ある晴れた日、収穫のために陽も昇らないほど早朝から出かけた父さんたちに、今日は午後から出てこいと言われた僕たちは午前中非番になった。

 うちの農園には収穫のためのトラクターが一台しかない。一日フル稼動させるため、午前と午後に分けて当番をしている。僕たちが午前中任せられないのは、父さんの配慮という名の思惑からだ。――つまりはドランクモア。僕たちを飲みに行かせないため。相手はなかなかの戦略家だ。

 午前が非番になったところで、特にやることもない。僕は暇をつぶそうと、修理から戻ってきたトラックに乗り、グレッグの家まで車を走らせた。

 湖のある公園――通称サボり場の脇道を通りすぎるとき、見覚えのある女性が大きなカバンを担いで歩いているのが見えた。ハンナだった。

 傍にトラックを寄せ、冗談っぽく声をかける。「やあ、そんなに荷物を抱えてどうしたの? また引っ越しかい?」

 すると、彼女はものすごい形相で振り返った。

「うるっさいわね! 道を教える気がないなら、早くどこかに消えなさいよ!」

 この前とはまるで別人だ。あまりに唐突で、僕はポカンと口を開けた。

「ベ……ベン!? ごめんなさい! 私てっきり違う人かと……」我に返って弁明する。

 その目が苺ジャムのように赤く染まっていた。ついさっきまで泣いていたのは一目瞭然だ。ハンナは僕から目を逸らし、一呼吸置くと調子を取り戻した。

「ちょうど良いところで会ったわ! この辺りに、湖が見える景色の開けた場所があるっておばさんに聞いたんだけど。あなた、心当たりないかしら?」

「乗りなよ」僕は腕を伸ばし、助手席側のドアを開ける。
「あら、あなたって意外と紳士なのね? じゃあお言葉に甘えようかな」

 舌を出して笑うと、ハンナはぎこちない歩みでトラックへ近づいた。

 彼女がトラックに乗り込むのを黙って待つ。錆ついた車体に腕を添え、座席の足元に持っていた荷物を載せると、跳び箱にでも手をつくようにシートに両手を乗せ、器用に飛び乗った。

 そういえば初めて会ったとき、彼女は杖をついていたけど、今日は杖を持っていない。そんな僕の違和感に気づいたのか、ハンナがそのまだ云わぬ疑問に答えてくれる。

「ああ! 杖ね? もうだいたい良いのよ! 面倒臭いから置いてきちゃったわ。フィラデルフィアからこっちに来るのに邪魔だったから、お医者の先生の言うことを聞かずにギプスを早くに外しちゃったせいで、結局松葉杖の代わりに少し長いこと杖を使う羽目になっちゃったけどね。今日は荷物が多いから少しでも減らしたくて!」

 ドアを勢いよくしめると、先に放りこんだ大きなカバンを膝の上に乗せ、大切そうに中身を確認する。どうやら絵を描くための道具が入っているらしい。使い込まれた感じの筆やら絵の具用のパレットやらが顔を覗かせていた。

「私ってすごく鈍臭くてね、階段を踏み外して転げ落ちちゃって骨折よ? 嫁入り前の、大事な体なのに!」

 ふぅと一息つくと、次々と話し始める。マイクを前にしたラジオジョッキーなみにまくしたて、質問する隙を与えない。

「私、生まれも育ちもフィラデルフィアで、ついこの前まで高校で美術を教えてたのよ! 絵を描いてるときって時間を忘れるくらい夢中になれるから好きだわ! ママは二年前に病気で亡くなったの。だから私は仕事を辞めてママの生まれ育ったこの町が見たくてやって来たのよ!」

 ハンナは話し続けた。立て板に水というより焼け石に水をかけるほど、瞬時に消えて次の水をぶちまける。

 僕はその速さを怪訝に思った。大袈裟なほど楽しそうにしていたが、それは「なぜ?」という質問を恐れているように感じられたからだ。一時停止が訪れた瞬間、すべてが滑らかさを失って砕けて零れ落ちそうな、そんな恐怖。

 生い立ちになにかあったのか? それとも、さっき会ったときの彼女の様子に関係があるのか? とにかく何かを見抜かれないように必死に隠している気がした。

     †

 お気に入りのサボリ場に、最も近い場所にトラックを停める。

「ここがそうなの?」辺りを見渡しながら彼女がつぶやいた。
「車で来れるのはここまでだよ。この先は歩きだ」

 ハンナからカバンを預かって肩に担ぎ、車を降りて助手席のドアを開く。彼女はステップを踏み車を降りると、うっそうと生い茂る木々を見上げた。

「随分と静かで人気のないところね……ベン、ひょっとして私をこんなところに連れだして?」からかって笑う。
「あのなあ! 君が来たいって言うから連れてきたんだぞ!?」
「冗談よベン! ごめんなさい。それに私の名前はハ・ン・ナ! 忘れないで! さあ行きましょう」

 ハンナはそう言って、屈託のない笑顔で僕の背中を押した。まったく、涙目で会ったときはしおらしくて可愛いげがあったのに! 元気になったとたん、いつもの嫌味な彼女のままだ。

 杖がないのを心配していたが、多少姿勢が傾くことはあったけど、痛みはほとんどなさそうだった。手を貸そうかと思ったが、気恥ずかしいのでやめた。茂った草を掻き分けて進むと、ハンナが後ろからやかましい悲鳴をあげながらついて来る。

「ちょっとベン! どこに行くつもりよ? 草ばかりで道なんてどこにもないじゃない! こんなことならスカートじゃなくてズボンにするんだったわ!」

「悪かったね、ここは君が育ったフィラデルフィアのような都会とは違うんでね。君のような洒落た格好でここを歩こうなんてやつは、この町にはいないからさ」

 足元の悪さに文句を垂れる彼女に笑いながら振り返ると、ハンナは真っ赤になって睨みつけた。膨れっ面で声を大きくする。

「なにそれ! いつものお返しのつもり? なんて意地が悪いの。あなたって女の子にモテるタイプじゃないわね! まあ良いわ。ここまで連れて来てもらったし、今の発言は聞かなかったことにしてあげる」

 少し進むと、目的の湖へとたどり着く。青空をそっくりそのまま落とし込んだ鏡のように美しく広がる湖面には、命の尽きるのを忘れたかの如き美しい水鳥たちが羽を休め、鱗のように輝き光る木漏れ日の跳ね返りをその身に宿している。

 周囲を取り囲む生い茂る木々の隙間からは、姿を見せない虫や小動物の静かな鳴き声や草花の匂いが色濃く揺蕩(たゆた)って、今にも音楽を奏でそうだ。時折強く吹く風に逆らうことなく、生き物たちが息づいている。

「すごい……」

 背後から、ハンナの嘆声《たんせい》が聞こえた。振り返ると、彼女は目を見開いて立ち尽くしていた。

「ここが僕のサボり場だよ」
「ベン……本当にありがとう……とても……とても素敵な場所だわ!!」

 ハンナはその場に腰を降ろすと、なにも言わずにただ黙ったまま、一心に風景を眺めていた。

「描かないのかい?」彼女の隣に腰を降ろし煙草に火をつける。
「今日は良いの……ただこうしてこの場所を眺めていたいの」

 そうつぶやいて、彼女は再び口を閉じた。

     †

 僕たちはそこで長く静かな時間を過ごした。日が陰り始めたころ、長く続いた静けさにピリオドを打ち、ハンナが話し出した。

「ここは、あなただけが知ってる場所なの?」

 まっすぐ前方を見つめるその横顔を見ながら、僕は答えた。「ここに来るのは僕とグレッグぐらいさ。その前は君のおばさん」

 すると、突然ハンナがこちらに向き直り、気でも触れたような悲鳴を上げて僕の肩を両手で揺らした。

「じゃあ! じゃあここがそうなのね! おばさんが言ってたのはこの場所のことなのね!?」

「ちょっと落ち着けよ!? 一体なんだよ?」

 ハンナは興奮して僕の肩を揺らし続ける。首を痛めてしまいそうだ。

「おばさんが言ってたのよ! 昔、ママと良く遊んだ二人だけの秘密の場所があるんだって! ママが(とつ)いでいって、お爺ちゃんもお婆ちゃんも亡くなって独りぼっちになってしまったときに、よくそこに通ったんだって!!」

 そう、たしか僕とグレッグは、いつもお菓子をくれるロザリーの後をつけてこの場所を知った。彼女はここに来ると、決まって湖を眺めたまま何時間もなにもせず、ただ立ち尽くしているだけだった。

 子供心にも、そんな彼女の後ろ姿はとても寂しそうに見えた。

「おばさんが言ってたの。家族を失って失意のどん底にいたとき、外で会うたびにお菓子をねだって付きまとう、二人の少年に生きる元気をもらったの! って」

 ――僕たちのことだ……。

「だからね、おばさんはあなたたちのことを今でも『私のヒーロー』って呼ぶのよ!」

 ハンナは興奮していたが、僕は複雑な気持ちだった。だってあの頃の僕たちは、お菓子をくれるロザリーに本当にただ付きまとっていただけだったから。ロザリーがそんな状況にあっただなんて、考えたこともなかった。

「私……この町を選んで良かったわ……」
「選ぶ?」
「仕事を辞めて、どこかに旅行に行きたかったのよ。いろいろと候補はあったんだけど、どうしてもママの生まれ育ったこの町が見てみたくて」

 いいながら再び湖を見つめる。

「……町の人たちは不親切だけど、あなたは優しいし、それになによりこの場所……ここをこの目で見ることができたから」

 ここに到るまでの道のりで何があったのか、おおよその見当はつく。ここはよそ者に冷たく、とても閉鎖的な町だ。不慣れにうろうろとし、すれ違う人に湖の公園の場所を訊ねたところで、怪訝な顔で遠巻きにされるか、ぞんざいな対応をされるかどちらかだ。

 老体の伯母を労わったんだろう。ロザリーが元気なら、きっと一緒にここを訪れただろうけれど、連れ出したくなかったに違いない。

「ベンはお父さんの農場を継ぐのよね? 他になにかやりたいと思うことはなかったの?」ふとハンナからこんな質問が聞こえてくる。

「君と違って僕にはなんの取り柄もないからね。ただこのまま農場を継げればいいところさ。僕の人生の終着駅は、今からでも簡単に想像できるほど退屈なものだよ」

 常日頃から思っていることだけれど、自嘲気味に語る僕をハンナは鼻で笑った。

「私は田舎暮らしにとても憧れていたけれど、場所が違えば憧れも違ってくるわね」

 田舎者を小馬鹿にするような態度に、僕はムッとした。

「わかったようなこと言うなよ。まるで学校の先生のような口ぶりだ」
「あら、話したでしょ? 私は元教師よ!」

 ハンナはしてやったりと、にんまり意地の悪い笑みを浮かべる。教師といっても美術の教師だろ? なんて返したところでやり込められるのは目に見えていたし、僕は言葉を飲み込んだ。

「聞いて、ベン。あなたはこの町の大多数の人たちと同じようには、染まりきっていないと私は感じるの。きっと、あなたのような人は広い世界で活躍して、皆から注目される人になるわ」

 ハンナの真剣な眼差しに、僕は思わず吹き出した。「君って占いもやるのかい?」

 そんな僕の態度に、いつもなら血相を変えて怒りだすだろうと身構えたけれど、彼女の反応は意外なものだった。

「私、こう見えても人を見る目には自信があるのよ。今の言葉を覚えてなさい! きっといつか私の言ったとおりだったって、泣いて謝る日が来るわ!」

 本気なのか冗談なのか――その真意は定かじゃないけど、風になびく深いブラウンの髪を耳にかけながら得意げにする彼女に、僕は思わず見惚れていた。