「恵子、おはよう。お母さんから聞いた? 今日の午後は外歩こうか。それまでお互い仕事頑張ろう」
「うん。お願いします」

 結局上手く眠れないまま朝を迎えて、頭の中が海の上みたいにぐらぐら、ゆらゆら揺れているような心地だった。でも体調が悪いとバレたらいけないから、なるべく機嫌良く装った。今日の私は外に出られるのが嬉しい私でいないと。
 にこにこ、にこにこ、笑顔を貼り付ける。そして仕事部屋に入り扉が閉まった瞬間、ふっとその仮面を外す事が出来るのだ。
 今日も、お客様がやって来る。
 
「恵子さん、お久し振りです」
「……お久し振りです」
「……あのもしかして、お疲れですか? 大丈夫ですか?」
「あぁ、すみません気を使わせてしまって。大丈夫です」
「そうですか……最近人が増えてますもんね。なかなか予約が取れなくなってます。今日も午後はお休みされるんですよね?」
「……申し訳ありません」
「いえ。責めてる訳では無いんです。ただ、やっぱりその分恵子さんの負担は増えるんだなと思って。私達の苦しみを全部請け負って下さっているんだから、お疲れなのも当然です」
「…………」
「恵子さんがお疲れの分だけ恵子さんを信じられます。嬉しいです。恵子さんとお会いできる今の時間がとても貴重なんだなって実感しています」
「……そうですか」

 そうか。私が疲れれば疲れる程この人達は喜ぶのか。自分の苦しみが軽くなってる証拠だって捉えるなんて……頭がおかしいんだ、きっと。この人達も、私の家族も。みんな、みんなおかしい。

「……もし恵子なんていなかったとしたら、どうします?」

 だからつい、その言葉を口にしてしまった。どうしても心の中で大きくなった苛立ちがあふれ出てしまったのだ。
 でもまぁ、大丈夫だろう。ここでの事は秘密にするよう言ってあるし、この人達は無条件で私を受け入れる。一度聞いてみたいと思っていたのだ。

「恵子なんてものが始めからいなかったとしたら、あなたはどう思いますか? 騙されたと私や家族を恨みますか? 騙された自分を憎みますか?」
「えっと……そうですね」

 彼女は首を傾げた後、顎に手を当て考え込むと、思いついたように顔を上げて私を見る。

「嘘だったらもちろん悲しいです。今までの事が全部意味の無い事になってしまったら、私には何も無くなってしまう。でも、そんな事はあり得ない妄想です」
「……なんで?」
「だって恵子さんの事を信じていますから」
「……はい?」
「信じるとはそういう事です。私は、あなたを信じています。それが私です」
「…………」

 曇りのない真っ直ぐな瞳でそんな事を言われて、あぁ、本当にどうしようもないと感じた。私もそんな風に馬鹿みたいに真っ直ぐに信じる事が出来たなら良かったのに。
 疑いを持つ事すら捨てるだなんて。なんて愚かで可哀想な人なんだ。こんな嘘しかない場所に全てを捧げて生きているのだ。そうして前を向いているこの人にはきっと、私しか……恵子しか、いないのだ。

「意地悪な事を訊ねてすみません」
「いえ。お疲れなんですよ。午後はゆっくりして下さいね」

 労りの言葉に、優しい笑顔。お客様は皆、愛情深く恵子に接する。その優しさが自分に返って来ると知っているからだ。その言葉は私自身へ向けられた言葉では無い。わかってはいるけれど——。

「……ありがとうございます」

 心から与えられる優しさは、人の心を支えるのだ。今の私はこの人達の持つ優しさに救われていた。頭がおかしい可哀想な人だと心の中で思いながらも、その恵子へ向ける真っ直ぐで嘘偽りの無い純粋な敬愛を利用して。
 そんな私も間違いなく、可哀想で愚かな人間だった。



「お疲れ様。行こっか」

 午前の仕事を早めに終えると、私はお姉ちゃんに連れられて門の外に出た。それは退院して以来初めての敷地の外の世界だった。

「て言っても何も無いのよね。ランチしようとか、そういうお洒落なお店は一切無いの。バスで駅に出てそこから電車に乗らないと繁華街に出られないから、今日私はおにぎりを持ってきました」
「え? おにぎり?」
「そう。どこでもピクニック出来る所が田舎の良い所だからね。爽やかな風に吹かれながら景色の良い場所で一緒に食べよう」
「……うん。ありがとう」

「じゃあ行こう」と歩き出したお姉ちゃんのあとに続く。お姉ちゃんのおすすめだという事で、私達は家の裏山の中腹にある広場のベンチを目指す事になった。徒歩で三十分くらいのそこそこ離れた場所だ。緩やかな上り坂を上がっていく為、普段運動していない私にとってはとても良い運動になる。

「着いたよ、恵子」

 その声掛けに汗を拭い、前を向いたその瞬間。目の前に広がった遮るもののない広々とした緑と、遥か高く昇っていくような青。家の中にこもりっぱなしの私の心に綺麗な風が吹きぬけてゆき、まるで私の中の全てが換気されていくようで。

「……気持ち良い……」

 無意識に呟いたその言葉に、「そうだね」とお姉ちゃんの返事があった。お姉ちゃんは笑っていた。それは優しい笑顔だった。

「じゃあちょっと遅くなったけど食べようか」

 はい、と手渡されたそれは手作りのおにぎりで、梅のかけらとごまが混ぜ込まれたものだった。まだほのかに温かい。

「これ、お姉ちゃんが作ったの?」
「そうだよ。あ、毒とか入ってないから大丈夫」
「! そんなつもりで聞いてないよ!」
「あはは。いや、警戒してるかと思ってさ。最近ピリピリしてるから」
「…………」

 そう言って、何事もない顔をしておにぎりを食べ始めるお姉ちゃんに続いて、私も一口食べる。人が握ってくれたおにぎりの温かみがじんわりと心に染み渡り、絡まってぐちゃぐちゃになった私の心を優しく解いてくれるようだった。

「最近どう? 体調とか、仕事とか」
「……うん」

 お姉ちゃんになら、言っても良いのかな。
 この人なら、信じても良いのかな。
 弱りきった心が、傾き出す。

「最近……ちょっと、疲れたかな」
「忙しかったもんね。外に出る暇も無いんだから」
「うん」
「お客さんの話聞いてばっかりじゃ心に不満も溜まっちゃうよ。そういう所わかってないよね、お母さんは」
「うん……」

 そう、そうなの。心に不満がね、溜まってるの。

「なんか仕事内容も暗いしさ。あ、もしかして仕事が嫌になった? 嫌なお客さんがいるとか?」
「ううん、お客様は全然。私も助けてもらってるし、なんか共感出来る所もあるから……」
「共感してあげてるの? すごいね」
「すごくないよ」
「ううん、すごいって。だって自分の欲を押し付けられるようなものじゃん、人の話を聞くって。嫌な気持ちだけ置いてすっきりして帰る人達って事でしょ?」
「違……くは、無いのかな。そういう事、なのかも……」

 何もオブラートに包まないお姉ちゃんの言葉に、毎日の自分の仕事の他人の目から見た事実を知った。確かに、言葉にしたらその通りだと思う。しかも相手は恵子という概念を通した思考の偏った人達だ。……でも。

「私も、同じ様に話を聞いてもらう事もあるの。みんな嫌な顔しないでくれるし、それに……同じだから」
「同じ?」
「うん。心がひとりぼっちな所が同じだから。そういう面では信頼しあってるから、心が楽」
「……なるほどねぇ」

 そう言うと、お姉ちゃんはまるで心が動かされた時のような、納得させられた時のような瞳で私を見ていた。それはお姉ちゃんに私の気持ちが届いた証拠だと感じた。お姉ちゃんは、私の言葉がきちんと届く人なのだ。
 ……この人になら聞いても良いのかな。
 本当の事を、言ってくれるかも。

「……ねぇ、お姉ちゃん」

 この人は、信じても良いのかもしれない。

「お姉ちゃんは、逃げたいと思った事はある?」

 ——この家から。この家族から。
 疲れ切った心が緩み、目の前の彼女に縋りついた瞬間だった。私からこぼれたその問いに、お姉ちゃんはじっと私を見つめて口を開く。

「あるよ」
「! じゃあ、」
「だからここにいるの。ここが私の唯一の居場所だから」
「……え?」

 それは、恵子として人の話を聞く中で何度も聞いた、何度も自分事として理解してきた言葉だった。
 嘘だ、やめてと心が叫んでいる。それと同時に、ほらまた騙されたと嘲笑う私がいる。

「恵子はやっぱり恵子なんだね。なんて綺麗な心を持っているんだろうって、驚いた。きっとあなたはもう逃げないんだろうなって、安心した」
「……っ」
「これでまたあなたに任せられる。今のあなたが一番恵子らしいよ」

 ——やっとわかった。お客様だけじゃない。家族も……お姉ちゃんも、恵子の信者だったんだ。

「あ、そうだった」

 急に思い出したようにお姉ちゃんが鞄の中を探ると、「これ」と、私にそれを手渡す。

「いつもの薬。お母さんから渡すよう頼まれたんだった」
「……ありがとう」
「あ、そうだ。あそこから町が見えるんだよ。恵子もおいでよ」

 そう言ってお姉ちゃんが奥にある柵の向こうに見えるであろう山の下に広がる景色を見に歩きだしたので、私も返事をしてその後ろをついていく。
 ——何を信じたら良いかじゃない。誰を信じたいかじゃない。何も、誰も、信じたらいけないんだ。
 一人なんだ私は。信じられるのは、私だけ。
 受け取った薬を飲まずにポケットにしまった。これが最後のチャンスだと思った。