「小さい頃、ママがよく歌ってくれたマザーグースの歌があるの。小さな私でも、すぐに覚えることができた短い歌で、私はそれが大好きだったの。その歌はこうよ……。

 バラは赤い(Roses are red)
 スミレは青い(Violets are blue)
 お砂糖は甘い(Suger is sweet)
 そうして君も(And so are you)

 私が初めて覚えた歌ってこともあって、いつも呪文のように口ずさんでいたわ……意味もわからずにね」

 過ぎさった日々を愛おしむハンナの心地好い声が、風のように僕を吹き抜けて、大空高く舞い上がっていく気分だ。

 即席の結婚式のリハーサルには、牧師役のグレッグと、花嫁の付添人のロザリー。そして湖を抜ける風が、辺りの木々をさわさわと揺らす。

「やがて大人になって、あの歌を口ずさまなくなった私に、あなたはあの歌の意味を考えさせてくれたわ」

 次第にしっかりとした口調で、僕をまっすぐに捉えてハンナは続ける。

「あの、甘い恋人同士のお喋りのような歌が、まるで自分自身のことを歌ってるように感じたの……。お花の話をしていても、甘いお菓子の話をしていても、大好きな絵画の話をしていても、たとえ病気の話をしていても、戦争の話をしたとしても、すべてあなたへと行き着いてしまう。まるで私の人生の出口はあなたしか有り得ないと教えてくれているみたいに!」

 少し興奮した自分を落ち着かせるように俯いて、再び顔を上げると彼女は言った。

「それほどまでに私はあなたに夢中よ、ベン。だから私も約束するわ、この命が終わる一分一秒まであなたを愛し、そして絶対に後悔なんてさせないわ!」

 ロザリーが目にいっぱい涙をためて、僕たちに拍手を贈った。湖を抜ける風に揺れる木々も僕たちを祝福するように枝葉を揺らした。

「ベンジャミン・ミラー、お前はハンナ・エイムスを妻とし……」

 グレッグがそこまで言うと、ハンナが訂正した。「コールドマン! ハンナ・コールドマンよ!」

 突然のハンナの言葉に、ロザリーがうれしそうに目を丸くする。

「――ハンナ・コールドマンを妻とし、健やかなるときも、病めるときも……その他諸々のときも、彼女を愛することを誓うか?」

 途中からニタニタと笑い始めたグレッグは、牧師のセリフを適当に唱え始える。そんな彼らしいやり方にも、今日は満足して答える。

「誓います」

「ハン――」

 続いてグレッグが新婦側の誓いを促そうとすると、ハンナは即座に「誓うわ!」と叫んで、僕の首に腕を回した。

 牧師を無視した完全なフライングで誓いのキスを交わし続ける僕たちに、グレッグが呆れて空を仰ぐのが傍目に見える。ハンナがいつだってグレッグの先を行っていたことを忘れていた。

「あー、この結婚に異議のある奴なんて誰もいないだろうから、ここに夫婦として成立したことを宣言する!」

 グレッグが派手に叫ぶと、突然僕の腕を引っ張って引きずり、湖へと放り込んだ。

「兄貴分の俺よりも先に結婚なんかしやがって! 幸せになれよ、この野郎!」

 うれしそうに僕を湖に沈めていくグレッグの目も、うっすらと赤く染まっているのを僕は見逃さなかった。

 そんな涙をごまかすように、グレッグも続いて湖へと飛び込む。

 ――本当にありがとう、グレッグ。


 ずぶ濡れになった服をその辺りの枝に吊るし、僕たちはライ麦パンを頬張った。

「出発はいつになるんだい?」

 ロザリーが心配そうに訊ねると、その横でハンナが僕の腕を強くつかみながら言った。

「ベン、お願いよ? 必ず無事に帰ってきてね!」

 か細い声で不安な色を滲ませるハンナの頬に手を添えて、僕はうなずいた。

「もちろんだよハンナ! せっかく君と一緒になれたんだ! 無事に帰ったら、ちゃんとした牧師を呼んで、ちゃんとした結婚式を挙げよう!」

「パンツ一丁じゃ締まらない台詞だな? 安心しろ、ハンナ! この結婚の証人として、俺が必ず無事にベンを連れ帰ってやるよ!」

 突然の発言に、僕たちはいっせいにグレッグを見た。

「グレッグ? どういうことだ」

「当然だろ? 俺たちは今までいつだって一緒だったんだ。この先もそれは変わらないぜ。それに、ハンナとの結婚で浮ついたお前が戦場に出ればものの十秒で蜂の巣にされるぜ? だから俺が守ってやらなきゃな!」

 当然のように振る舞うグレッグに、僕たちは言葉が見つからなかった。その突飛な思考と行動力は、まさに男版のハンナだったのかもしれない。

「グレッグ……お前、なに言ってる? それはダメだ!」

「俺たちは一心同体だ、お前の帰りを指をくわえて待ってるだけなんて、俺の生き方に反するぜ」

 グレッグの笑顔と、この町の青空が妙に眩しくて目にしみる。

 その場にいた僕たちを含め、彼の両親も、そして僕の両親も、グレッグに考え直すように何度も説得したが、頑として彼は考えを改めなかった。


 三ヶ月後、僕たちは住み慣れたアメリカを離れ、遠いベトナムの地にその足を降ろしていた。