夜になると少し涼しく肌寒い。
 街灯が明るい表通りに歩行者はいない。車の行き来も少なく、静かな通りを、私と弟の二人が並んで歩く。
 この前、めぐを送った時とは異なり、二人の距離は近い。反抗期の弟とはいえ、仲は良い方なので、この距離感はお姉ちゃんとして心地良い。
「……また変なこと考えてる?」
 弟を見ながらドゥヒュヒュ笑っていると、訝しげな目を向けられた。
「ブラコン過ぎてドン引きだよ……」
 何……!? 何故、私がブラコンだとバレてる……!?
「……めぐちゃん、大丈夫かな」
 私の葛藤を他所に、弟は星空を見上げ思案する。歩きながら上を向くものだから、危なっかしい。周りが暗いのも相まって、側溝に落ちないといいんだけど。
 私たちは黙って、めぐの家の方と向かう。大通りを抜け、細い路地に入ると小さな公園がある。その向かいがめぐの家だ。
 あと少しで公園というところで、弟は私を向き、何かを見定めるかのように、静かに語り出した。
「……変えたく、なくなってきたとか?」
 その意味は「めぐはもう自分を変えたくないのでは?」という意味かな? 私だけじゃなく、弟の考えもそこに至った事実に何とも言えない居心地悪さを感じた。
 何故なら――
「あれ? りんりん? それと海くん?」
 後ろからの声に、私と弟は振り向いた。
「あ、めぐ。今帰り?」
「うん。今日は生徒会だったのと、お母さんも遅いからついでに勉強も」
「そっか。じゃあ、せっかくだから上がらせてよ」
「せっかくだからって、日本語変だよ? 二人で会いに来たんでしょ?」
 私たちと会えるのが嬉しいのか、めぐはふふふと笑いながら前を歩き出した。
 そして、小さな公園を横目に、三人は恵の家の中へ入っていく。普通の木造二階建ての一軒家。駐車スペースもあるが、今は車が無い。めぐの母親が仕事で出ているのだろう。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔します」
 私と弟は勝手知ったるや、一階のリビングを目指す。
「着替えてくるよね?」
 振り向きめぐに尋ねると、笑顔のまま頷いて二階へと上がっていった。

「最近、伊織が早く消えてない?」
 私は直球を放つ。伊織――七瀬伊織はリバース・マジックの主人公の名前だ。めぐの上書きされる主人公を、私たちはそのまま伊織と呼んでいる。
 そして、弟は私の直球な言葉に意表を突かれたのか、一瞬硬直するものの、すぐに気を取り直してそのまま追撃する。
「――そ、そうだね。俺もそう思う」
「……」
 夕食のサンドウィッチを食べていた、めぐの動きが止まった。
「……気付いてたんだ?」
 めぐは口元まで持っていったサンドウィッチをテーブルに置く。
 タイミングが悪かったかも。せめて一口食ってから言えば良かったかな? でも、サンドウィッチを咥えた瞬間に言って変な顔をさせるのはヤバいし……いやいや、それは面白いかも。
「……何、ニヤニヤしてるの」
「――ぐぅ」
 隣の弟が私を肘で突く。
 すまぬ。真面目な話なのに、変な想像をしたせいでニヤニヤしてたらしい。
「……うん、伊織ちゃん、最近帰るのが早くて……」
 私たちのやり取りは聞こえなかったらしい。良かった。鈍感で難聴な幼なじみで本当に良かった。
 帰るのが早い、とは、伊織が消えることを指す。
「めぐが嫌になってきた……とか?」
「――姉さんっ!」
 あぁ……変な言い方になってしまった。弟が激怒するから考えてしゃべらないと。
「ごめんね、めぐちゃん……」
「う、ううん……大丈……夫」
 弟が謝るが、私の発言ですっかり落ち込んでしまった……
 でも、弟との会話で気付いたんだけど、恐らく、私たちの目的は同じで、"自覚させる"ことだ。
「あのさ……めぐちゃんは別におかしくないから」
 弟は優しくめぐに語りかける。私のような投げっぱなしとは異なり、しっかり言い聞かせていた。
「……おかしいと思い始めた、止めたいと思った、伊織ちゃんを否定した、自分を否定した、じゃない?」
 弟も大概に酷いことを言ってると思うけど、でも私も同じ意見だ。
「それが起きた原因だけど……何かあった?」
「……」
 震える。めぐの体が小刻みに震えた。
 これは、何かあったね。それによって自分の何かが否定された。それが伊織を否定することになった。
「大丈夫だから……めぐちゃん……自分を壊さないでね」
「……ん……ん……ん」
 弟の言葉に、椅子の上で膝を抱え込んだめぐは、顔を隠しながら必死に頷く。
 この様子を見るに、弟を連れてきて本当に良かったと思う。この状況は私は上手く対応できない。
「あ、あ、あ、あの……ね……」
 めぐの様子がブレる。元からいる自分と伊織。それが互いに揺れる。ぼやけて自分の形が薄まっていく。
 震えながら涙が流れていることに、めぐは気付かないでいた。
「……お父さんに……会ったの……」
「――っ」
「――っ!?」
 それを聞いた途端、私と弟は驚愕のあまり互いに顔を見合わせた。
 そして驚愕の次に来るのは怒り。姉弟そろって悪態を突き、それでも収まらず、私たちは全身を使って怒りを表した。
 酷い声を上げ、まるで動物のように、獣のように、無意味に立ち上がり空気に腕を振り下ろす。そんな時間が十秒くらい続いた。
 その原因……それは、何てことはない、よくある話の一つだった。
 めぐは子供の頃、実の父親から頻繁に暴力を受けていた。そのせいで人に対してコミュニケーションが全く取れなくなってしまった。
 離婚は揉めたと聞いたことがある。でも、無事に離婚し、父親は去った。
 それが――再開した!?
「た、たまたま……去年……の……秋……会って……」
 戻る。めぐが戻っていく。伊織は去ったのだろうか? いや、だが饒舌でもあるから、伊織もそこにいるのだろう。
「……おかしって……言われて……はいつく……ばってろ……って」
 たまたま、去年の秋に会ってしまったと。そして以前のめぐとは比べ物にならない様子に、それをおかしいと否定され、前と同じように這いつくばってろって言われたのか。
 今の自分も、過去の自分も全てを否定された。そこに歪みが生じ自分を見失う。自我が分裂し、混乱し、否定する。めぐはそれを避けるための絶妙なバランスを維持できなくなっていた。
 めぐは涙を流してはいるものの、泣いてはいない。空虚な表情で何もない空間を眺めている。
「めぐは……おかしくないよ。全然おかしくない」
 私は語りかけながら、背中をさする。めぐを堕とさせはしない。
「めぐはもう、リバース・マジックを読まなくとも、伊織になれるんだよ……」
「……り……んり……ん」
「……姉さん」
 私はめぐの正面に周り、優しく頭を撫でる。
「きっかけはそれであれ……来るべき時が来ただけ……」
 安心させるように、何でもないように、私は静かな口調で話しかける。
「あのね、伊織もめぐなんだよ。そしてめぐも伊織なんだよ。どっちもね……」
 私はめぐに自覚してほしい。演技している伊織も、そうじゃないめぐも、どっちも本当の自分だということを。
 私たちはいろんな自分を抱え込んで生きている。相手によって演技したり、対応を変えたり、家族、友人、他人。そして自分、心に対しても。それぞれ対応する自我が異なるように。全てを偽りながら生きている。
 それの何がおかしい? そんなの当たり前なのに。自分を守るために私たちは違う人間を抱え込まなければいけない。
 そもそも本当の自分とは何なの? そんなものクソッタレだ。全てが本当の自分なんだ。自覚しろ。元気な自分も、落ち込んでる自分も、死にたくなる自分も、壊れている自分も、臆病な自分も、演技してる自分も、全て全て全部本当の自分なんだ。めぐの状況は極めて普通であり、私たち誰もが持っている特性でもある。だからそれを自覚しないと。まずはそこからだ。
 私は優しく、丁寧に、頭を撫でながら、それらを分かりやすく説明する。熱い思いで、断言をし、めぐに語りかけた。
「だから、自覚してほしい。どちらも素晴らしいめぐなんだって。どちらも肯定してあげないと」
「……うん」
「あなたは、恵であり、伊織なんだよ」
「……うん」
 抱きしめると、めぐは落ち着き始めた。弟もホッとした表情で成り行きを見守っていた。
 そんな微睡むような時間が続くかと思った時――
「あら? 凛ちゃんと海くん? 久しぶりね」
 その落ち着いた声は、めぐの母親だった。どうやら仕事が終わって帰ってきたようだ。
「あら? 恵……? どうしたの?」
「お母……さん」
 一旦、めぐは弟に任せ、私はめぐの母親とその場を離れて、事情を説明した。
 リビングから廊下に出て六畳の和室に入ると、軽く事情を説明する。
「――あの人が!?」
 父親に会ったらしいと告げると母親は取り乱した。全身を小刻みに揺らし、開いた口に手を添える。
 あの存在はめぐだけではなく、その母親にも深いトラウマを植え付けていた。
「でも、めぐは、もう大丈夫だと思います……」
 私はめぐに対して、何をして何を言ったのか、どのように落ち着かせたのか、そして、これから何が起こるのかを説明した。
「そう……本当に……本当に……いつも、ありがとう……」
 そう言って、母親は畳に上にしゃがみ込み、咽び泣く。
 私はそれを立ったまま黙って見つめていた。
 何故、私はここにいるのだろう。何故、幼なじみの母親はこんな醜態を晒しているのだろう。そして……私は一体、何をしたいのだろう。そんな一瞬、良く分からない感情に囚われる。だが、そんなのどうでもいい。私は思考を放棄した。
「じゃあ、私たちは帰ります。めぐの様子を見て、大丈夫そうなら、ですが……」
 そう言って、返事を待たずにリビングへと戻る。
「……めぐ」
 声をかけると、弟に背中をさすられてした恵は微笑み、こちらに視線を向けた。
「大丈夫……かな?」
「うん」
「……じゃあ、私たちは帰るね」
「分かった」
 そう言っためぐは、弟から離れた。
 彼女はめぐ。でも伊織でもある。そして、その重ね合いが、両者を形作る。もう、本を読む必要もないと思う。自覚ができたのなら。
「……いつも、ありがとう」
「ううん、前にも言ったと思うけど……興味無いから……めぐにも……自分にも」
「そっか」
「またね」
 私は玄関へ向かうと、急いで弟が追いかけてきた。
「――ちょっと、置いてかないでよ」
「ごめんごめん」
「ったく……」
 玄関を出ると、小さな公園が向いに見える。
 子供の頃遊んだ公園。
 そこに郷愁を感じるには私は子供過ぎるし、地元過ぎる。
 だけど、今回のことが影響してるのか、その公園が非常に懐かしく感じた。こんな真っ暗な夜の帳の中に、遠く輝く過去を感じてしまう。
「興味がないことはないんじゃない?」
 車の行き来も皆無になった幹線道路に抜けると、弟がそんなことを言ってきた。
「いや、ないよ」
「……じゃあ何で助けるの?」
「助けたつもりはないんだけど……」
「そっか」
「……私は人が嫌い。誰にも興味がない。自分にさえ興味がない。オタクで。嫌われてて。そんなの無理でしょ」
「そっか」
「……みんな大嫌い。死ねばいいのに」
「うん、知ってる」
 私と弟は心地良い掛け合いをしながら、帰路に着いた。