待ち合わせをしていた日曜日、クラスのムードメーカーの田川がからかってくるのがイヤでオレは函館さんとの約束をすっぽかした。

 翌日、彼女は学校には来ていなくて、彼女が昨日から行方不明だと担任から聞かされた。

 オレは函館さんと川辺で本を読もうと約束をしていた。函館さんのおすすめの本をいっぱい持ってきてもらう約束だったのにも関わらず、オレはその好意を無下にした。

 明日学校で謝ればいい。そんな最低な思いで、オレは友達にからかわれるのがイヤという理由だけで、彼女との大切な約束を破ってしまった。そして、二度と彼女に会うことはできなくなる。

 ーーそれが夢だと分かったのは、起きた時、汗だくになっており、寝巻きがびしょびしょに濡れていたことからだった。





 こんなに嫌な夢を見たのはいつぶりだろうか。

 額に汗が滲む。ため息にもならない僅かな息を吐いて、溜めるように大きく息を吸い込む。

 なんでもいい。どうにかして気を紛らわせたかった。じゃないと、学校に着いたとき、どういう顔をして函館さんと話せばいいか分からない。そんなことを考えながら制服に着替え学校へ行く支度をする。

 梅雨も終盤、あと三日で梅雨明けになるらしい。外を見ると今日も大雨が降っていた。

 雨だからあんな夢を見てしまったんだろうか。
 オレの心が晴れないのも、函館さんのあんな夢を見てしまったのも、なにもかも梅雨のせいにしたかった。

「はい、これ」

 学校に着き教室に入ると、函館さんこと、函館(はこだて)りあが、オレ、内田航大(うちだこうだい)の顔を覗き込むようにして遠慮がちに一冊の本を差し出してきた。茶色のカバーが付いているその本に視線を移す。

「……ん?」

 函館さんがオレの席に来てくれたことに対して、心臓が止まりそうなほど嬉しいのに、同時に凄く複雑な気持ちになる。

 毎日学校で顔は合わせるけれど、オレと函館さんは頻繁に話す間柄ではない。

 差し出された本を見て「用がなきゃオレのところにわざわざこないよな」と、自分の中で恥ずかしさが勝った。

「内田くん、いつもホームルームで読む本がなさそうだったから。これ、おすすめの本なんだけど……」
「貸してくれるの?」
「うん。返すのはいつでもいいから。ゆっくり読んで感想を聞かせてほしいな」
「うん、ありがとう……」

 彼女の手から本を受け取るなり、どういう題名なのか気になったオレは、茶色のカバーを外しタイトルを確認した。

 『徒然』というタイトルで作者名は「タガワ」というらしい。

 本の紹介の蘭を見ても、男性なのか女性なのかが書かれていない。「中学時代に小説大賞で金賞を受賞した」と書かれてあることから、その作者が若い時から凄い人なんだということは理解した。

 函館さんが貸してくれたんだ。
 大切に読もうと、再度カバーを掛け直し、担任の先生が入ってきたと同時に朝のショートホームルームが開始された。15分間の読書の時間。

 さっそく函館さんに借りた小説を開き、ページを捲る。物語の繊細な描写が頭の中に広がる。この本の主人公はオレたちと同じ高校一年生。親に厳しく躾て育てられたため、自分の言いたいことは言えず、友人にも気を遣う毎日。

 オレはどちらかというと自由奔放に育てられてきたけれど、あながち、こういう、本の中のような子は多いのかもしれないと思いながら読み進める。だが、たった15分間の朝のショートホームルームの時間では、内容について深く知り得ることできず、盛り上がりとしての山場を迎える前に本を閉じることになった。

 読書とは無縁の生活をしていたオレは、休み時間、昼休みに自主的に読書をするという習慣をつけることがないまま、ひたすらショートホームルームの15分間で小説を読み進めていた。そんな中梅雨明けをし空を見上げると、日差しと共に薄衣をまとったような空の青さが目にしみた。

 晴れているからか久しぶりに気分がいい。

 函館さんに借りた本は常に鞄の中に閉まっていて、最悪どこで読んでも良いように持ち運べるようにしているし、せっかくなら気分が晴れるところで読み進めたい。

 梅雨時期は雨のせいもあって自転車ではなくバス通学をしていた。今日は晴れているし、自転車で通おうと早めに制服を着て家を出た。

 昨日まで雨が降っていたからか空気はまだ少しじめっとしているけれど、それでも真っ青の空は気分がいい。嫌なことも忘れられる。

 バスで20分かかる通学路を、自転車でゆっくりと漕ぎながら向かう。

 視界にはキラキラと輝いている真っ青の川。

「……ちょうどよさそうな段差もあるし、日の光もいい感じだし、あそこで本を読んだら気持ちよさそうだな」

 時間があるときは川辺で読書をすると決め、自転車を漕ごうとした時、
「内田くん!」
 名前を呼ばれて胸がときめいた。この声は函館さんだ。

 後ろを振り返るとやっぱり函館さんで、走りながらオレの方へと近寄ってきた。
 函館さんは自転車通学ではなく、歩いて通学をしている。

「おはよう、函館さん」

 オレは函館さんに対して浮かれていない表情ができているだろうか。

「内田くん、自転車通学に戻ったの?」
「そう。梅雨も明けたから」

 やっぱり函館さんと話すのはドキドキする。

 彼女はオレの話に「そうだね」と、相槌を打ちながら笑顔を向けてくれた。今日からチャリ通学に戻して、ここで立ち止まってよかったと心の底から思った。

「内田くん、実は私ね、ここでたまに本を読んだりしてるんだ」

 まさかの函館さんの言葉にビックリした。
 だってオレもここで本を読もうと思ったばっかりだ。

「……オレも。さっき、ここで函館さんから借りた本を読んだら気持ちいいんだろうなって思ってた」
「本当? 嬉しい! 内田くんに読書におすすめのスポット教えてあげるね」

 「こっちこっち」と、手招きをする函館さん。
 函館さんの読書スポットを教えてもらう。

 日陰になっている場所に連れて行ってもらった。段差で風通しも良く、涼しい。

「梅雨時期は無理だったけど、たまにここで読書をしてるんだ」
「……オレも知っちゃっていいの?」
「うん。むしろ内田くんもここで読書してくれたら嬉しいっていうか……」

 函館さんは顔を赤らめてオレに視線を移した。

 潤んだ瞳。赤面して耳まで赤くなっている。そんな函館さんの表情にドキッとしてしまう。
 告白をされたわけでもないのに、函館さんが「嬉しい」なんていうから、もしかしてオレにその気があるのかなと期待してしまう。

「今はまだ湿っちゃってるけど……内田くんがよければ今度ここで一緒に読書しようよ」
「――う、うん!」

 ここで一緒に読書……できたらどれほど嬉しいだろう。
 つい、嬉しくてニヤけてしまう。

「――じゃ、じゃあさ……今週の日曜日、函館さんが用事なかったらここで一緒に読書しない?」
「ほんと!? じゃあ私お弁当持ってこようかな。そんなに料理得意ではないんだけど……内田くんは手料理とか食べられる?」

 函館さんのお弁当……食べたい! 全力で頷くと、函館さんはクスクスと小さく肩を震わせて笑った。

「……じゃあ、今週の日曜、時間は朝の10時に集合でどう?」

 函館さんの連絡先も聞けるチャンスだ。スマホを取り出すべく、鞄の中をごそごそと漁るが今日に限ってスマホを家に忘れてきてしまっているようだ。バッグの中の物全て出して探してみるけれど見つからない。

「……函館さん、ごめん。オレ、スマホ家に忘れちゃって……」

 申し訳なく頭を下げると、函館さんは気にしないでと言わんばかりに「大丈夫」と両手をヒラヒラと振った。

「ここに集合って決めてたら安心だから」
「……うん。ほんとごめん。日曜日、楽しみにしてる」





 日曜日がとてつもなく楽しみで仕方がないオレは、学校に着いてからもずっと顔を緩ませていた。

「よー! 内田。おはよーさん」

 クラスのリーダー的存在の田川がオレに大きく挨拶をし、オレの元へ大股で歩いてきた。そしてオレの耳元で、

「函館とどういう関係なんだよ」

 ――と、面白がりながらイジってきた。

 ビックリして田川の側をパッと離れる。

 田川がオレと函館さんの関係を聞いてきたからビックリして離れたんじゃない。

 今、この光景をどこかで見たような気がして、知っているような気がして、慌てて離れてしまった。けれど、そんなこと田川には知られているはずもなく函館さんのことが好きだと感づいたようだった。

 先手を打って「お願い、誰にも言わないで」と、函館さんが好きなことを認めてしまった。

 田川はニヤついている表情を変えることなく、
「じゃあ何話してたのか教えろよ」
 ――と、からかうように質問してきた。

「……それは言えない」
「じゃあ内田が函館のこと好きなのバラしちゃおうかな」

 田川に言いたくない理由は日曜日を邪魔されたくないから。

 けれど、それ以上に言葉にできない、取り返しがつかないことになりそうな予感がしたからだ。『ただの予感』だけじゃ、田川の気を逸らすことはできない。

「――っ、日曜の10時……一緒に過ごす約束をした……」

 嫌々ながらも正直には白状した。

「へぇ、どこで過ごすんだよ」
「……学校に行く途中の川辺で」

 函館さんの読書スポット。本来ならば教えるべきではないけれど、田川が怖くて教えてしまった。田川は後を尾行する気満々といった様子で、

「帰り、場所教えろ」

 と、オレに指示をしてきた。

 一番厄介なヤツに知られてしまった。
 ーーああ、もう、やっぱり言うんじゃなかった。

「俺様が恋のキューピットになってやるからよ、頑張って函館に告白しろよ?」

 ーーああ、もう最悪だ。絶対にからかわれるヤツじゃんコレ……ああ、行きたくない。函館さんには悪いけど、日曜日断って。最悪ドタキャンとか……月曜日謝ればいいだろうか。

 自分の保身のために、そんな最低な感情が脳裏を渦巻く。
 そしてハッと我に返る。
 函館さんはあんなに楽しみにしてくれていたのに、日曜日をドタキャンしようだなんて、オレはなんてことを考えてたんだ……。最低だ……大丈夫、函館さんと二人で読書をするだけの絵を見れたら田川は諦めて帰ってくれるはずだ。
 というか、土曜日の夜になれば面倒くさいと言って日曜日のことなんて忘れているかもしれないし……

 それからというものの、日曜日になるまでの残り数日は今日のように学校に行く途中、偶然会うということはなく、帰りも一緒に帰宅できないまま過ぎてしまった。

 函館さんから借りた本もちゃんと鞄に直している。オレは函館さんから借りた本を鞄の中から取り出し、しおりをはさんでいるところからまた読み始めた。