すぐには気づかなかった。左手が透明になっていることに。
 朝目を覚ましてから、左の手の甲で目をこすった。
 時間を確認しようと思い、枕元に置いてあるスマートフォンを手探りで掴んだ。
 それから、スマートフォンを顔の前に持ってくる。まだ、完全には開き切っていない目で、ぼんやりと現在時刻を確認した。
 瞬間。悲鳴とも奇声とも呼べない声が出た。化け物に予期せず出会ったら、こんな声が出るのではないだろうか。そう思うほどの声。
 掴んでいるはずの左手が消えていて、スマートフォンが虚空に浮いているのだ。
 僕は、しばらくの間、呆然としていた。
 それから、もしやと思い、長袖をめくり上げた。やはり、左腕まで綺麗に消えている。
 言葉が出ない。声の出し方を忘れたように。
 夢ではない。感情の振れ幅が大き過ぎるからだ。僕は夢の世界では無感覚だから。
 でも、極端に存在感が薄い僕なら、こんな不可思議なことも起きるのかもしれない。
 僕は家族にでさえ、存在感が薄い人間だと思われている。いつかの家族旅行のとき。サービスエリアで休憩をして、再び出発するときに、僕はサービスエリアに置き去りにされてしまった。
 高校のクラスメイトも同じだ。名前はともかく、名字すらも覚えられていない。
 透明にはなったものの、感覚は残っているようだ。
もう一度、さきほど驚いて落としてしまったスマートフォンを掴んでみた。スマートフォンは、見えない力によって、宙に浮かんで見える。マジシャンのマジックのように。
 僕はなんだか気味が悪くなり、スマートフォンを宙から落とした。
 僕は息をひとつ吐いてから、今後について思案した。意外と冷静なようだ。
 こんな状態でも学校は休めない。
 それから、しばらく、左腕と左手が存在していた部分を、ぼんやり眺めていた。
 僕は母と父には、品行方正な少年で通っている。僕は小学校から現在まで、遅刻はおろか、病欠さえもしたことがない。その記録には、僕以上に両親がこだわっている。
 それが、休めない理由でもある。
 僕の思考を遮断するように、スマートフォンのアラームが突然鳴り始めた。このアラームが鳴ったら、学校へ行く準備をしなければ遅刻してしまう。最後の通達だ。
 でも、その前に、まずは左腕と手を隠すための策を講じなければ。
 僕はベッドを離れてから、クローゼットを開けた。中には中学生のときに母からプレゼントされた手袋が収納してある。それに、長袖のスクールシャツも。
 季節は初夏。手袋をはめて長袖なんて着て登校すれば、どんな視線が注がれることか。
 でも、僕にはいらぬ心配だ。それは、教室内でのヒエラルキーが高い人種のみ。
 僕が季節外れの手袋なんかを左手にはめて、長袖のシャツを着て登校したところで、よくて一瞥。それから、鼻で笑われる程度だろう。
 ハンガーにかけてある長袖シャツを手に取る。
 部屋着から長袖のスクールシャツに着替える。
 手袋は衣装ボックスの一番下の段の奥に小さく丸めてから入れてある。
 衣装ボックスから左の手袋だけを取りだした。バランス的に両方はめるか迷ったけれど、暑苦しそうだったので止めた。
 透明な左手に、そっと指を通すと、当然のように五本の指に綺麗に分かれた。
 僕はグーとパーを交互に繰り返してから感触を確かめた。問題は無さそうだ。
 それから急いで残りの準備をした。
 家を出るときに、母にこの格好を見られないように、声だけかけて、逃げるように家を出た。
 問題はその後だった。
 僕なんかを注視する人はいないだろうけど、季節外れの長袖に左手だけ手袋。不審者と勘繰る人がいるかもしれない。
 僕は手袋をしている左手をズボンのポケットに突っ込み、視線はなるべく一点から動かさないようにして登校した。