次に目を覚ましたのは、朝の五時頃だった。
 昨日はそのまま寝てしまったようだ。お風呂にも入っていないし、歯磨きもしていない。
 カーテンは開けたままにしていたので、朝日が容赦なく部屋の中に降り注いでいる。
 とりあえず、シャワーを浴びよう。
 ベッドから出てクローゼットの中の下着を取り出そうとした。
 そのときに、あることに気づいた。本来はあるべきはずのものが、またしても消えてしまっていた。
 左半身の次は、やはり右側だった。
 スウェットの袖からは、何も出ていない。
 ついに右半身もか。
 心がざわつく。触れなくても、鼓動が急激に速くなっているのが分かる。
 僕は怖くなってきた。息苦しいほどに。
 このまま、全身が消えてしまったら、僕はどうなるのだろうか。
 存在感が薄いどころか存在そのものが消失してしまうのではないだろうか。
 呆然としていたら、スマートフォンのアラームが鳴り始めた。
 その音は、いつも以上に大きくて不気味に鳴り響いているように感じる。
 僕はすぐにアラームを止めた。
 それから、スマートフォンを枕の下に押し込んで、シャワーを浴びるために風呂場へ向かった。
 シャワーを浴びているときは、なるべく目をつぶっていた。
 消えている部分には、水滴だけが浮かんでいる。
 自室にはスタンドミラーを置いていない。どのように見えるのか分からないけれど、気にしている暇はない。
 そろそろ家を出ないと、学校に遅刻する。
 右手にまで手袋をはめなければいけない。いくら注目度の低い僕でも、さすがに変人扱いされるだろう。
 今日は休むべきか。いや、ダメだ。母が口うるさく嫌味を言ってくるかもしれない。
 自室へ戻り、左袖に透明な左手を通す。急いで。次は、右袖に手首から先が消えている右手を通す。そして、スラックスに着替えてから、最後に、透明な両手に手袋を装着する。これで完成だ
家を飛び出して駅に着くまでに、他人の視線が気になった。でも、僕を見ているのではない。ただ、季節外れのおかしな格好をしている、僕の服装を見ているだけだ。そう思うことにした。視線が痛く感じたから。
 電車に乗ると、女子高生の二人組が、僕を見て笑っているような気がした。
 横目でその二人を見やると、ひとりと視線が重なった。その女子は眉をひそめて、すぐに僕から視線を逸らした。
 電車から降りて時刻をスマートフォンで確認する。
 徒歩だと確実に間に合わない時刻だ。
 僕は仕方なく走って学校へ向かうことに決めた。
走ることは凄く苦手だけど。
 テレビドラマで、役者が疾走するシーンがあった。顔の割に、走り方が不細工だった。その役者の走り方に似ていると、いつかの体育の授業中に、クラスメイトに言われたことがある。
 鞄は両手で持つことにした。
 片手で持つとバランスが崩れそうだから。
 途中で何度か休憩を取ったけれど、なんとか朝のホームルームには間に合った。
 教室の扉を開けたときの反応は、昨日とだいたい同じだった。
 ただ、自分の席に着くまでに、僕に向かって言ったであろう、嘲笑の言葉が聞こえた。  
席に着いても、肩で呼吸をしていた。
 何度か深呼吸をしてから、なんとか落ち着かせた。
 それから、生物が危険から身を守るため擬態するように、僕も自分の存在を教室の一部として溶け込ませた。
 放課後になると、また、一番に教室を飛び出した。
 すると、また、僕を追跡するような足音が聞こえてくる。
 僕は校門を出てからも振り返らなかった。
 次第にその足音はより速く、踏み込む足音もさらに強くなる。
 ついには、僕を追い越して、僕の目の前に立ちはだかり、僕の歩みを止めてしまった。
「あきら君! 何で逃げるのよ」
 怒ったような顔をしてから、奈々美はそう言った。そんな顔をしていても、彼女が怒っている訳でないことはよく知っている。
「別に逃げてるわけじゃないよ……」
「じゃあ、なんで話し合わないの? 私は心配してるんだよ。高校生になってから、あきら君はすごく変わった。誰とも話そうともしないし。私とさえも話さないでしょ?」
 まくし立てて、奈々美はそう言った。
「それは……」
 そう言ってから、僕は視線を宙に浮かせた。
 逃げているわけではない。ただ、久し振りに、奈々美と言葉を交わすことに戸惑っているだけだ。他のクラスメイトとも話さないのは、ただ単に怖いからだ。みんな心の中では、僕のことを笑い者にしているはずだ。
「ねえ、どうして、そんな格好してるの? やっぱり怪我をしたんでしょ? 火傷でもしたの? 大丈夫なの?」
「どうせ言っても信じてもらえないよ……」
 鼻を鳴らしてから、僕はそう言った。
「どうして言ってもないのにそう決めつけるのよ」
 そう言った奈々美の顔は、険しくなるばかりだ。でも、寂しそうな顔にも見えた。
 僕はいたたまれない気持ちになって、視線をあちこちに移動させた。
 すると、さきほど、僕たちの側を通り過ぎていった子どもと視線が合った。何度もこちらを振り返っていたから。その子どもにしかめ面をくらわせてから、僕は奈々美に言った。
「じゃあ、ひとつだけ聞いてもいいかな?」
「ええ、いいわよ。何でも聞いてちょうだい」
「もし……、僕の姿が突然、消えて見えなくなってしまったら、奈々美はどうする?」
 僕はそう言い終えた後に、恥ずかしい思いに駆られた。突拍子もない上に、彼女の名前を昔の呼び名で呼んでしまったからだ。
「そうね。あきら君の気配を探すわ。消えて見えなくなるだけでしょ? まあ、見えないと不便なこともあるかもしれないけど……」
 僕の話を少しも疑っていないような顔をしてから、彼女はそう言った。
「そう……。わかったよ」
「あきら君。ちゃんと聞いて。私はいつもあなたを見てるから。あきら君は、ひとりなんかじゃないんだよ。それは忘れないで」
「うん……。じゃあ、そろそろ帰るよ」
「わかったわ。気をつけて帰るのよ」
 まるで弟に諭すように、彼女はそう言った。
 曲がり角を曲がるまで、僕はゼンマイ仕掛けの人形のように進んで行った。彼女の視線を感じていたから。