車を停める。ロザリーに歩幅を合わせながら、僕たちは草を掻き分けて道を広げた。やがて茂みを抜けて湖が見えてくると、ロザリーは歓喜に声を震わせた。

「ああ! なんてことなの、あの頃とちっとも変わらないわ……。子供の頃、両親が亡くなった頃となにひとつ変わらない、すべてがあの頃のままよ!」

 うれしそうに駆け出し、両手で口を覆うと、目にはあふれるばかりの涙をためている。

「本当に懐かしいわ……ここでよくジュリアとお姫様ごっこをしたものよ……」

 彼女は腰を降ろすと、足元に生えるシロツメクサを集めて器用に冠を編んでいった。

「大抵、ジュリアがお姫様役で、私はその侍女だったのよね。彼女ったら、私がお姫様役をやりたいって言うと、いつも不服そうに意地悪な魔法使いのマネをして、私を睨んだのよ」

 ハンナがロザリーの隣に腰を降ろす。

「いつもジュリアにお姫様役を譲ってたからかしらね。彼女には白馬に乗った王子様がすぐに現れたけれど、結局私はこうして今でも置いていかれたままよ」

「誰が王子様なもんですか! 本当の王子様なら、最期までママの側に付いてたはずよ!」

 ハンナが過敏に反応して声を荒げたが、ロザリーは取り合わず、その顔に微笑みを携えながら冠を編み進めていった。

「ロバートは生真面目で、それでいてジュリアとあなたに夢中だったから……きっと、弱っていくジュリアを見るのが堪らなくつらかったんだと思うわ」

「だとしても、ママの気持ちはどうなるの!? そんなのパパの都合のいい言い訳よ!」

 苛立ちを隠さないハンナに、冠を編み続けるロザリー。そんな二人のやり取りに、さすがに肝が冷える。

「ハンナ、もうそれくらいに……」

「良いのよ、ベン」
 ロザリーはハンナに向き直って言った。
「たしかにあなたの言う通り、ロバートの言い訳ね。でも情けない父親としての一面を、ハンナ、あなたは知らないのよ……」

「どういうことよ」
「ジュリアがうれしそうによく話をしてくれたわ。あなたが学校でイジメられたと噂を聞きつけるとその真偽も確かめずに生徒の自宅まで乗り込んだという話や、高校の学年代表に漏れたとき学校まで抗議しに行った話とか――」

「そんなこと、ひとつも知らないわ。だってパパは、いつだって忙しくて私の学校のことなんて全然……」

「そうよね。こんな話もあるわよ、あなたがステーキハウスでアルバイトしていたとき、店長から露出の高い制服を強要されてそれが嫌で辞めたことがあったでしょ? あとからロバートったらどうしたと思う? ……なんと書面を作って店を脅しに行ったのよ! なんだったかな、『従業員に対する差別的人材管理と偏向的配置の不公正について』とかなんとか。あらやだ、私ったらしっかりと覚えてるわ。だってあんまりジュリアが何回も言うものだから」

 それをきいて、ハンナは目を潤ませる。

「あの生真面目で大人しい性格のロバートが、あなたやジュリアのことになると、悪徳弁護士のように地位を振りかざして相手に噛みつきに行くのよねぇ、想像できて?」

 ロザリーは優しく笑いながら続けた。

「そして極めつけは夜。帰宅してスーツを脱いだあと、ロバートはジュリアに懺悔(ざんげ)するの。やり過ぎたかもしれない、弁護士資格を剥奪されるかもしれない――なんてガタガタ怯えながらね」

 ハンナは顔を真っ赤に染め、ロザリーの言葉を一心に聞いた。
 ぐっと涙を堪える姪の姿をロザリーはただ温かく見つめ、幼い子を宥めるように首を傾げて微笑むと、話を続けた。

「彼はああ見えて、とても臆病で気の弱い一面があるんだって言ってたわ。ジュリアの確信犯なのよ。だって、あなたが虐められたなんて話をすれば、ロバートは必ず行動を起こすってあの子はわかってたんだもの。そしてそれを望んでたのね、あなたを守るために」

 ロザリーが話し終えると、ハンナはうなずいて涙を拭った。

「悪いのはジュリアよね。ねえ、どう思う? かわいい娘さん」

 ハンナはなかなか泣き止まなかったが、不思議と辛そうに見えないのは、きっと父親が血も涙もない冷徹な人間なんかじゃなかったと知れたことによる安堵の涙だったからだろう。

「ハンナの奴……本当は昨日、全力で親父さんに否定してもらいたかったのかもしれねぇな」

 隣で見守っていたグレッグがつぶやくと、僕も無言で応えた。

 父親としての尊厳や、説得に逃げるんじゃなく、妻のジェシカに対して見せたのと同じように、娘の自分にもそんな弱い姿を晒して一緒に泣いてもらいたかったのかもしれない。

「さあ! できたわお姫様」

 ロザリーが出来上がったシロツメクサの冠をハンナの頭の上に載せる。

「あなたも、意地悪なところはジュリアそっくりよ」

 ロザリーが突然こちらを振り返って僕にウインクする。ハンナはそれを見ると、咳込んで泣き笑いし始めた。

 女同士にしかわからない特別な暗号はやめてほしい。とにかく僕にはロザリーの意図も、ハンナの笑い声の意味もまったくわからないままだ。
 それでも彼女の笑顔が見れて、少しだけ肩の力が抜けた。

「ベン……ハンナに言わなくて良いのか?」
 グレッグが耳元でささやく。

「なぁに? 怪しいわね! 男同士のヒソヒソ話なんて、傍から見れば悪巧みにしか見えないわよ」

「あ! いや、違うんだよっ!」グレッグが慌てて吃った。

 様子のおかしい僕たちを変に思ったのか、ロザリーも首を傾げる。
 できれば、こんな状況で報らせたくはなかった。折角、父親の愛に気づいて元気を取り戻したばかりの彼女に、水を差すようで気が引けたし、なにより同情なんてされたくない。

 ハンナがこちらへ近づいてくる。観念した僕は口を開いた。

「実はさ……」

 まだ知らせを受けたばかりで、僕自身、心の整理もできていないままだ。それでもなんとか徴兵招集の件を切り出そうとすると、ハンナが僕のシャツの袖を引っ張って続きを遮った。

「ベンを少し借りるわね」とグレッグに言い残し、水際に向かって歩き出す。

「ハンナ?」

 水辺につくと、ハンナは僕の袖を離して湖を見つめた。風が一筋吹くと、ハンナは髪を耳にかけて言った。

「あなたの申し出を断った後に、実はグレッグが気持ちを確認しにきたの。『本当のところはどうなんだ!?』って怖い顔して」

「それは……聞いたよ」

「あのとき私が伝えたことに嘘はないわ。でも足りていないものがあるとしたら、それは、私もあなたが好きだってこと。次のステップを踏んで、あなたと友達以上の関係になれたらどんなにいいかって、ずっと考えてたってことよ」

 不意打ちに愕然とする。僕の間抜け顔をすっかり予期していたかのように、ハンナは僕を覗き込んで笑った。

 ああ、この顔だ……。僕はこの顔で見つめられると頭が変になってしまう。

「でもそんなに驚くことじゃないでしょ? ベンなら私の気持ちを見抜いていたはずよ」

 こんな風に舌を出して笑う彼女に、幾度見とれてきただろう。

 どんなときも自分に正直で、毅然とした態度で相手と向き合う――かと思えば、いたずらっ子みたいに無邪気にふざける。

 そんな彼女に、僕はいつだって夢中だった。

「でもね、私は――」

 精一杯、なんでもないような素振りで話すハンナの本心が、何も聞かなくてもわかる気がする。

「病気に負けるつもりなんてまったくないけど、あとどのくらい生きられるかも不安なの……」

 死への不安と恐怖に日々怯え、それでも僕を思いやる彼女の言葉が僕の背中を押した。

「僕もだよ、ハンナ。僕も君と同じだ」

 ハンナは戸惑いながらも笑っていた。

「徴兵されたんだ。ベトナムへ行かなくちゃならない、だからハンナ……」

 続きを言いかけると、彼女は人が変わったように取り乱し、そして叫んだ。

「駄目よ! 絶対に行っては駄目!! 逃げるのよ! そう、国外へ!!」

 僕の両腕をつかみ、ハンナは髪を振り乱して叫んだ。

「絶対にダメ! お願い! 逃げて!! 一緒に行くから!!」

 懇願するハンナの取り乱した様子に驚いて、ロザリーとグレッグもこちらに駆け寄ってくる。

「一体、どうしたんだい!? まさかベン、徴兵って、それは本当なのかい!?」

 ロザリーも青白い顔で口を覆い、あとは無言のまま立ち尽くすだけだった。

「ごめん、ありがとう二人とも。僕は行くよ、ベトナムへ。そして、必ず帰ってくるから、そのときは……」

 話を続けようとしてもハンナは耳を貸さず、興奮した様子でまくし立てた。

「ベトナムに行く!? 観光に行くんじゃないのよ!? 戦争をしに行くの! 人を殺しに行くのよ、殺されることだってあるわ!? 酒場の喧嘩とはわけが違うのよ!」

 食ってかかるハンナに、さすがのグレッグも彼女を落ち着かせようと間に入った。

「ハンナ! ベンだって戦いに行くことくらいはわかってるよ! 徴兵命令なんだから仕方ないんだよ」

 すると彼女はグレッグを睨みつけて鋭く叫んだ。

「仕方ないですって!? 仕方ないで人の命や人生を奪われて良いはずがないわ! そもそもこの戦争にはなんの意義もないのよ!? 他所の国のやり方が気に入らないアメリカの横暴から始まった一方的な略奪行為よ!!」

 目の色を変えて息を切らす。責め立てるハンナに、グレッグは調子を失い言葉を途絶えさせた。