を締めつける。コールドマンが僕に渡すべきか迷っていたものの正体がなんとなくわかるからだ。
「ハンナが、その直前まで書いていた君への手紙だ……」