「あぁ、わかった。あの野郎がこっちに来たんだな」
「冬也君とペスカちゃんは、大丈夫そう?」
「大丈夫では無さそうだけど、心配は要らねぇよ」
「遼太郎さん、二人をお願いね」
「いざとなったらな」
「また、そんな事を言って」
「今更、俺がしゃしゃり出る場面でもあるめぇよ」
「でも」
「まぁ、鍛えなおさねぇといけねぇのは確かだな。ペスカもだけどよ」
「やってくれるの?」
「当たりめぇだ。あのバカ、あれだけ修行をつけたのに、力の一端に触れただけじゃねぇか。そんなんじゃ、あの野郎の足元にも及ばねぇ」
「それに混沌勢は、ロメリアだけじゃないんだし」
「暫くは、目を光らせとけよ」
「わかってる」

 夜も更け月明りの無い暗闇を、街灯だけが辺りを照らす。ある住宅街の一角で、一人の男が話しをしていた。そして話を終えると男は、とある一軒家の窓を覗き込む様にして呟いた。

「それよりも面倒な事になりやがったな。あの野郎、余計な事ばっかりしやがって。俺の仕事を増やすんじゃねぇ」

 そう呟くと、男はスマートフォンを胸ポケットから取り出して操作した。

「おぅ、安西。起きてたか?」
「起きてたかじゃないですよ、先輩。どこ行ってんですか?」
「悪い悪い、所要でな」
「忙しい最中だって言うのに」
「これからもっと忙しくなるぞ」
「どういう事です?」
「準備をしとけって事だ」

 そう言うと男は通話を切る。そして、先程まで覗き込んでいた一軒家の鍵を開けて、中に入って行った。

 ☆ ☆ ☆

 暗闇の中で、冬也は呻き声を上げていた。全身に大汗をかき、時折咳き込みながら、苦しそうに息をしていた。
 ふいに冬也は目を覚ます。寝巻は汗を吸い重くなり、肌に張り付いている。汗のせいだけではないだろう、身体は凍った様に冷たい。全身から力が抜け、指先の一つすら動かせない。そして覚醒すると同時に、強烈な痛みが冬也の頭を襲う。
 まるで雪山で遭難でもしたかの様な寒気、ズキズキと襲い来る痛み、身動きが取れない冬也は耐えるしかない。

 暫くすると血が巡って来たのか、少しずつ体を動かせる様になってくる。冬也はチラリと視線を動かし、周囲を見渡す。周りはまだ暗く、ベッド脇のデジタル時計は、午前四時を表示していた。
 ふと零れる様に口をついて出た言葉は、冬也自身も思いがけない内容であった。

「なんだ? 夢? 俺は夢を見ていたのか? 夢にしちゃあ、リアルな気がするんだけどな」

 霞がかった頭の中に、ぼんやりとしたイメージが残る。それが夢なのか否かは、判然としない。今がどんな季節で、自分が何をしていたのかすら、ピンと来ない。わかるのは、自分のベッドで横たわっている事だけ。
 大きな違和感を感じながらも、冬也はその一切に封をした。そしてベッドから起き上がり、部屋の明かりをつける。そして、びしょ濡れの寝間着から、部屋着に着替え様とクローゼットを開けた。

 頭痛を堪え、ふらつく体を懸命に動かし冬也は着替える。途中で視界に入ったベッドは、バケツをひっくり返したように湿っていた。
 
「すげぇ寝汗だな。ペスカにおねしょだと勘違いされる前に、何とかしなきゃな」

 汗をかき過ぎたのか、ひりつく様な渇きを感じる。冬也は重い頭を抱えながら、部屋を出てリビングへと向かう。父が出張中で冬也とペスカしかいないはずの自宅。だが、リビングには明かりが点いていた。
 どうせペスカが徹夜して、腹でも減らしたんだろう。そう思い込んでいた冬也は、リビングの扉を開け声を上げた。

「親父! 出張じゃなかったのか? いつ戻って来たんだよ?」

 思わぬ再会に、冬也は声を大にする。そして冬也の父遼太郎は、冬也を見つめ少し安堵の表情を見せると、直ぐに眉を吊り上げ冬也に問いかける。

「良かった。起きたんだな冬也。でも、その様子だと何も覚えて無いんだな」
「何言ってんだ親父? 何を覚えて無いって?」
「いずれ思い出す、今は体を休める事を優先にしろ! 体が回復したら、修行をみっちりつけてやる」
「それは良いけどよ、何を思い出すって?」
「俺は仕事に向かう。お前はペスカをしっかり守れよ」

 冬也の問いに遼太郎は、頭を振りながら答える。そして上着を羽織ると、速足でリビングを出て行く。言葉の真意を理解出来ずに、冬也は首を傾げて遼太郎を見送った。
 そして冬也はコップに汲んだ水を一気飲みし、リビングのソファーに座り込んだ。

「何が言いたかったんだ? ペスカを守るなんて当たり前じゃねぇか」

 しんとした部屋の中で、冬也が遼太郎の言葉を悶々と考えていると、遠くからペスカのくぐもった声が聞こえて来る。瞬間的に冬也は、覚醒時に起きた痛みを思い出す。そして、急いで二階にあるペスカの部屋に向かう。
 部屋に近づくと、中からペスカの呻き声が聞こえて来る。冬也は慌てて扉を開けて部屋の中に入った。

 ペスカは苦し気に表情を歪ませており、酷く汗をかいていた。恐らく、先程の自分と同じなのだろう。呻き声は、時折悲鳴に近い叫び声に変わる。咄嗟に冬也は、ペスカに声を掛けながら揺さぶった。

「ペスカ、大丈夫か? ペスカ! 起きろペスカ!」

 冬也の呼びかけで目を覚ましたペスカは、青ざめた表情で冬也を見つめる。そして、冬也に抱き着いた。

「おに~ちゃん。おに~ちゃん。おに~ちゃん」

 何度も冬也を呼び、ペスカはしがみつく。冬也はペスカの頭を優しく撫でて呟いた。

「どうした? 怖い夢でも見たのか?」
「うん。よく覚えて無いけど。何か怖い夢だった。それに凄く頭痛い」
「お前もか? 薬飲むか?」
「今はいい」

 冬也は少しの間、ペスカを落ち着かせる様に頭を撫でる。暫く後、ペスカを体から放し、冬也は優しく声をかけた。

「取り敢えずお前シャワーでも浴びて来いよ。汗がすげぇぞ!」

 ペスカは軽く頷きベッドを降り、体をふらつかせながら扉へ向かう。扉の前で立ち止まって振り向くと、冬也に声をかける。

「お兄ちゃんも一緒に入ろ!」
「馬鹿じゃねぇの。一緒になんか入らねぇよ」
「上手く力が入らないんだよ。それに怖い夢見た後だと、頭洗えないよ。手伝って!」
「馬鹿、そのくらいは我慢しろよ!」
「いいじゃない。可愛いペスカちゃんのおヌード見たくないの? おっぱいも少しは育ったんだよ。ほれほれ」
「妹の裸に興奮する兄貴がいて堪るか! 早くシャワー浴びて来い」

 冬也はペスカの頭を軽く叩き、浴室に向かわせる。ペスカと自分のシーツや布団カバーを剥がした冬也は、脱衣所の洗濯機に放り込む。
 冬也が脱衣場に入って来た事を感じたペスカは、冬也に声をかけた。

「お兄ちゃん。妹の下着はハアハアしたり、くんかくんかするのがマナーだよ」
「しねぇよ。どこのマナーだよ。シャワー浴びたらさっさと出ろ! 俺もシャワーを浴びたいんだよ」
「いいのお兄ちゃん? 今出たら、すっぽんぽんの私とご対面だよ!」

 浴室から微かな笑い声が聞こえる。そして冬也は慌てて脱衣場を出る。そんな冬也の反応に、ペスカは温かいものを感じていた。

 ペスカが浴室から出ると、続いて冬也がシャワーを浴びる。ペスカはドライヤーでさっと髪を乾かすと、キッチンへ向かいコップに水を注ぐ。そして、リビングのソファーに体を預け、水を一気に飲み干した。
 シャワーで汗を流し終えた冬也が、リビングに入るとペスカから声がかかる。

「お兄ちゃん。お腹すいた~。久しぶりにお兄ちゃんの手料理が食べたいな」
「何言ってんだよペスカ。毎日俺が作ってるだろ?」
「そう言えばそうだね。なんでだろ?」

 二人で首を傾げながら見つめ合う。不思議な感覚だ、暫くは外食でも続いていた様な。そんな訳が無い、自分達はいつも通りの毎日を送っていたはず。そうして二人は首を横に振る。

「今朝は久しぶりに、和食だな」
「和食って、別に久しぶりじゃ無いよ」
「そう言えばそうだな。なんでだ?」

 再び、二人で首を傾げながら見つめ合う。これがデジャヴという物であろうか? いや、違う。そういうのではない。もっと違う違和感だ。でも、頭の片隅にぼんやりと浮かぶ光景は、あまりにも現実とはかけ離れている。
 考えても、その答えは出ない。靄がかかった様に、虚ろなだけだ。ならばと、冬也は思考を放棄して、料理を作り始めた。

「まぁいいか。取り敢えずご飯が炊きあがるまで、TV見ながら待ってろ」

 冬也は台所に行き朝食を作り始める。ペスカはTVを点け、チャンネルを回し始める。TVからは朝の元気な声が聞こえて来る。
 ペスカがふと止めたチャンネルでは、ニュース報道をしている所だった。

「昨夜未明、八王子駅南口でまた能力者同士による乱闘が起きました。駅前は乱闘の影響で一部破壊されており、JR各線は点検の為、始発から運休となっています」
 
 報道を見たペスカは、冬也に話しかける。

「ねぇ、事件だって。物騒だね」
「そうだな。ペスカ、お前も注意しろよ! 巻き込まれるかもしれないからな」
「わかってるって。お兄ちゃんは能力あるんだっけ?」
「あるぞ~。何でも思い通りに切れちゃうやつ。千切りもあっと言う間だ。ほら!」

 冬也は自慢げに包丁を翳して笑う。ペスカは、そんな冬也を見て笑顔で答える。

「世の中の人達が、お兄ちゃんみたいに平和な使い方してくれたら良いのにね」
「まぁ、人間は大きな力を持つと横柄になるからな」
「お兄ちゃんのくせに、哲学っぽい事言ってる」

 冬也は少し拗ねた様に、朝食の用意を続ける。

「ねぇ、お兄ちゃんの能力は、いつ目覚めたの?」
「いつだっけ? 覚えてねぇな。そもそも、この能力ってなんだっけ?」

 冬也は首を傾げる。不思議な違和感なら、ペスカもずっと感じていた。能力者とは何なのか? そもそも能力とは? それはいつから有った? なによりも、ここは私の居場所じゃない。自宅で有っても、ここにいるはずがない。

 しかし、どう考えてもその妙な感覚と現実が上手く結びつかない。ペスカは眉をひそめながら、違和感を押しやる様に再びTVに視線を移す。

 やがて、朝食が完成し二人でテーブルに着く。冬也が用意した朝食は、白いご飯に味噌汁、だし巻き卵、キャベツのサラダ、豆腐と、どの家庭でも有りそうなごく普通のメニューであった。
 そして、ペスカは味噌汁をすすると呟く。

「ん~。美味しい! 流石、お兄ちゃん。朝からちゃんと出汁を取ったんだね」
「そりゃな。そこは手を抜けないポイントだな!」

 続いてペスカは、サラダや卵、ご飯に手をつけていく。

「ん~。どれも美味しい。これだよ、これ! パチモンの日本食とは段違いだね」
「そうだろ。あんなパチモンと一緒に……、パチモンの日本食? そんなのいつ食ったっけ?」
「さあ、最近食べた気がする」

 ペスカと冬也は顔を見合わせ、再度首を傾げた。

 朝食を食べ終わり、冬也は片付けをペスカは高校へ行く準備を始める。制服を着終わると、ペスカは鏡の前でクルリと一回転する。

「久しぶりの学校だ~! 皆元気かな……ってあれ? 昨日も学校行ったよね」

 やはり、何かが抜け落ちた様な感覚が有る。そして今朝の自分自身に感じるギャップもだ。一言では説明し難い違和感である。
 まるでこの場所に存在する自分達が、バーチャルだと言われた方が、遥かに納得が行く様な不可思議さをペスカは感じていた。
 喉に引っかかった小骨の様な不快感を拭えない。ペスカは、自分の気持ちを説明する為、冬也の部屋の戸を叩いた。

「あ~。お前もか。俺も似た様な気分だよ。なんか変だよな」

 冬也は一も二も無く、ペスカに同意した。

 時折訪れる記憶の齟齬は、まるで本物の中に偽りが混ざる様な不快感だ。それは、二人が共通して感じていた。しかし、幾ら考えても答えは出ない。結局、二人は問題を一度棚上げし日常を過ごす事に決めた。
 
 しかし、ペスカと冬也が感じる違和感は、直ぐに膨れ上がる。

 メディアは、異能力者の事件を当たり前に報道している。世界は緩やかな変化を起こしていた。