「……………………」
わかば園に、帰ろうかな。
学校に登校して早々そう思った、11月のある日のこと。
友達のいない私の机の上に、真っ黒な薔薇が1輪と《消えろ。目障り。恨んでやる》と書かれた紙が置かれていたのだ。
薔薇が咲く季節だと頭の片隅で思いつつ、過ぎる花言葉。単体だと決して良い意味の無いこの花が置かれている理由は……紙に書かれている言葉が表している?
教室の隅でクスクスと笑っている集団がいた。こちらを見ているということは、犯人はあの集団で間違いないだろう。「友達がいないのに調子に乗るから」なんて言葉が聞こえてくる。
これは……いじめというやつなのか……?
私は置かれている薔薇と紙を手に取り、教室の扉の方へ向かった。今日は帰ろう。そう思い歩いていると、背後から飛んできた言葉。
「佐藤センセーと仲良くしてんじゃねーよ、ブース。死ね!!」
ギャハハハハと甲高い声が響く教室は、何だか急に知らない場所の様に思えた。
しかし……そういうことね。
あの集団はきっと、佐藤先生のことが好きなんだ。何かと気に掛けてくれる佐藤先生とは、最近は体育の授業以外でも会話をすることがある。
きっとあの人たちは、それが面白くないのだ。それでこんなことをしたのだろう。……理由を理解したからと言って、この黒い薔薇が許せる訳では無いが。
「……帰ろう」
病気のこともあって、メンタルだけは鍛えられている私。
ビックリしたし、面倒臭いなぁとは思ったけれど。
その行為に心が傷つくことは無かった。
今日のところは事情を説明して帰ろう。そう思い担任を探す為に職員室へ向かっていると、背後から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。軽く飛び跳ねるような、もう聞き慣れてしまった声色。今回の間接的な要因。
「もーりの、おはよ」
「……佐藤先生。おはようございます」
「どうしたんだ。もうすぐホームルームだぞ」
近づいてきた先生はポンッと頭を叩いて、私が持っている黒薔薇に視線を向けた。優しそうに微笑んでいた表情は一気に曇り、怪訝そうな声を上げる。
「森野……何それ」
「……黒い薔薇」
「見れば分かる」
手に持っていた黒薔薇と紙を取り上げ、その一輪の花と文章を眺める先生。「薔薇はお前の?」って聞いてくるから「まさか。机に置いてありました」と答えると、ムスッとして紙はぐちゃぐちゃに丸め、黒薔薇の茎は真っ二つにした。……お花には罪が無い。だけど、察したが故の行動に、少しだけ喜びを覚えた。
「誰の仕業だ」
「いや、良いんです。どうこうして欲しいわけではないので」
「良くないだろ……。全然良くないだろ……!!」
「良いんですよ」
廊下で突っ立って佐藤先生と話していると、横を不思議そうに通り過ぎようとした担任。「あ、先生待って!」と声を上げて呼び止めて「今日は帰ります」と一言だけ告げた。何故帰るのか、理由を聞いてこない担任は「了解」とだけ言って教室に向かって歩き始める。その様子を眺めていると、佐藤先生は廊下の壁をダンッと強く殴って、少しだけ俯いた。
結局、誰も私に関心が無いのだ。担任が私にまるわる情報をどこまで知っているのか、それすら知らないけれど。あまりにもドライ過ぎる対応に、当事者である私は笑いが止まらなかった。
「帰りますって言って、了解って返ってくるとは思いませんでした。理由なく帰っても良いんですか?」
「良いわけねぇだろ。有り得ねぇよ、あれ。今度の職員会議の議題にしてやる」
吐き捨てるように言い放つと同時に、始業を知らせる本鈴が鳴り出した。さすがに焦りを見せ始めた先生は「森野、俺1限空きなんだ。帰らずに特別教室棟の裏で待機しておくこと」と小声で呟き、ダッシュで2年A組の教室に向かって走り出した。
黒い薔薇の原因が佐藤先生だとは、とても言えなかった。
最初こそどうでも良かったのに、私のことを気にかけてくれる先生の存在が貴重で。やっぱり嬉しくて、何だか失いたくなくて。
そう思ってしまう自分の感情に対して鼻で笑いながら、私は言われた通りにまた特別教室棟の裏へ向かった。
文化祭の時期には沢山の秋桜が咲いていたが、今はもう疎らになっている。秋桜の時期が終わり————秋が終わり、そうしてあっという間に冬が来る。
少し肌寒く感じる気温に身震いをしながら前と同じ場所にしゃがみ込んでみると、小さな虫が落ちていた食べ物を取り合っている様子が目についた。
どうしてこんなところに食べかすが落ちているのかが気になるが、小さな虫ですらこうやって取りあうのだから。人間同士が人を取り合って揉めるのも仕方ないのかもしれない。なんて、つい思う。
……大体、佐藤先生は誰の物でもないけれど。
「もーりの」
「っあ、先生……」
ホームルームを終えたであろう先生は、ペットボトルに入った紅茶を2本持って、小走りで私の方に駆け寄ってきた。「よっ」と言いながら隣に座り込み、紅茶を差し出してくれる。お礼を言って受け取ると、ニッと微笑んだ先生はペットボトルに口を付けた。
秋風が吹き抜ける。夏と秋の間の風は独特だ。これから冬に向かうのだと感じさせる空気や香りに、妙な懐かしさまで覚える。
「……でさ、どうしたんだよ。さっきの」
「そんなこと、私が聞きたいですよ。いつも通り学校に行ったら、机の上に置かれていたのですから」
「黒い薔薇が?」
「はい。黒い薔薇が……」
思わず、溜息が漏れる。
どうせ高校を卒業できないのだから、別にクラスメイトに何をされようがどうでも良いけれど。黒い薔薇は勘弁して欲しいし、このまま教室に通うのが億劫になってしまったら、わかば園の皆さんに合わせる顔が無い。
「私なんてどうせ死ぬんだから。わざわざ黒い薔薇を置いてアピールなんてしなくても良いですのにね。憎しみとか恨みってことでしょ? 面白すぎます」
自分を下げながらあくまでもポジティブに。波風は極力立てずに。
笑い話ですよ。そう先生に伝わって欲しくて、笑いながら言ってみた。
先生も笑ってくれると思っていた。
だけど、その表情は私の想像と違った。
「……死ぬんだからなんて言うな。死ぬとか死なないとか、そんなの関係無いだろ。黒い薔薇なんて……悪質だ」
「でも先生。菊の花じゃなくて良かったなんて、思いましたけど」
「……バーカ!!」
ペシンッと軽く頭を叩かれる。先生は「そういう問題じゃねーよ!」と割と大き目な声で言って、今度は優しく頭を撫でてくれた。先生の手が温かくて、優しい。妙に落ち着く手の動きに懐かしさを感じる。
「……遠い昔。両親に撫でて貰った記憶が蘇ります」
「そういや、お前は施設に入ってから、両親とは会っていないのか?」
「はい。会っていません。私の顔を見ると悲しくて辛い気持ちになるらしいので。面会にすら来ませんよ」
わかば園に居る時は1人ではないから、別に寂しくは無かった。朱音さんも夏芽さんも優しくて良い人だし、施設内に仲良く話せる友達も居る。私を見捨てた両親なんて————って、拗ねているわけでもないけれど。会わなくても本当に寂しくは無かった。
だけど。それでもやっぱり、こう頭を撫でられると両親のことを思い出してしまう。
「先生、私が死ぬ時も傍に居て下さいね。佐藤先生と、担当医のナベ。2人が居れば、あの世だって怖くない」
「だからさ、バカなこと言うなって!! 森野は死なない。絶対に死にません」
「先生は医者じゃないです」
「医者じゃないからこそ、理想論を語らせろ。お前は死なない。お前自身の卒業式に、きちんと参加するんだ」
力強い言葉を吐き出しながら、先生は涙を零していた。
この前のナベもそうだったけれど、こんなにも私の為に泣いてくれた他人なんて、かつて居ただろうか。
私って、意外と人に恵まれている。
そう思うと、この人生も悪くない気がしてくる。
「薔薇とあの紙の件は、俺からそれとなく話しておく」
「えっ、担任ではないのですから。良いですよ」
「良くない。全然良くないわ。俺、そういう陰湿なのが大嫌いなの。森野、頑張ってるのに」
「まぁ……病気のことは誰も知りませんから」
先生はさっきぐちゃぐちゃに丸めた紙をポケットから取り出した。《消えろ。目障り。恨んでやる》その言葉の意味を考えるように首を傾げて、また紙を丸める。
「てか、森野何したの」
「何もしていませんよ。ただ——……」
「ただ?」
「……」
佐藤先生と親しく話しているから——……。とは、先生本人に言う勇気がやっぱり無かった。
不思議そうに目をパチパチさせている先生に「やっぱり、何も無いです」と告げると「嘘つくな」と強めに言われたが、それでも折れずにどうにかこの話題を終わらせた。
消えろ、なんて。
言われなくても消えるさ。
先生には言えていないけれど、死ねとも言われたし。
言われなくたって。
望まなくたって。
「————……近いうち、死んじゃうのにね」
「……」
私の小さな呟きに対して、先生は何も言わなかった。
漏れそうになる嗚咽を抑えるように唇を噛みしめて、また大粒の涙を零す先生。震える腕で私の体を抱き寄せると、「バカなこと言うなって……」と呟きながら、先生の額を私の額に優しくコツッとぶつけた……。