闇に染まる町を、無言で車を走らせる。結局ロザリーと話をする間、とうとうハンナは部屋から出てくることはなかった。

 帰る前にせめてなにか言葉を掛けようと、ハンナの部屋の前で逡巡していると、ロザリーが僕を宥めるように肩を引いた。

「ベン……今は、そうっとしてやって」

 僕は目を伏せて小さくうなずくと、ロザリーの家を出た。
 もし、あのときロザリーが僕を止めなかったら、僕は彼女になんて声を掛けただろうか。

 ――どのみち、なにも言えなかったはずだ。

 時刻はもう、この町で一番遅くまで開いているロジーの店さえがその明かりを落とした頃だった。

 揺れるトラックのヘッドライトだけが夜道を照らす。それが妙に眩しくて、僕は目を塞ぎたい気分だった。

 店の前を通り過ぎるとき、僕はつぶやいた。

「アルコール、買いそびれたな」

 いつもなら真ん中に座るハンナの場所がぽっかりと空いている。その向こうで、グレッグが暗闇を見つめていた。

「今日みたいな日は、どのみち酔えねぇよ」

 車中で交わした会話はこれだけだった。

 家に着いた僕たちは、キッチンから水を取ると部屋へ戻った。グレッグは机の上に置かれたままのハンナブックに気がつくと、それを手に取りパラパラとめくっていく。

「本当に上手く描けてるよな……スゲーよ、お前にこんな才能があるなんて見抜いたハンナは……」

 最後のページで手を止めると、グレッグはおもむろに話し始めた。

「お前が振られて帰ってきた次の日、どうしても納得いかなかった俺は、一体なにが気に入らないのか直接彼女に聞きにいったんだ」

 突然の告白に、みるみる頭に血が上った。

「お前! なに余計なことしてるんだよ!?」

 グレッグは机に寄り掛かったまま、スケッチブックを置くと申し訳なさそうに言った。

「どうしても信じられなかったんだよ。お前に対して気持ちがないだなんて……だってそうだろ? お前といるときの彼女はいつだってうれしそうだったし、お前に絵を教えているときの彼女は、誰よりも楽しそうだったんだぜ?」

 真剣な眼差しに、僕の怒りも静まっていく。ベッドに腰掛けて親友の想いに耳を傾ける。

 ……そうだったらどんなによかったか。

「お前といるときの、あんなに生き生きとした彼女の姿が偽物だっていうなら、本当の気持ちが一体どこにあるのか知りたかったんだ……でも、彼女に直接会って話をしたとき、俺は確信したよ」

 僕はおそるおそる顔を上げた。

「ハンナは、『私にとってベンは本当に大切な人だけど、私にはその先に踏み出す勇気がない』って言ったんだ。おかしいだろ? 自分からお前を振っておいて、勇気がないだなんて。だから俺は思ったんだよ。今はまだ、なんらかの理由があって、そのためにお前と付き合えないだけなんだって」
 グレッグの声に熱がこもってくる。

「それが……母親と同じ病を患っている自分ってことか……?」

 グレッグは黙ってうなずいた。つまりハンナは、自分に残されている時間が多くないことを知っていたからこそ、僕と次のステージに進むのを拒絶したということか。
 自分との――ハンナとのわずかな思い出を引きずるよりも、もっともっと長い時間を共にできるような生涯の伴侶を僕に見つけさせるために……。

 放心状態でベッドの隅に座る僕に、グレッグが同情する。

「つらいよな……」

 彼の言う通りだ。こんなにもつらくて、こんなにも苦しい思いをしたことなんて一度もなかった。
 かつて一面のトウモロコシ畑という退屈から、逃げ出すことしか考えていなかった僕は、一歩外へ踏み出した世界がこんなにもつらくて苦しいことを知っていたら、その「一歩」を踏み出さないままでいられただろうか?

 だけど、その答なら僕は知っている。

 ――NOだ。

 足を前に進めなければ、目に映る風景はなにも変わらない。傷つくことを躊躇わず、前に進もうとする者こそが、きっと誰よりも自由で生き生きとしているはずなんだ。――ハンナのように。

 いつの間にか、僕はハンナから絵だけじゃなく、生き方までも教わっていたのかもしれない。

 以前ドランクモアで彼女が語った、アンドリュー・ワイエスの作品『クリスティーナの世界』を思い出す。

「クリスティーナっていうのはモデルの女性の名前よ」

 熱く語るハンナは、まるでおとぎ話の主人公に憧れる少女だった。

「彼女は手足が不自由でね。広大な野原に横たわっているの。一面に描かれた黄金のキャンバスのはるか向こう側に見える家――彼女は不自由な身体を引きずって、その家にたどり着こうと必死なの!」

 あのときの僕は、ハンナの美術蘊蓄講座がまた始まったとばかりに苦笑いしていた。そんな僕を気にも留めずに、ハンナは話し続けた。

「孤独でありながらもしっかりと前を向いて、その身体を乗り出している彼女からは希望を捨てない強い信念と孤独に立ち向かう確かな意志を感じることができるわ!」

 にやける僕に気づくと、ハンナは顔を真っ赤にして頬を膨らました。

「ちょっと!? 私の話聞いてるの? 君!」
「ああ! もちろんだよ! クリスティーナだろ?」

 今思い起こすと胸が苦しくて堪らない。あのとき、ハンナはもう十分すぎるほどに咲き誇っていた。

「私はそのクリスティーナに深い感銘を受けたのよ! 彼女の生き方こそが、私の求めていた生き方なんだって!」

 自然の中、鮮やかに咲く大輪の花がその散り際に思いを馳せることはないだろう。だけど湖のほとりで、「いつかその絵を見れたらいいね」と僕が言ったとき、彼女は湖面で羽を休める水鳥を見ながらこう言った、――「そうね」と。あのときすでに、彼女はどこへも行けないとわかっていたはずだ。

 アンドリュー・ワイエスが、孤独を抱えたクリスティーナに出会い、彼女を描き続けることで自らもその孤独の殻から抜け出したように、ハンナもまた『クリスティーナの世界』を通して、理想とする生き方を見つけた。

 でもハンナは孤独じゃない。彼女自身がどう思っていようと、彼女には僕たちがいる。ロザリーはいつだって彼女のことを心配しているし、父親のコールドマンだって大切な娘を失いたくない一心でこの町までやって来たんだ。

 ハンナにこれから起こるであろう未来を知った今、なぜ彼女が僕を振ったのかをようやく悟った。自分の無力さと不甲斐なさに、もどかしい思いでいっぱいになる。

「なあ、ベン。俺たちにしてやれることはないのかな?」

 天井を見つめたままのグレッグがつぶやいた。僕は何も答えられず、彼もそれ以上何も言わなかった。

 もし、その答えを僕が持っていたら、迷わず実行に移すだろうし、グレッグも訊ねたりはしなかっただろう。