車を走らせる間、僕たちは一言も口を利かなかった。なぜこんなにも慌ててロザリーの家に向かっているのか、そんなこと微塵も考えなかった。

 母親の生まれ故郷に一人でやって来たハンナ。決して語ろうとしなかった父親と会うことの気まずさや心苦しさ。何の役にも立てないかもしれないけど、それでも友人として傍にいてやりたかった。

 案の定、ロザリーの家の前にさっきの黒いセダンが停まっていた。勢いで来てしまったものの、一体なにを口実に扉をノックしようかと迷っていると、ハンナの金切り声が聞こえてきた。

 慌てた僕たちは家の中へと駆け込んだ。右側のリビングで顔を真っ赤にして男を睨みつけるハンナと、どうしたら良いものかと心細そうに見守るロザリー。そして僕たちに背中を向けるスーツ姿の男――。

「ベン!? グレッグ!?」

 助け舟だとでも思ったのか、ほっとした顔でロザリーが駆け寄ってくる。ハンナと男もこちらへ視線を移した。

「やあ、こんばんは。なんだか変な叫び声が聞こえたんだけど、大丈夫かい?」

 僕は、さも偶然通りかかったら――といわんばかりの口実を口にしながら、ハンナと初めて出会ったあの日、消火栓に衝突したときの苦しい言い訳を思い出していた。

「君たちは?」不審そうに男が訊ねる。
「ハンナの友達だよ、あんたこそ誰だ?」

 僕は訊ね返したが、男の正体はわかりきっている。

「私はロバート・コールドマン。フィリーで弁護士をやっている、ハンナの父親だ」

 弁護士先生ってのは、皆こんな格式張った喋り方をするんだろうか? それとも彼だけが特別なのか? 人を見下すような鼻につく喋り方に、金になる臭いを嗅ぎ分ける犬並みの嗅覚。――僕の弁護士のイメージと言えばこんなものだ。

「ベン!? それにグレッグまで……一体どうしたの?」
 ハンナが驚いてこちらを見る。

「悪いけど君たち、ハンナに用があるなら出直してくれないか? 今、我々は家族の大事な話をしているんだ」

 ハンナの父親が冷たくあしらうと、ロザリーが僕たちを守るように立ちはだかった。

「ロバート、彼らは私の客人でもあるのよ。この家の(あるじ)として彼らにはここにいてもらうわ!」

 強い口調で言い切るロザリーに、コールドマンはあからさまな態度で大きなため息をついた。

「ハンナ、少し外で話をしよう。これは我々家族にとって重要な問題だ。わかるね?」

 そのあまりの冷静さに、僕は妙な嫌悪感を抱いた。

「話すことなどなにもないわ! これは私が自分で決めたことなの! たとえパパでも、私の自由を奪うことなんて許されないわ!」

 ハンナは対照的に感情を剥き出しにしていた。誰に対しても自分の主張を惜しまないその態度は、僕の父さんに食ってかかったときとまったく同じだ。

 一つだけ違うとしたら、それは彼女が今、ひどくナーバスになってるってことだけ。

「ハンナ、落ち着いてちゃんと話し合おう。それが人間ってものだ。ただ感情の赴くままに気持ちをぶちまけたところで、お互いに納得のいく解決策など見つからないよ」

「感情を置いておけなんてありえないわ! 私はそれだけパパに対して怒っているし、なによりこれが私たちが持ってる最も人間らしい部分でもあるのよ! 本能に従ってなにが悪いのよ!?」

 怒りに震える様子は、とても普段のハンナのものとは思えなかった。それでも、その思いの丈からは、悔しさに似た気持ちが溢れ出している。

「とにかくハンナ、一度パパとフィリーに戻ってくれ。お前までいなくなってしまったら、私は本当に孤独になってしまう」

「誰のせいでこうなったと思ってるのよ! すべて自分で招いた結果でしょ!? ママがどれほど寂しい思いで死んでいったか、パパにはわからないわ!」

 目の色を変えて叫び続けるハンナに、父親であるコールドマンは、僕ら部外者を気にする素振りを見せた。ハンナに近づき彼女の口を塞ごうとする。身内の恥を覆い隠そうと必死の父親をハンナはひたすらに睨みつけた。

「あの頃は、どうしても手が離せない重要な案件を抱えていたんだ! 手に職を持ったことのあるお前ならわかるだろう? ジュリアだって理解してくれていたさ!」

 隣に立つロザリーが小刻みに震えていた。身体を抱え、二人のやり取りを見守っている。きっと、妹であるジュリアのことであっても、これは彼女にも立ち入れない親子だけの話なんだろう。

 ハンナが俯き、「それよ……」と静かにつぶやいた。

「その言葉を、あのときの本当の気持ちを、私はパパの口から直接聞きたかったのよ! その誇らしげに胸につけたバッジのように、パパは仕事と家族を天秤にかけたのよ!」

 震える声でハンナに激しく責め立てられ、始めは冷静だったコールドマンの面影など、すでにどこにもなかった。

「ハンナ! だからこそ、お前を母親と同じように死なせたくはないんだ! 今ならまだ可能性がある! 今すぐ帰って、治療を受けなさい!!」

 コールドマンの声が、部屋中いっぱいに響いていた。いや、もしかしたら僕の頭の中だけで響いていたのかもしれない。

 ロザリーは目を逸らして顔を伏せ、祈るように胸の前で固く手を握っている。グレッグはただ呆然と立ち尽くし、親子のやり取りに見入っていた。

 ――僕は? 

 あのとき僕は一体どんな顔をし、どんな心境で、あの瞬間、あの場所に立っていたんだろうか。

 連日の大雨で、濃霧の掛かった湖の公園のどこかに漂っている気分だ。
 すごく慣れ親しんだ場所のはずなのに、訪れたこともないような場所に放り出された気分。
 とても不安で、とても怖くて、そしてそれ以上、一歩も足を踏み出せそうにない。

「もうこの話はおしまいよ! 二度とここへは来ないで!!」

 ハンナはそう叫ぶと、奥の部屋に駆け込んでいった。

「ハンナ! 頼む! パパと一緒に戻ってくれ!」

 コールドマンの言葉も空しく、彼女の部屋が重く閉ざされる。錠を掛けられた音が冷たく響いた。心に何重にも掛かった錠のように、冷たく、そして重い。

「ロバート、今はあなたがなにを言ったところで、彼女の気持ちを変えることはできないわ……」

 扉の前でうなだれるコールドマンの肩をロザリーがさすった。

「おい……ベン……」グレッグが茫然と僕を見るけど、そのとき僕の頭の中は完全に真っ白だった。

 ハンナは、自分が死ぬかもしれないのを知っていて、母親の生まれ故郷のこの町へやって来た。きっと、ロザリーも姪であるハンナの置かれた状況はわかっていたんだろう。

 死を覚悟しなくてはならないほどの病に彼女が侵されてるなんて、とても信じられない。僕は堪らずコールドマンに詰め寄る。

「ハンナの病気ってのは一体なんなんだ? 急いで治療を受ければ助かるのか!?」

「君たちは、ハンナの友人だったか?」コールドマンは力なく答えると、徐々に冷静さを取り戻して言った。「悪いが、君たちがハンナから直接なにも聞いていないのなら、これは我々の問題だ。これ以上、私の口から話すわけにはいかない」

 しかし冷たく吐き捨てるその言葉とは裏腹に、顔には悲しみの色が滲んでいる。

「ハンナ! 君が首を縦に振ってくれるまで、私はこの町の近くのモーテルで宿をとるよ」

 閉ざされた扉の向こうへ声をかけたコールドマンは、踵を返し、玄関扉の前でほんの一瞬足を止めるとつぶやいた。

「二度と、同じ過ちは繰り返さない」と。

 部屋が静まりきっていなければ、聞こえない程度の小さな声だった。

 それがハンナに向けたメッセージだったのか、それとも自分への決意表明だったのか――とにかく、そうつぶやくと彼は家を出ていった。