(慌てるな……)

 大きく深呼吸してリラックスを促す。彼がどんな走りを見せようとも、自分のやるべきことは変わらない。自分に問う、まだスタミナは十分だ、まだ戦える。

 空木の走りは至ってシンプルかつ基本に忠実である。ひざ下が地面と垂直になるように足裏全体で着地する『ミッドフット』。着地によるブレーキを防ぎ、その地点は必ず『身体の中心・重心の下』で行う、重心の上下動を最小限に抑えることが大切。肩を丸めず胸郭を圧迫しないように姿勢を正す。
 登りで使う筋肉は、脊柱起立筋、大殿筋、 大腿四頭筋、腓腹筋。『大きい筋肉を使って走る』ことを意識する。
 つま先を使って上るとふくらはぎが疲労する。蹴りに頼ってつま先で地面を蹴る走りは脛やふくらはぎにも負担が多い。
 『腿裏とお尻を使って足裏全体で地面を押す』ように走る。地面を押す走りは大きい筋肉が使えて、上り坂の後半になっても一定のリズムで走れる。
 足裏全体でまっすぐ踏みこむような『踵を長くつける』イメージだ。


 腕振りでいうと肘を引く瞬間、脚運びでいうと左右の脚がすれ違う瞬間に速くなる。そんな動きが1歩の推進力につながる事を知っている。培ってきた努力を最大限に引き出すのみである。
 諦めずにやれることを少しずつ繰り返して自信に繋げていく、それが開花するのは時間が必要、空木の中でようやく、それが花開く。
 初代山の神・今井正人選手が言った5区山登りの秘訣『斜め上前方を見て、へそを出す』この場面でそんな言葉を意識したりした。



(よし、地面にしっかり力を伝えられている。これなら……)

 空木はギアを一つ下げた代りに足の回転数を上げる。力強く上るその姿は頼もしい。
 引き離しにかかっていたはずの渓介、空木の追い上げに驚きを隠せない。馬引沢の姿はどんどん小さくなっていくのに……。



 874メートルの国道1号線最高点。ここから芦ノ湖のゴールまで一気に下りに入る。まだ渓介のすぐ後ろ。
 下りで使う筋肉は、腹直筋、大腿四頭。上るだけでなく『山』そのものを攻略すべく鍛えてきた。ここで一気に1位青坂まで辿り着く!