そんなものは存在しない

 ——まただ。また私はここにいる。
 部屋の中は地下特有の湿度があり、祭壇を保護する為に空調が設備されてはいるものの、じとりと嫌な空気が身体に纏わりつき、ひんやりと足元を冷たい空気が這っていく。
 目の前の壁一面に広がる祭壇にはお恵様と彫られた墓石のような艶やかな黒い石と、それを取り囲むようにたくさんの菊の花が飾られている。
 これは母の名前が菊である理由を表していた。恵子でなくなった者は菊となりお恵様を支える一部となる。そして菊としての任を次代に譲った後は綺麗なまま人生の終わりを迎えられるよう、その散り際になぞらえて、椿という名を与えられるのだ。
 ……そうか。そうなると、早苗というのも私の名前じゃないのかもしれない。

 今更そんな事に気が付いた。恵子から逃れる手段として縋ってきた名前だったけれど、早苗という字面は花になる前の状態を表しているように見える——あぁ、きっとそうだ。
 私には、始めから私の人生など用意されていなかったのだ。
 死ぬなら私の人生を取り戻してからだと心に決めていた。全てを壊し、恵子でなくなった私は早苗に戻れるのだと。でも……戻った所でそれは、恵子になる為に付けられた名前なら、意味が無い。だってそれは私じゃない。
 私がいない。どこにもいない。昔も、今も、これからも——なんで?

 コンコン、

 部屋の閉じられた扉が開かれる。お母さんだ。

「恵子、ご飯を持ってきたわ……あら? 朝の分、まだ食べてないの?」
「…………」
「食べないと元気が出ないわよ。あれから三日も経つけれど、いつまで意地を張るつもり?」
「…………」

 全てを思い出した私には薬を飲ませる必要が無くなったので、飲食に対しても必要最低限でしかお母さんは口を出さなくなっていた。あの薬は私の記憶に蓋をするものだったのだと隠す気も無くなったお母さんから当たり前の顔をして淡々と説明されたのだ。全ては私が恵子になる為に必要な事だったのだと。

「頑張るのは良いけれど、辛い時間が長引くだけよ。あなたには何も出来ないでしょう」
「…………」
「良い加減決めなさい。恵子として生きていくのか、また今の命を手放し、始めからやり直すのか」

 お母さんが指を指す先、吊るされた縄には過去の私がぶら下がっている。あの日からずっと、ずっとぎしぎしと縄が軋む音が部屋の中を響いている。

「そうしたら、身体が死んでしまう前にちゃんと助け出すから、また病院からやり直しましょう。大丈夫。先生も手伝って下さるし、前回あんなに上手くいったんだもの。次はもっと上手くやってみせるわ。あなたは全て私に任せれば良いの」

 ……そうか、だから首を吊らせたいのか。
 自分から今の人生を捨てる意思確認と、身体の機能を一時的に停止させる為の手段なのだ。恵子ではない私の存在を消す為に、死なない程度に痛めつける方法。死んでしまう前に助け出された私は目が覚めた時に何も覚えていないように治療され、新たに恵子として生まれ変わる。そういうシナリオだった。

「いつでもどうぞ。ずっと見ているからね」

 私は、私は一体何なのだろう。
 まるで人の扱いではない。物だ。供物であり、生贄である事の真の意味を理解した。
 この人達から見た私は、人間ではないのだ。

 ——バタンと、扉が閉まる。
 すると室内にはまたギシギシと、縄の軋む音がし始めた。ずっとずっと過去の私がそこにぶら下がっているからだ。恨めしそうに私を見つめながら——頭が、おかしくなりそうだった。

「……どうしてそんな所にいるの?」
「…………」
「金槌もバレてた。あなたが私に繋いでくれて、せっかく記憶を取り戻したのに……結局前と同じ事になっちゃった。もう、どうしたらいいんだろう」
「…………」
「どうしよう、どうすれば良い? わからないよ。だって私は早苗だけど、早苗は結局恵子なんだよ。じゃあ今の私は? あなたは?」
「…………」
「私達、この世のどこにもいないんだよ……」

 呟く私を彼女はじっと見つめていた。見つめたまま、何も答えてくれない。まるで私の意思はもう伝えてあるだろうとでも言われているようだった。

「……そうだよね。壊したいんだよね、あなたは。私もそう。何もかもが嫌だ。無くなれば良いと思う。でも、壊した所でもうその先に取り戻したい私はいないんだよ」
「…………」
「生まれた時から私は私じゃなかった……私は、人間として扱われてもいなかった。ずっとずっと、私だけが気づいてなくて……本当、馬鹿みたい」

 馬鹿みたい。馬鹿みたい。無駄だった、全部全部。命を捨てる覚悟すら、私の決意は、足掻きは、全てが無駄だった。

「もう嫌だ……」

 涙があふれて止まらない。その涙すら誰にも届かない無駄なものだとわかっているけれど、それでも止められるものでは無かった。



「……——恵子?」
「っ! お、姉ちゃん?」

 呼ばれた声にハッと目を覚ますと、目の前にはお姉ちゃんがいた。そこは変わらず地下室で、どうやら私は泣き疲れてそのまま眠りについていたらしい。次の日になり様子を見に来たお姉ちゃんがちょうど私を起こした所のようだった。
 でも、なんでお姉ちゃんが? ここはお母さんしか知らないはず。
 私のその疑問は、お姉ちゃんに伝わる程に顔に出ていたのだろう。

「お兄ちゃんに知られたからね。情報が解禁されたんだよ」
「……お姉ちゃんは知ってたんだ」
「うん。お母さんと私だけしか知らない。ずっとお母さん一人で監視しているのは不可能でしょ?」
「…………」

 ずっと、お姉ちゃんは知っていたんだ。家族の一員なのだから当たり前だけど、お姉ちゃん相手だと少しでも信頼した自分がいたから裏切られた気持ちが強くなる。

「……お兄ちゃんは?」
「元気だよ。お恵様に許されたんでしょ?」
「……そう」

 良かった、お兄ちゃんが無事で。あの時のやり取りでお兄ちゃんが救われたなら、私がここにいる事に一つでも意味が生まれたと思える。

「恵子、泣いたの? 瞼が腫れてる」
「…………」
「そっか、辛いんだね。じゃあまた首を吊るの?」
「……は?」

 それは、普通の態度でそんな事を口にするお姉ちゃんが違う生き物に見えた瞬間だった。驚く私に、「だってそうでしょ?」とお姉ちゃんは平然と続ける。

「あなたはいつも自分の責任と向き合おうとしない。前回は人のせいにして首吊って終わろうとしてたよね」
「何それ……私が悪いって言いたいの?」
「だってそうでしょ? 自分の心の問題なのに。受け入れないとここが無くなっちゃうんだよ?」
「別にいいよ、無くなればいい!」
「それじゃ困るんだよ。ここにしか居場所が無い人がいるんだよ? もっと冷静になるべきだよ。もう大人でしょ?」
「そんなのお兄ちゃんにも言われたよ! 知らないよそんな事!」
「でもそれがこの家の犯した罪じゃないの? あなた達お恵様と恵子が繰り返してきた事の被害者が存在する事。そこから目を逸らしちゃ駄目だよ」
「……っ、」

 お恵様と恵子が繰り返してきた事の被害者。そう言われると、違う視点から物事が見えた気がして怖くなった。違う。被害者は私だ……私だったはず。

「ちょっと酷い言い方をしちゃったけど、それも事実だよ。でもあなたが被害者なのも間違いでは無い。一体誰の何から始まったんだろうね」
「誰の、何から……」

 そういえば、ずっと続いて大きくなった事って、お兄ちゃんも言っていた。簡単に終わらせられる事じゃないと。

「私は良いんだ、始めから割り切ってるから。親の所にいた頃より衣食住に困らない良い生活が出来てるし。だから私個人としては私が生きてる間は無くならないで欲しいし、面倒事も起こらないで欲しいけど……何事も無く続けるって事はさ、あなたの次の恵子をまた生まないといけないって事だよね?」
「……え?」
「弟と妹も。あとお父さんもか。結構やる事あるよ?」
「…………」

 ——次の、恵子?
 そういえば、そんな事をおばあちゃんも言っていた。でも現実として考えた事も無かった。そんな先の事……だって私は今の私の事で精一杯で、私は私の事だって解決出来てないし、恵子である事だってやらされてるだけだ。この先の事なんてなんで私が考えなければならないの……?

「そろそろちゃんと考えなよ、自分の事」
「…………」
「あ、そっか。あなたが被害者って事は、次の恵子も被害者になるのか……色々難しいね」

 そう言い残して、お姉ちゃんは部屋を出て行った。私は……私は、間違っているのだろうか。


 ギシ、ギシ……ギシギシ……
 静かになった地下室内にはあの音が響いている。ずっとずっと、それは鳴り止まない。
 私はどうしたら良いのだろう。もう、何もわからなくなっていた。お姉ちゃんの話を聞いてからずっとそうだ。ずっとずっと、心が気持ち悪い。私はずっと間違い続けているのだと、何かから責められ続けている。
 何を選択するべきなのかわからない。恵子を受け入れるか、全てを壊してここで首を吊るか。この二択しか私には選択肢が無いのだというのに、どちらを選んでも正解では無いのだ。そして、どちらの先にも私としての人生は存在しない。
 私はもう、私を諦める選択肢しか持っていない。
 ギシギシ、ギシギシと縄の音が耳に響く。ずっとずっと、私を責めるように。

「——もうやめて!」

 それにもう耐えられなくて、全て吐き出すように彼女に怒鳴りつけた。けれど、彼女は何の反応も見せずに私を見つめてぶら下がったまま。
 この部屋に入ってからずっとそうだった。ずっとずっと、この部屋ではそこにいなければならないみたいに。それが現実だと言わんばかりに。忘れるなと、あの日の後悔と恵子への憎しみを詰め込んだその瞳がずっと私に訴えている。考えろと。行動しろと。——でも。

「何か言いなよ! なんで何も言ってくれないの? そんな所にぶら下がってて楽しい?」

 ずっと自分のそんな姿を見せられて、ずっとそんな音をたてられて、平気でいられる訳が無かった。今すぐやめて欲しいし、出来ないなら消えて欲しい。薬の影響は無いはずなのに、どうして話してくれないの? どうして一緒に悩んでくれないの? どうしてそこから私を見るの、どうして私の側に来てくれないの!

「助けてよ! どうしたら良いのか教えてよ! 私の為にいるんでしょ⁉︎」
「…………」
「ねぇってば! もうあなたしかいないの!」
「…………」

 きっと頭がおかしくなって幻覚を見ているのだろうと思う。ずっとずっと。病院で目が覚めた日からずっと私は頭がおかしいのだ。それはそうだ。薬で脳の機能をいじられて平気でいられる訳が無い。でも私はもう、その私に縋るしかない。
 私にはもう、私しかいない。

「……て」
「え?」
「……して」

 その時。掠れた声が聞こえて来た。彼女のものだ。聞き逃さないよう全神経を彼女の口元に集中させる。すると、

「壊して」

 彼女の言葉が、はっきりと聞こえた。
 全てを壊す。それはずっと変わらない、あの日の私が残した未練で、次の私へ引き継ぎたい意思だった。

「……壊したいよ」

 壊したい。全部全部。全部壊して死ぬ前のひと時でも私を取り戻したい。そう、思っていたけれど。

「でも、取り戻す私がいないんだよ。私はどこにもいないの」
「…………」
「感情で壊した先で、結局何が手に入るの?」
「……じゃあ恵子になるの?」

 突然、カッと目を見開いた彼女が見せたのは、鬼のような形相。

「恵子になるなんて許さない……恵子になるなんて許さない!」
「わかってる。わかってるけど、」
「恵子になるなんて許さない! 恵子になるなんてっ、」
「わかってるからやめて、お願い!」
「…………」

 私の声にぴたりとその言葉を止めた後、彼女は壊れたようにボソボソと呟く。

「恵子になるなんて許さない……」

 その呟きは止まる事なく、縄の軋む音と共にこの部屋に響き続くのだった。



「恵子、もう一週間よ」

 扉が開く音と共に、久しぶりにお母さんの声を聞いた気がした。丸一日、昨日は一度もお母さんが部屋に来なかったからだ。

「……なんで昨日は来てくれなかったの?」
「心を決めるのに邪魔になったらいけないと思ったのよ」
「…………」

 もう、精神的にも肉体的にも擦り減り続けて、私は限界を迎えていた。私にとどめを刺したのは過去の私だ。あれからずっと、今もずっと、彼女は呪詛でも唱えるようにあの言葉を口にし続けている。

「……で、決まったの?」
「…………」
「これ以上お客様をお待たせ出来ないわ。これが最後のチャンスよ」
「! ……」

 これが、最後のチャンス。
 恵子として生きるか、今すぐここで首を吊るか——私は、とにかくここを出たい。ここを出る為には、私はっ、

「恵子になるなんて許さない」
「わかってるよ!」

 突然叫んだ私に対して、お母さんが驚いた顔をしていた。けれど関係ない。ここを出るには彼女に認めさせないといけない。

「じゃあ死ぬの?」
「死なないよ! あなたがそこにぶら下がってるおかげでね!」
「じゃあ壊すの?」
「……わからない」
「壊しなよ」
「今は出来ない」
「やってよ!」
「駄目なんだって!」

 彼女は怒っていた。私がここを出る為に恵子を受け入れようとしている事がわかっているからだ。これは私自身の心の葛藤の表れだった。

「何が正解なのかわからない。でも、もうここにはいられない。わかるでしょう? 決めないと!」
「逃げたいだけでしょ、そんなのまた同じ事を繰り返すだけ!」
「違う! だって私にはこれしかない! あなたは知らなかったけど、今の私はわかってる! 私には、恵子としての私しかいないんだよ!」

 恵子を捨ててこの場所を壊す事で私は私を取り戻せると信じていたのに。取り戻せる私なんてものは始めから存在しない事を知り、それはただこの場所で生まれた被害者を増やし、責任から目を背ける事だと言われた。でも、このまま同じ事を続けていく先には、私と同じ人間を作る事、私がお母さんになる未来しかない。
 どちらも間違いで、何が正解なのかわからない。ただ、この地下室で悩み続ける事はもう出来ない。最後の選択の時が来てしまった。
 ……限界だ。身も心も。一度、流れに身を委ねたい。もう一度外の世界を見よう。過去の私にとって一番受け入れられない事なのはわかっているけれど、今はそれが最善の選択なはずだ。

「……なんで、なんでそんな事を言うの……」

 まるで置き去りにされた子どものような瞳で、彼女は私を見つめていた。でも、今ここで私の心は決まったのだ。

「だって、生まれた時から私の人生なんて存在しなかったんだから。この家に生まれて、早苗と名付けられた瞬間から、全ては決められていたんだよ。そうだよね? お母さん」
「……そうよ、その通りだわ」
「だから受け入れるしかないんだよ。これからを考える為に受け入れる。でも、あなたを置き去りになんてしない」
「…………」
「あなたは、過去の私。全てを受け入れるから、だから、もう許して」
「…………」

 私の言葉に絶望したような表情を見せた彼女は、次の言葉を飲み込むようにして、口を閉ざした。そしてそのまま、彼女が口を開く事は無かった。
 
「……恵子?」

 お母さんが心配そうに私の顔を覗き込む。

「……決まったのね」
「うん」

 私はそのお母さんと真っ直ぐに向き合った。

「私、恵子である自分を受け入れる」

 お母さんは嬉しそうに笑うと、私をぎゅっと抱きしめた。
「恵子、復帰したんだ」

 お姉ちゃんに声を掛けられて、それに笑顔を作ってみせる。

「もう良いの?」
「何が?」
「ここを引き継ぐ覚悟」
「……もう、それしかないから」

 地下室から私が戻ると、私の記憶が戻った事を家族は皆知っていた。知った上でまた、今まで通りの生活に皆戻っていた。お兄ちゃんも、無事に家で顔を合わせる事が出来てほっとしている。全てが元に戻り、いつも通りの毎日がまた始まった。
 平和な日々だった。私さえ納得して受け入れれば、何も問題の無い毎日がここに生まれる。実際は歪な繋がりを持つ家族だとしても。

「恵子が戻って来て良かった」

 お姉ちゃんの言葉にまた笑顔を返して、一人の部屋に戻る。祭壇の部屋とは違い、そこは私の為の居場所だった。恵子である限りここは私の部屋だ。あんな場所、もう二度と戻りたくない。

 ——逃げただけでしょ?

「!」

 声がした気がして振り返ったけれど、そこには誰もいなかった。私は、逃げた訳じゃない。私という存在と向き合ったからこそ恵子である自分を受け入れられたと思っている。だってこれしか道は無いのだから、仕方ない。
 お姉ちゃんの言葉の意味を考えれば、余計に受け入れる事が正しくて、それを私の人生にしてしまえば何も問題が無いのだという事がよくわかった。そう、何も——だって私は何者でも無い。
 私は私という人間ではない。恵子を存在させる為に産み落とされた器、ただそれだけだから。このままこの宗教を続ける事になるといずれ新しい恵子を生む事になってしまうけれど、私がここに恵子として存在し続ける限り、その役目を次の恵子に引き継ぐ必要が無い間は平和でいられる。私は恵子だ。私が恵子である内は問題無い。
 ——それなのに。

「恵子さん」

 お客様にそう呼ばれる度に、心をぎゅっと絞れられるような苦しみを感じた。記憶が戻ってしまったせいだ。その名前を聞く度に、拒否感と嫌悪感が心に生まれ、途端に吐き気に悩まされる。

「恵子さん、聞いてます?」

 そのうちに頭の中に閉じ込められたように自分を責める言葉とこの先の不安の事しか考えられなくなって、ギシギシと、あの音が聞こえてくる。あの私はきっと、今もあの縄に吊るされているのだろう。

「恵子さん? 恵子さん」

 もうやめて。頭の中で色んなものが混ざり合ってどの処理も追いつかない。これ以上話しかけないで。私は恵子として上手くやってる。大丈夫。私が恵子だから、考え事を増やさないで。お願いだから。

「はぁ……お疲れなんですね。昔のあなたもそうでした。仕方のない事ですが……残念です」
「…………」
「私達の為に辛さに耐え抜くそのお姿はご立派ですが、目の前の私達の事も忘れないで下さい。あなたに会う為に皆、尽くしているものがあるのです」
「…………」
「すみません、我儘を言いました。ですが、これも恵子さんの為です。これからの未来の為です」
「…………」
「先代はご立派でしたよ」

 刺々しい言葉の全てを、黙って受け止めた。多分、私が地下室にいた間に業務が止まっていた為、ご迷惑をお掛けしてしまった分の苛立ちの上に私のこの態度で不満が爆発してしまったのだろうと思う。わかってる。頭ではわかっているけれど。

「では、私は恵子としての務めが果たせない出来損ないだとおっしゃるんですね」

 私の言葉に、目の前の彼女が凍りついた。

「いっ、いえ、決してあなた様を否定している訳ではっ、」
「はは、それで正解です。よくわかってらっしゃる。よく、よーくあなたは私の事が見えている」
「っ……」
「あなたの目には、私が恵子として映っていないのですね」

 当たり前だ、私はあなたの思う恵子じゃないのだから。理想の恵子なんてものは概念なのだから、その人の心の中にしか存在しないものだ。目の前に存在する事の方がおかしいって、なんでここまでわかっててこの人はわからないんだろう。
 馬鹿ばっかり。その理由は簡単、全員自分の事しか考えて無いから。自分が救われる事しか考えて無いから。家族も、この人も、私も、ここにはそんな人しか存在しない。
 ……あぁ、違う。駄目だ駄目だ。

「ごめんなさい。これからも頑張ります」
「いえ……いえ」

 もう情緒がおかしくなっている。これじゃあ八つ当たりだ、このままではいけない。私は恵子でないとならない。だって、私にもこの人達にもここにしか居場所が無いのだから。私なんて……人でもないのに。

「私は恵子、恵子なんだ。恵子……恵子」

 上手くやらないと。じゃないとまた、地下室に連れてかれる。

「恵子なので……あなたの話を聞きます。何かお話が?」
「……っ、」
「お悩みを聞かせて下さい。それとも私の話をしましょうか。私はあなた方の為にあるのですから」
「い、いえ、いいのです。十分です。少し早いですがお暇させていただきます」
「そうですか……お気をつけて」

 お客様は出て行って、気持ち悪かった胸のむかつきもおさまった。疲れた脳がオーバーヒートしたみたいに怠くて重い。ぼんやりと水中を漂っているような気怠さに身を預ける。
 恵子を受け入れる決心をしたはずなのに。もうやるしかないとわかっているのに、上手く出来ない。これが心がついていかないという状況か……頭でわかっていても、身体の不調に引っ張られるように心のアクセルとブレーキが上手く効かない。急発進と急停止を繰り返している。
 ……けれど、その不調を家族にバレてはいけなかった。そんな事になったらまた地下に閉じ込められて、今度こそ私は縄に吊るされる事になる。
 私は恵子だ。恵子でないといけない。その為にはなんとかこのストレスを解消してやり過ごさないと——そんな時だった。

「恵子。またお散歩行かない?」

 その提案は、お姉ちゃんから差し伸べられた救いの手のように見えて、私はすぐに承諾した。またお母さんからの指示かもしれない。何か思惑があるのかも。だってこの間のお客様への対応は上手くいかなかったし……色々思う事はあったけれど、前回の時に感じたあの清々しい開放感が私を変えてくれないかと、藁にもすがる思いだった。
 仕事が、休んでいた分たまっていた為、前回のように午後丸々お休みにする事は出来ず、今回は夕暮れ時の散歩となった。黙々と二人で歩き辿り着いた先。そこに待つのは変わらない綺麗な草の緑と真っ赤な夕日を広げたオレンジ色の空。心地の良い風がさらりと流れていき、その冷たさに秋の訪れと夜の来訪を感じた。
 あの日と少し違う景色の中、同じようにベンチに座ると、お姉ちゃんがお菓子を鞄から取り出した。なんでもうすぐご飯なのに?と疑問に思う私に、外で食べると特別な味がするからこういう時は食べないともったいないんだよ、という自論を教えてくれた。

「で、恵子。最近どう?」
「……お母さんに聞くよう言われたの?」
「そうだね。でも……まぁ、私も心配してる」
「…………」

 心配してると言われても、もちろんそのまま素直に受け取る事なんて出来ない。私を疑っているからこうしてまた探りを入れているに違いないし、お姉ちゃんももうそれを隠そうとはしていなかった。
「あのさ、恵子」と、お姉ちゃんは真面目な顔をして私を見る。

「あの時さ、また恵子は戻ってこないんだろうなって正直思ってたんだ。でも戻ってきたじゃん」
「…………」
「なんで? 何が恵子の中で変わったの?」
「…………」

 あの時っていうのは地下室で話した時の事だろう。なんでって、言われても……私がまた恵子として家族の元に戻ってきた理由。その方向へ考えるきっかけを与えたのは紛れもなくお姉ちゃんだ。

「お姉ちゃんは、私を戻らせたかったんじゃないの?」

 だから、あんな話をしたんだと思っていた。私を取り囲む現実の話を。想像もしていなかった未来の話を。
 私の中で、一体何が変わったのか。

「今までは、私が恵子にならないとどうなるかまで考えた事は無くて……まぁ、死ぬつもりでいたから私には関係ないし、考える意味も無かったから。恵子についてちゃんと考えようと思った事は一度もなかったんだ」
「…………」
「でも、お姉ちゃんに言われてから、恵子を受け入れない事も悪い事な気がしてきて。今回の事で結局何をしても恵子からは逃げられない事がわかって、そもそも元の私なんてものも存在しなかったし、だったらもう恵子として生きるしかないんだなって。地下室から出たいからっていうのも大きいけど、でも、お姉ちゃんと話してから恵子になるべきなんだろうなって考え方が頭の隅に生まれたんだよね。恵子になる理由が増えたっていうのかな」
「…………」
「今はここにいる為に恵子にならなきゃって思ってる。ここにいたい訳じゃなくて、恵子になりたい訳でもないけど、それしかここに生まれた私には生きる道が無いから。多分さ、みんなそうなんだよね」

 家族の皆。お客様の皆。この場所を必要とする皆。
 辛さのふちで、その瀬戸際で耐えている皆。

「何かと死ぬかの二択を選びながら生きてる。その何かがこの場所って人もいて、そんな人を作ってしまったのがこの家って事でしょ? その責任を負う人が私なんだよね? だって、恵子なんだもん」
「…………」
「まだ、正直何が正解なのかわからない。こんなもの無くなれば良いって思ってるけど、無くすのは人を殺してしまう事に繋がるかもしれないとなると、無責任でもいられないし、とにかく今は恵子を受け入れるしか道は無いって、そう思ったの。言ってて自分でもよくわかんないんだけど……伝わったかな」
「…………」

 お姉ちゃんは、じっと黙っていた。黙って私の話を聞いて、じっと私の目を見つめると、ふっと力が抜けたように微笑んだ。

「恵子ってさ、真面目だよね。才能あるよ、人々を救う存在側の」
「……何それ」
「いや、ちゃんと受け止めて考えてくれてありがとうって事だよ。とりあえず私が路頭に迷わないで済む事がわかった」
「……お姉ちゃんってさ、結局信者なの?」

 飄々とした態度に、その言動もそう。全然信者には見えない。

「信者だよ信者。子供の頃からここにいるんだから」
「信仰してたのは親で、お姉ちゃんは違うんでしょ? よく今日までお母さんに追い出されないで家族の中で生きてこれたね」
「ここにしがみつくしか生きられなかったんだから、なんでもやりますよ。変えられる力みたいなものが私には無いからね。でもさ、恵子にはあるでしょ?」
「……?」

 どういう事だと首を傾げる私に、お姉ちゃんは笑っていった。

「だってあなたは教祖様なんだから」

 それは一体、どういうつもりの言葉なのだろうか。

 “教祖様”
 その言葉が私を表すものだと言われてもちっともピンと来なくて調べてみた。宗教の創始者や指導者の事を指す他に、神と信者の仲介者として信者の苦悩を救済する人の事も指す事があるらしい。後者は確かに私の立ち位置として合っていて、なるほどと思った。私の中では教祖はお母さんだと思っていたけれど、恵子という名前と一緒に教祖という立場も私が引き継いだという事か。
 つまり、フランクに“恵子さん”と呼ばれてはいるが、“教祖様”と呼ばれているのと同じという事。そう思うと更にその名前が重く感じる。
 嫌なのだ。その宗教の教祖が一番お恵様という神を信仰していないなんて笑える。ここに神など存在しない証拠のようだった。起源は大分昔の話だというからわからないけれど、今はいない、絶対に。だってお恵様の天啓を一度も感じた事はないし、お母さんからどういうものか教えられた事も無かった。
 ずっとずっと、ただの私が話を聞いているだけ。それを有り難がっている信者を騙しているだけ。そういう宗教の神としての仕事が今日も詰まっている。毎日毎日、飽きもせず悩みを抱えた信者達がやってくるこの部屋は、とても窮屈だった。けれど、そこにしか私は存在出来ない。ここにいるのはただの私なのに。でも、私って誰?
「恵子さん」

 なんだかもうわからなかった。私は何がしたいんだっけ。何をするべきなんだっけ。

「恵子さん」

 そう、恵子でないとならない。でも、それが結局何になるの? だって救われたいのはあなたじゃないで私。私はいつ救われるんだろう。私は……でも、救われてた。記憶がない頃の私は、確かにこの部屋で救われていた。私達は同じここにしか居場所のない存在だった。

「恵子さん」

 ……そう。私には責任がある。生まれてしまった責任が。この宗教の人々を守らないと。悪い人達ばかりでは無いのだ。皆優しかった。ここで私は息をしていた。記憶が無い私はここで一緒に生きていた。

「恵子さん、大丈夫ですか?」

 ハッと我に返って目の前のお客様に目をやる。見覚えのある女の子だった。
 あ、この子は……。

「……三回目ですか?」
「! そうです三回目です! 前回は高校卒業出来そうだってお礼をしに来て……え〜、覚えていてくれたなんて嬉しいです……!」
「……私の話も聞いてもらいましたから。お元気そうで何よりです」

 確か、以前私が過去の私について初めて訊ねたのが彼女だった。嬉しそうに私を語る彼女は印象的で、純粋な笑顔が眩しかったのを覚えている。

「恵子さん……またお悩み事がありますか?」
「はい?」
「でも前回ともちょっと違うな……疲れて見えます、とても……。なんというか、制服の頃の恵子さんみたい」
「…………」
「あっ、でも私まだ三回目だからわかっていないのかもしれませんよね。失礼な事を言ってしまっていたらごめんなさい……でも恵子さん、顔色が……心配です」

 “心配です”純粋にその感情だけでその一言が私に向けられたのは、随分と久し振りの事のように感じた。信者の言葉だ。ただ恵子がいなくなったら困るから、という意味合いを含んだ“心配です”は何度も聞かされてきた。けれど彼女の言葉は……なんだろう。本当に私の身を案じてくれているような、そう受け取れる空気感が彼女にはあった。
 純粋なのだ。彼女の醸し出す全てが。
 
「……ありがとうございます」

 ——でも、そんな彼女も信者の一人だ。

「これも私の仕事なので、平気です」 

 この受け答えで間違い無い。こう言わないとならない。そして彼女は納得するだろう、そう思っていた。
 けれど、彼女は違った。

「……それが、私達の辛さを引き受ける、という事ですか?」

 彼女は衝撃を受けたような表情をしていた。驚いたというよりはまるで、傷ついた時のような。

「私……私、全然わかってなかったんですね、恵子さんの事」
「……何がです?」

 何を言われるだろうと身構える。さっぱり想像つかなかったからだ。気づけば真っ直ぐに私を見つめる彼女と目が合っている。彼女は、ゆっくりと口を開いた。

「私、恵子さんが私達の辛さを引き受けてくれているから私達は笑顔で生きていけるんだって聞いて、それを信じてて、実際に恵子さんにお話を聞いてもらって心が軽くなったし、良い方向へ進めたし……でも、だから不思議に思ったんです。私の辛さを引き受けた後、恵子さんはその辛さをどうするんだろうって」
「…………」
「お恵様の祝福のおかげで恵子さんは大丈夫なんだって他の人は言っていました。でも、お恵様は神様だけど、恵子さんは人間じゃないですか」
「……え?」

 今、何て言った?
 当然の事のように彼女が口にしたその事実は、私の中にある常識を覆す言葉だった。けれど彼女はまだそれに気づいていない。

「いくら神の子だとしても、引き受けるものが多ければ当然倒れてしまいますよね。人間なんだから当たり前です。でも私は気づけなかった……こんなに恵子さんに助けて貰ったのに、私達の幸せの分、恵子さんが辛さを背負ってこんなにぼろぼろになるなんて……」
「…………」
「私、恵子さんを支えられる人間になりたい。恵子さん、言って下さい。皆の分は無理だとしても、あなたの辛さは私が背負いたい」
「…………」

 あまりの衝撃に言葉も出ない私の反応を見て、ハッと我に返った彼女はあたふたとして、「さ、差し出がましい事を言いました、すみません……」と頭を下げた。私は、その姿をじっと見つめていた。
 そして、言葉が音になって口からこぼれ落ちた。

「……私は、人間ですか?」

“お恵様は神様だけど、恵子さんは人間じゃないですか”
“いくら神の子だとしても、引き受けるものが多ければ当然倒れてしまいますよね。人間なんだから当たり前です”

「あなたの目から見た私は、人間ですか?」

 私の問いに、彼女は驚いた顔をしたけれど、真っ直ぐに私を見つめて頷いた。

「はい、人間です。私を助けてくれた人です」
「……っ、」

 その瞬間、目から涙がこぼれ落ちた。
 
「! け、恵子さん? ごめんなさい、大丈夫ですか? わ、私失礼な事を……!」
「大丈夫です。……嬉しくて」
「嬉しい?」
「はい。嬉しくて……私も、私もここで、私として皆さんとお話ししていたから……」

 そう。私は恵子だけど、恵子じゃない。私は私だった、ずっとずっと。恵子の役をして、ここにいたのは私という人間。

「ここには……いつも、私とあなたがいました。恵子という名札をつけた私と、名前を伏せたあなたの、二人の場所です。ここではずっと、私は私だった」
「? そうですね」
「そうだ、記憶を無くして恵子として仕事をしていた時が、一番私が私らしく生きていた瞬間だったんだ。だから私は救われた。同じ人間だったから私達はここで、ひとりぼっちの寂しさを埋め合い、支え合い、辛さを分け合っていた」
「……恵子さん?」

 どうしたんだろう、という表情で彼女が首を傾げる。純粋な彼女。きっとまだ三回目の面会で、この宗教に染まり切っていないのだと思う。そんな彼女のおかげで今、私の世界に光が差した。思いがあふれてやまなくて、喜びから思わずその彼女の手を取る。

「ありがとう。おかげで答えが見つかりました。感謝してもしきれません」
「え⁈ いやそれはこちらの方です」
「いえっ、あなたが私を認めてくれたから。あなたは命の恩人です!」
「えぇ⁈」

 訳がわからないと、目をチカチカさせている彼女の手を両手でぎゅっと握った。あ、これよくお母さんとおばあちゃんがやるやつだ、と、ふと頭の隅で思う。二人もこんな気持ちで私の手を握っていたのだろうか。

「……もし、もしもお互い名前が変わっても、あなたとお話しした今までの時間は何も変わりません。だってそれは全て私だったのだから。そしてこれからも、私は私です」
「……はい」
「私が、あなた達を導きます」

 それは、宣誓の言葉。私に向けて。あなたに向けて。これからの進むべき未来に向けて。
 埋もれて見えなくなっていた一本の道が切り開かれた瞬間だった。
 ずっとずっと、辛かった。
 でも、誰も私の辛さに寄り添ってくれる人はいなかった。だって私は恵子だから。恵子である私にとって辛さは耐え抜くべきもので、人々の代わりに耐え抜く事こそ恵子の役目であるとされてきたから。

 私という人間には、生まれた瞬間から恵子という在り方以外の道は用意されてなどいなかった。
 次の恵子にする為に生まれてきたのだから当たり前の事で、そこから逃げ出す事は出来なかった。命を落とす覚悟を持ってなお、逃れられない事を知り、死ぬ事すら許されなかった。次の恵子を用意するまで私はたった一人の恵子であるからだ。

 だから、私を恵子とする全てを壊そうと思った。壊して全てを取り戻そうと思った。
 それなのに、取り戻すべきものなど私には無くて、感情のまま壊してしまった先に、恵子と共に背負っていた責任の分だけ人々の命を脅かす事になると知らされた。知ってしまえば行動に移す事は出来なくなり、私には恵子として生きる他に道は無くなった。

 けれどその道でさえ、次の恵子という被害者を生む未来が待っている……負の連鎖の上に、私は立っていた。きっとずっと、おばあちゃんも、お母さんもそうだったのだろう。

 恵子を受け入れる事は苦しみを背負って立つ事で、けれどその苦しみを生み出す責任者は私という、正に地獄へ足を踏み入れた状態で生きる事が約束されていた。逃げる事は出来ない。続ける事も出来ない。でも、やめる事も出来ない。八方塞がりだった。

 ——けれど、ようやく目が覚めた。

“だってあなたは教祖様なんだから”

 お姉ちゃんの言葉の意味がやっと理解出来た。
 私はこの宗教の教祖である。信者は皆、私の元に救いを求めてやってくる。私が神の恵みを与える者だと信じているからだ。そして、本当に救われたのだと心を軽くして帰っていく。そこにいたのは神では無く、ただの私だったなのに。

 つまり、信じる神は心の中にいるかもしれないけれど、この場所には存在しないという事。そんなものは初めから現実に存在していないのだ。恵子も、お恵様も、その祝福とやらも全て。
 あるのだとしたら——そう。そこにあったのは、私とあなたの剥き出しの心。辛さ、苦しさ、悲しさ、やるせなさ……そんな簡単には人に見せられない心の奥底にある不安の塊を、私達は見せ合って、ひとりぼっちの心を支え合っていた。

 きっと記憶を失わなければわからなかった。全てを無くした迷子の私を受け入れてもらった事。あの経験が無かったらきっと、こんな風には思えなかった。こんな答えには辿り着けなかった。


「あのさ」

 家族全員で食卓を囲む中、突然の私の声掛けに皆箸を置いた。「何?」と、お母さんが答え、全員の視線が私に集まる。

「私、ずっとみんなを振り回してきたよね。家族の事も、お客様の事も。でももう終わりにしようと思う」
「……どういう意味?」

 訝しげにお母さんが私に問う。家族もどこか不安気に私を見ていた。でも大丈夫なのだと、私は頷き返した。

「私、生まれ変わるよ。心を決めたの。私がこの場所の責任者である自覚を持って、皆を引っ張っていく存在になろうと思う。だからお客様にも安心して貰えるようにお話しがしたいから、集会を開いて欲しい」
「……なんでわざわざ開く必要があるのかしら」

 お母さんは警戒している。無理も無い。これまでの私のしてきた事を考えれば当然の反応だった。けれど、これは絶対に必要な事だ。ここで引く訳にはいかない。

「最近お客様の中で私について納得がいっていない方がいるらしいね」
「…………」
「色々心が不安定だったせいでお休みもしちゃったし、迷惑ばかりかけてしまったもんね。でももう大丈夫だって伝えたいの。一人一人だと伝わるのに時間が掛かるから、全体に伝わる集会を開いて、その時ライブ配信でもしたらどうかなと思うんだけど……お兄ちゃん、出来るよね?」
「あ、あぁ。出来るよ」
「そしたらお姉ちゃんは会場の手配出来る?」
「いいよー」
「お母さんは開催の連絡をして欲しいの。お願い出来るかな」
「…………」

 お母さんがじっと私を見つめている。信じられない、何を企んでいるのかと——でも。

「お母さん」

 私は、その視線を受け止めて、お母さんの手を取った。

「お母さんも、今まで大変だったんだよね。ごめんね、私がグズグズしてきたばっかりに。お母さんもずっとずっと、小さな頃から頑張ってきたんだよね」
「…………」

 お母さんの瞳が揺れる。そこにはきっと小さな身体で辛さも苦しみも抱きかかえてきた女の子がいるのだろうと思った。きっとそう。ずっとずっと、何人もの恵子がそうしてきたのだ。私にはわかる。

「でも、もう大丈夫。私がいる。私が全部背負っていくから。家族も、お客様も、これからの未来も、全部私に任せて欲しい」
「…………」
「安心して欲しいの。もう大丈夫だから。この先どうなっても私は皆を見捨てないよ。ずっと味方だから。だってそれが家族でしょう?」
「……そう、ね」

 うんと一つ、お母さんは頷いて、

「わかったわ、恵子」

 そう言って、涙を拭いた。それを聞いたおばあちゃんが同じように頷きながら涙を流して、家族会議の元、集会の開催は決定したのだった。

 ——そして、集会当日。

「……恵子」

 壇上へ向かおうとする所に、お姉ちゃんに呼び止められる。お姉ちゃんは笑っていた。これから私が何をするつもりなのか、お姉ちゃんは私が辿り着いた答えに気づいているのだろう。だって私には変える力があるのだと教えてくれたのはお姉ちゃんだ。お姉ちゃんはこうなる事を望んでいたのかなと、今となると思う。この方法でしか全てを解決する事は出来ないだろうと思うから。

「お姉ちゃん。私、やるよ」
「うん」
「ついて来てくれるよね?」
「まぁ、楽に生きれる内はね。やばくなったらすぐ逃げるよ」

 なんて言いながらも、きっとこの人はなんだかんだで手伝ってくれるだろう。お兄ちゃんもそうだ。お客様と他の家族はわからないけれど、わかってもらえなくても良い。
 きっとなんとかしてみせる。だって私はもう、逃げたりなんてしない。
 壇上に上がると、会場一杯に集まったお客様の視線が全て私に集まった。中継カメラも回っている。
 すっと大きく、息を吸った。

「こんにちは、皆様。そしてはじめまして。私の名前は、早苗です」

 私の発言に会場内が騒ついた。けれど、不思議と緊張はしなかった。私の心は決まっているからだ。やる事は決まっていた。
 私は今日、ここで宣言をする。

「ここに恵子はいない。お恵様なんて神は存在しないのだという事を、私から皆様にお伝えしたく、本日はお集まり頂きました」
「!」

 どういう事だと騒めきが増す会場内と、今にも飛び出そうとしているお母さんの姿が目に入る。でも、この演説を止める事なんてない。私はここで今までのものを壊して、新しいものにする。
 ここに私の世界を作る。

「私はずっと、自分が恵子である事を受け入れられずに生きてきました。心が擦り減り、耐えられずに命を投げ出した後は皆様もご存知の通り、記憶を無くしてまたここへ戻ってきてしまったのです。けれどその私を生まれ変わったのだと表した方がいます。正しくその通り、私はその時生まれ変わり、そして自分のルーツを持たない孤独と絶望を知りました。何を信じたら良いのかわからず、ここにいる事しか出来ない私を受け入れて下さったのは、恵子でもお恵様でもない、紛れもなくここにいる皆様。皆様と心の中を見せ合う事で、孤独を埋め合う事で、私は確かに救われたのです。あなた方が私との会話で救われたと言って下さるように、私も救われていた。私達は、確かに支え合っていたのです」
「でも騙していたんだろう!」

 私の言葉に耳を澄ませるように静まっていた会場内から一つ、野次が飛んだ。すると次々にそうだそうだと不満が露わになる。

「お恵様がいないなんて信じられるか!」
「恵子さんだからお話ししたのに!」

 当然だ。今まで信じていたものを突然否定されたのだから。でも、私は今までの全てを否定するつもりは無い。

「お静かに願います。聞く気がないのならすぐに出て行って下さって構いません。ただ、まだ話の途中ですので、最後まで聞く選択を皆様でしたらして頂けると思っています」
「…………」
「せっかく来て下さったのだから、もう少しだけ私にお時間を頂けると嬉しいです」

 私の言葉に、皆声を落としていき、最後には音が鳴り止んだ。私の次の言葉を待つ体制が整えられたので、話を続ける事にする。

「では、皆を騙していたのか、それは違います。今までの全てが嘘だったのか、それも違う。なぜなら、そこにいたのは私だったから。その部屋にいたのは始めからずっと私とあなたの二人だけ。それ以外のものなど何も無かった」

 始めからずっとそう。だって私はお恵様の言葉を聞いた事も無いし、代わりに話した事も無い。恵子と呼ばれるだけの、ただの私しかそこにはいなかった。

「私達は互いに心を見せ合い、秘密の時間を共有していた。違いますか? あなたの前に座っていたのはお恵様? あなたが心を見せたのは恵子? 違います。私です。私を神の子と信じたあなたが救いを求めたのは、ただの人間の私。あなたを救いたいと願ったのは、恵子と呼ばれるだけの人間の私。そして、そんなただの私を救ってくれたのは、今目の前にいるあなたです。そこにいたのは私とあなたという、ただの二人の人間。違いますか?」
「…………」

 反論は無かった。だって彼らにはお恵様と恵子の存在を証明する証拠が無いのだから。その存在は、皆の心の中でしか生きられないもの。つまり、否定されればそれはただの幻想となってしまうもの。
 でも私は、全てを完全否定するような酷い事はしない。

「けれど、私は思うのです。お恵様などいないと口では言いながらも、もし、お恵様が本当に存在したとするのなら、きっとその祝福は私達をここに引き合わせてくれた事を指すのではないのかと。そして恵子という名前は、私達が今日この時を迎える為に私の血筋に受け継がれて来た名前だったのではないのかと。互いに支え合う事で救われる、そんな私達をここに巡り合わせる事、それが、この宗教がここに存在した理由なのではないのかと。それこそが皆様の信じたお恵様により与えられた恵みで、今この時が恵子として私がその恵みを皆様に分け与える場なのだと。そうは思いませんか?」

 だから今、私はここに宣言する。

「ついに今日、この時を迎えた事で、お恵様と恵子は役目を終えました。そしてその加護を受けた新しい私達が明日を迎えるのです。私の名前は早苗。それが、今日からあなた方を導く者の名前です」

 しんと静まり返った会場。呆気に取られた表情や、戸惑いの空気で場内が満たされる。

「私は絶対にあなたを見捨てない。私の命を終えるその時まで、私達はずっと家族です。支え合って生きていきたい。だからまた、私について来て下さい」

 そして全てを伝え切った私が口を閉ざすと、一つ、また一つと、拍手の音が聞こえ始め、それは数を、音を膨らませ、ついには拍手喝采の中、私は壇上を降りた。
 歓声が聞こえてくる。……良かった、上手くやれたのだ。
 いきなり今までの全てを否定しても誰もついては来ないし、そうなってしまったらこの場所も終わりを迎える事となってしまう。それでは駄目だ。だから私は、お恵様と恵子の在り方を利用した。今この時こそが、この先の私達の在り方こそが与えられた恵みなのだと信じ込ませれば、神を信じていた人達も納得し、神は役目を終えたと受け入れ、雰囲気に流されながら私の言葉を聞き入れるだろうと考えたのだ。
 まずは想定通り、上手くいった。けれどこの先も皆に受け入れられ続けるかは、今後の私次第だ。
 私はやる。やってみせる。嫌々恵子としてやらされるのではなく、自分で選んだ、自分で信じた私としてのやり方で。

「恵子……じゃなかった、早苗」

 お姉ちゃんの声に顔を上げると、そこには家族の皆が揃っていた。皆、私を見つめている。その中に一人、制服姿の私も混ざっていた。
 私と目が合うと過去の私はうっすらと微笑み、きらきらと消えていく。恵子になるのではない。これは私として生きていく選択なのだと、彼女も納得してくれたからだと思う。今の私はもう、辛さから逃がれようとするだけの私ではない。ここまで連れてきてくれた感謝の気持ちと共に、彼女にさようなら、と心の中で呟いた。
 そして、決意を胸に家族と向き合う。皆は説明を求めているのだろう。本来の目的を隠す形で無理矢理開催された集会だった。家族を騙して利用したようなものだから、ここで嘘なんてつけない。

「……お恵様も、恵子も、そんなものは存在しない。でも、私がいるから。私はずっとここにいる。だから、無理にとは言わない。受け入れさせようとは思ってない。自分の意志で、ここに残るか決めて欲しい」

 勝手に今までの在り方を壊し、新しく作り替えた事。それに対して悪い事をしたとは思っていない。だってこれが唯一私に残された、私の人生を生きる道。私が私として責任を果たす手段。私の明日を迎える方法。
 受け入れられなくても良い。私の気持ちをわかってもらおうとも思ってない。でも、もしこの場所がある意味を理解し、未来の形として向く先が同じであると思うなら、共についてきて欲しいと思ってる。やっぱり一人は、心細いから。
 私の宣言に、お母さんは頷いた。

「忙しくなるわよ、早苗」

 ——それは、私の新しい人生が始まる合図だった。

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