翌日の早朝。
 やはり、最終的には、思っていた通りの姿になってしまった。正確には姿ではないかもしれない。脱衣所のスタンドミラーには、何も映っていないのだから。
 ついに、全身が消えて見えなくなってしまった。
 奈々美に言ったことが、ついに現実になってしまったのだ。
 ありていに言えば、透明人間になったのだ。
 確か、小学生の頃に、透明人間になった男の悲劇を描いた映画を観たような気がする。
 誰からも認識されなくなると言うのは、想像を絶する寂しさに襲われるだろう。そんなことは容易に想像できる。
 僕にしても、いくら他人から注目を浴びなくてもいい、と考えてはいても、それは、人間としての僕の存在が、他人から目視できていたからだ。
 どこかで、誰かには見られている、見られていたい、と言う願望が、僕にもあったのだ。
 奈々美にはもちろんのこと。僕が恐れていた、他のクラスメイト達にも。
 人間は誰からも存在を認識されないことが、最も寂しくて悲しいことではないだろうか。
 やるせない。僕は左拳を思い切り握りしめてから、スタンドミラーを殴りつけた。
 スタンドミラーは揺れただけで、割れることもなく、割れた鏡で手が切れることもなかった。
 僕はそれから学校へ向かった。
 何も身に着けないままで。
 裸で外に出ることに抵抗はあった。でも、誰にも、僕は見えないのだ。
 自宅を出た瞬間は、挙動不審なぐらいに、辺りを見回していたけれど、次第に慣れていった。透明人間の自分に。
 僕はもう誰にも認識されない。
 ふと、母と父のことが頭を過ぎったけれど、すぐに、奈々美のことが気になり始めた。
 奈々美は本当に、今の僕に気づいてくれるだろうか。
 確かめたい。今すぐにでも。
 奈々美に会いに行こう。
 僕はそれから急いで学校へ向かった。
 ただ、透明人間になったからと言って、物質をすり抜けることはできない。行き交う人にはぶつからないように気をつけたり、電車の改札を通るときは、膝と手をついて改札口の下を潜り抜けた。
 最後の難関は、教室の扉を通過することだった。
 誰かが開けて入るのと同時に入らなければ、ひとりでに扉が開いて、怪奇現象のように捉えられてしまう。
 僕は扉の側で、クラスメイトが来るのを、ひっそりと待っていた。
 何人か続けざまに来たけれど、どいつもいけ好かない奴らだった。同時に入りたくない。
 ふと、視線が廊下の奥の方に止まって、ひとりの女子生徒の姿が目に映った。その距離でもすぐに誰だかは分かる。奈々美だ。
 奈々美は廊下を、一本の綱を渡るように、真っ直ぐ教室に向かっていた。
 教室の前まで来ても、奈々美は、すぐに扉を開けなかった。
 辺りを見回してから、怪訝な顔をした。
 それから、首を傾げて、教室の扉を開けた。
 僕は奈々美と一緒に教室の中へするりと入り込んだ。
 中に入ると、僕は教室の後ろの窓側の空いているスペースに潜むことにした。
 ここからは、奈々美の席もよく見える。
 奈々美は相変わらず、何か異変を察知したような顔をしながら、授業の準備をしていた。
 授業が始まると、表情は一変したけど。
 僕はただ、息を殺して、彼女の姿を眺めていた。こんなに奈々美をじっと見つめるのは、いったい、いつ振りだろうか。
 面と向かっては絶対に言えないことがある。彼女は本当に美しい女性になった。
 体は透明になってしまった。でも、心は生きている。彼女を見ていると、優しい気持ちになれた。
 授業が終わるまでは苦痛だった。はじめはただ突っ立っていた。そんな格好で何時間もいられるわけがない。途中から、あぐらをかいたり、体操座りをしたり、しまいには、頭を手で支えて、横にもなってしまった。
 なんとか放課後を迎えた頃には、僕はすっかり疲労困憊になっていた。
 奈々美が教室から出るのと同時に、僕も動き始めた。
 奈々美の後ろを、ただついて行く。
 下駄箱に差し掛かったときに、あの三人組の女子が奈々美に声をかけた。
 僕がいる場所からでは、会話は聞き取れなかったけれど、奈々美は険しい顔をしていた。
 それから、奈々美と三人組は、下駄箱を出て行った。三人組はトライアングルを形成して、奈々美を囲んで連行するように歩き始めた。
 僕はなんだか嫌な予感がした。ある程度の距離を保ちつつ、彼女たちについて行く。
 明らかに不穏な空気に包まれている。
 奈々美が連れて行かれた場所は、校舎から離れた場所にある、今は使われていない建物の裏だった。校舎からは死角になっている。
 三人組の一番チビが、奈々美に言った。
「あんた、山倉君に、色目を使ってるでしょ!」
 奈々美は眉を、ピクリとも動かさずに毅然とした態度で、その女子を見ていた。
「なんとか言いなさいよね!」
「少し、黙ってもらえる」
 チビを制止したのは、三人組の中のリーダー格の女子だ。一言で違いを感じさせた。
 綺麗な顔立ちだけど、僕は嫌いな顔だ。神経質な感じが前面に出ている。
「ねえ、丸岡奈々美さん。あなた、山倉君とお付き合いをしているの? そういう噂が入ってきてるのよ」
 その女子は、冷静さを装ってはいたけれど、口元はひくついていた。
「あなたたちって、おめでたいのね。噂なんかに動かされて。なんで、自分で山倉君に確かめないの? 私ならそうするけど」
 奈々美はそう言った後に、溜め息をついた。
「情報筋からの確かなネタなのよ。言い逃れはできないわよ」
 急に声を荒げてから、リーダー格の女はそう言った。鼻をひくひくながら。
 奈々美は話しが通じる相手ではない、と判断したのだろう。首を左右に何度か振った。
「あれを持ってきて」
 リーダー格の女がそう言うと、チビではなく、中肉中背で、特徴のかけらもない女子が茂みの方に、のそのそと歩き始めた。
 そして、茂みの中から、バケツを運び出してきた。何が入っているのかは分からないけれど、両手で持っていたので、ずいぶんと重いのだろう。バケツを元の場所まで運んでくると、チビにも持つのを手伝わせた。
「ぶちまけなさい!」
 性根が腐った女王様のように、リーダー格の女は指図した。
 チビと無特徴は、こっくりと頷いてから、二人でそのバケツを持ち上げた。それから、奈々美に向けて、いつでもぶちまけられるように、体勢を整えた。
 僕は何とかしなければ、と思った。透明人間なのだから、バケツを奪い取ればいいだけのことだ。
 でも、山倉と奈々美の噂のことは、僕の耳にさえも届いていた。
 僕は戸惑っていた。奈々美を助けたい。でも、改めて、あの噂を第三者から聞くと、僕の心は萎れそうなってしまった。
 その間にも、状況は悪化している。
 奈々美は、微動だにせず、三人組に向けて厳しい視線を送り続けていた。
 そして、ついに、チビと無特徴が、バケツの中身をぶちまけるために、バケツを揺らし始めた。ブランコが揺れるように。
 一瞬だった。ほんの。
 奈々美が僕の方に視線を送った気がした。
 僕はそれと同時に駆け出していた。
 奈々美の肩を両手で掴むと、できる限り優しく押しやった。
 その瞬間に、僕にバケツの中身がぶちまけられた。一体、何の液体なんだ。ひどく、臭くて、ねばねばしている。
 三人組を見ると、同じような顔をしていた。未知なる存在に遭遇したときの顔。
 それもそのはず。僕の透明な体に液体がかかれば、人の形が浮かび上がるはずだ。
 体が溶けだしているゴーレムのように見えるかも。
僕は幽霊が人を驚かすようなポーズを取った。三人は瞬く間に、その場から、バラバラになって散って行った。
 ほっとして、一息つく。
 それから、奈々美の方を振り返った。
 奈々美は申し訳なさそうだけれど、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「ありがとう。あきら君」
「……。わかってたんだ」
「もちろん、わかってたよ。近くにいたのは。言ったでしょう。消えてしまったら、あきら君の気配を探すって」
「でも、ほんとに消えるなんて思わないよ。ねえ、なんでさっきよけなかったの?」
「決まってるでしょ。あきら君が助けてくれるってわかってたら。でも、ごめんね。あきら君にかかってしまって……」
「別に気にしなくていいよ」
「ねえ、あきら君。私はずっと見てたよ。あきら君のこと。約束したからね」
「約束……?」
「うん。小さかったころ。一緒に映画を観てたときよ。覚えてないの? 主人公が透明人間になってしまう映画。そのときに、あきら君が言ったの。もしも、僕がこの主人公みたいに消えてしまったら、奈々美ちゃんは、僕のこと探してくれる? 忘れてしまう? って」
 あの映画は奈々美と観た映画だったんだ。
「それで、奈々美は何て言ったの?」
「私は、あきら君を、いつも一番近くで見てるよ。他の誰よりも。ずっとずっと見てるからって言ったんだよ」
 思い出した。僕は昔から引っ込み思案な性格だったけれど、奈々美だけは、いつも僕の味方でいてくれた。
「ありがとう……」
「うん、私こそ、さっきは守ってくれてありがとね。なかなか、かっこよかったよ。それと、あの噂は嘘だからね」
 空に向かって真っすぐ手を伸ばしているように咲くひまわりのような笑顔で、奈々美はそう言った。
 その笑顔は、僕が大好きだった、昔のままだった。
 これからどうやって生きて行けばいいのだろう。想像もできないし、今は考えたくない。
 ただ、頭の中では、奈々美の言葉だけが、何回も繰り返し再生されていた。