夏休みのある暑い日。誰もいない学校のプールサイドに座って、足だけピチャピチャと水の中で泳がせながら空を仰いだ。私を呼んだ人物はまだここに現れない。
「暑すぎる……」
制服のブラウスが汗で体に張り付く感覚が気持ち悪い。タオルでいくら拭っても止まらない汗に若干の嫌悪感を抱きながら、小さく見える真っ白な飛行機を眺めた。あの飛行機は一体どこへ向かうのだろうか。なんて、遠い存在に思いを馳せてみたりして。何だか私らしくない。
張り付いて気持ち悪いブラウスを指先で引っ張ってみても、またすぐに肌に吸い寄せられる。その感覚がやっぱり気持ち悪くて、つい唇を尖らせてしまう。そんな中、胸元の赤い紐リボンだけは、僅かな風に晒されて小さく揺れ動いていた。
しかし……静かだ。学校には誰も居ないのだろうか。人の声1つしないこの場所には、騒がしい蝉の声だけが響き渡っている。1人でピチャピチャと足を泳がせ続ける私。今度は太陽に向かって大きく花を咲かせている向日葵に目を向けてみる。私の足が上げる水飛沫越しの向日葵は、いつも以上にキラキラと輝いて見えた。
暫く呆然と過ごしていると、遠くからパタパタという足音が聞こえ始めた。その足音は徐々に大きくなり、プール全体に響き渡らせる。ギィ……とプールの門を開けて私に近付いてくる足音の持ち主は、小さく「よっ」と声を上げて私の頭を軽く叩いた。
「偉いじゃん。ちゃんと来て」
「当たり前です。私、真面目なんですから」
その人物の方を見ずにそう言い放つと、ブフッと吹き出すように笑われた。それが何だか癪で、自然と唇も尖る。
水の中で泳いだままの足を再度動かして、また水飛沫を上げてみた。その飛沫は思っていた以上に飛距離があったようで、傍に居たTシャツ姿の人物に容赦なく飛び散っていた。
「うわ、ちょっと森野。止めてくれる!?」
「……ふふっ。止めろって言われたら益々やりたくなりますよ。良いんですか?」
「お前……意地悪だなぁ~……」
先程よりも少し強めに足を動かして、更に水飛沫を上げる。すると、それに対抗するかのように向こうも水に手を付けて、大きく水飛沫を上げ始めた。
「佐藤先生、止めて!」
「仕返しだっ」
なんて言いつつ、その水飛沫は私の足にだけ掛かるように調整をしているようで、大きな飛沫の割には全然水が掛かって来ない。少しだけ微笑みながら手を動かしている表情がまた癪で、思い切り足を動かして水面に叩きつけた。するとその勢いで飛び散った水は、全て自分の頭を目掛けて落ちてきて……。
「……あーあ、何してるの」
「……」
全身ずぶ濡れの私が完成。元々汗で張り付いていたブラウスはさておき、髪の毛から赤い紐リボン、スカートまで……まるで水浴びをしたかのような濡れ方をしてしまった。
だけど、何だか清々しい気分だ。全身が濡れて気持ち悪いはずなのに、心は妙に晴れ渡っている。
「ほ~ら。今日は水浴びじゃなくて、プールサイドの清掃をしてもらう為に呼んだんだけど?」
「元は先生が来るの遅いからです」
「……そうだな。すみませんね、森野サン。出遅れてしまいまして」
「本当ですよ。でも今日は特別に許します」
「恐れ入りますね」
なんて言いながらお互いに笑い合って、プールから足や手を各々引き上げた。
夏休みのプールサイド清掃。これはこの学校特有の決まりなのだが、1学期の成績で評定が2以下だった科目がある生徒は、担当の教師による補習が行われる。運動が苦手な私は体育の評定が2だった為、今ここに呼び出されているのだ。
とはいえ、体育で補習と言っても少々難しい。しかも体育の補習対象者は全校生徒の中で私だけらしく、先生は補習をどうするか非常に頭を悩ませていた。そこで行き着いたのが、プールサイドの清掃。夏休み中、先生の指示で清掃を行うことで補習を受けたことにしてくれるらしい。
私は掃除用具庫に向かい、緑色のデッキブラシとホースを取り出した。水を浴びて全身濡れている私だが、暑い太陽の日差しのお陰で体が冷える感覚は無い。むしろ既に半分くらい乾いているのでは無いだろうか。そう思えるくらい、今日は暑い。
「で、先生。どこやりましょうか?」
「うーん、全体かな」
「分かりました」
教官室の横にある蛇口にホースを付けて、それを限界まで伸ばす。そしてハンドルを捻って水を出し、勢いよくプールサイドにまき散らした。勢いの強い水はプールやフェンスすらも飛び越えて、太陽に向かって咲いている向日葵の方にまで向かう。暑いから、向日葵も水分補給。そう思えば何も問題は無い気がしてくるから面白い。
「森野、水の勢いが強すぎるって! 弱めろ~」
「向日葵も水分補給ですよ、先生」
「それじゃ向日葵も物足らんわ。後でジョウロ使って優しく根元に掛けてあげな?」
「……は~い」
渋々蛇口に向かい、ハンドルを少し締めて水を弱める。そうして視線を再び水を撒いた箇所に向けるが、せっかく撒いた水の跡が無い。どんなに撒いても、暑い日差しのせいであっという間に蒸発していくのだ。そう考えると、もう水を撒く必要なんて無い気がしてくる。
私は勢いの弱まったホースを熱いプールサイド上に投げ置いて、手に持っていたデッキブラシで磨き作業を開始した。謎の黒ずみや鳥の糞。良く見ると色々なもので汚れている床は、本当に磨き応えがある。ゴシゴシと強めに擦ると、少しずつ汚れが消えて行くのが目に見えて楽しい。
キラキラと輝くプール。プールサイドから消えて行く汚れ。そして、備品庫の中で何かをしている先生。私と先生だけの、特別な時間。体育が苦手で良かったなんて、ついそんなことまで思ってしまう。
「うわーあっちぃ! 森野、備品庫の中がサウナみたいになってるよ」
「先生、気を付けないと干乾びてしまいます」
「もし俺が干乾びたら、そこのフェンスにでも干しといてね」
「干物にでもなるつもりですか」
「お、いいなそれ。俺、筋肉質だから美味いかも」
「止めて~」
意味不明な冗談を交わしながらも、デッキブラシを動かす手を止めない。綺麗になっていく床を眺めながら流れる汗を腕で拭うも、次々と流れては地面に零れ落ちた。容赦のない太陽は、より一層暑さを強めている気がする。
先程プールの水で濡れた私の全身はすっかり乾き、再び流れ出る汗が私の全身を支配し始める。また肌に張り付くブラウスが気持ち悪く感じるが、それよりもデッキブラシでプールサイドを磨く行為がやっぱり楽しい。そんなことを考えながら夢中で手を動かしていると、突然頭の天辺で冷たさを感じた。「ん?」と声を漏らしながら上を向くと、先生が私の頭に何かを置いて微笑んでいた。
「森野、休憩しよ」
置かれた物に手を伸ばすと、今度は手のひらに冷たさを感じた。先生が頭の上に置いた物を受け取り、それに視線を落とす。キンキンに冷えた、ラムネ味のアイスクリームだ。
「ありがとうございます、頂きます」
日陰に据えられているベンチに腰を掛け、先生と並んでアイスクリームを食べる。非現実感の強い今の状況に、つい眩暈がしそうになった。評定2を取った補習の代わりなのに、ご褒美に思えてしまってどうしようもない。
先生はアイスクリームを食べながら向日葵を眺めていた。僅かに吹き抜けていく風に煽られ、向日葵たちが小さく揺れる。私も同じように視線を向けると、先生は小さく言葉を発した。
「向日葵って、開花してからの寿命は1週間程度らしいよ。知ってた?」
「それは……知りませんでした」
持っている棒の部分に溶け始めたアイスクリームが伝い始め、私の手をどんどん濡らしていく。汗拭き用に持って来ていたタオルでその手を拭いながら急いで食べ切って、今度は先生の方に視線を向けてみる。先生は既にアイスクリームを食べ終えており、空になった棒を唇でくわえたまま、ゆっくりと上下に動かしていた。
「向日葵の人生は1年。そのうち、キラキラと輝けるのはたったの1週間。しかもそこの向日葵なんて、その輝ける1週間がまさかの夏休み中よ? なんかさ、そう思うと少し複雑じゃない?」
「何が……ですか?」
くわえていた棒を手に取り勢いをつけて椅子から立ち上がった先生は、私の手からも棒を取り上げてそっと微笑んだ。優しい表情なのに、どこか悲しそうな表情も混じって見える先生を不思議そうに見つめていると、またポンッと私の頭を軽く叩いた。
「せっかくの晴れ姿なのに、誰にも見て貰えなくて複雑だよなって話」
「……」
それは確かに一理あるかもしれない。休みで無ければ沢山の生徒に見て貰えるが、“誰にも”という言葉が妙に引っかかる。
「……でも、先生」
「ん?」
「誰にも見て貰えないなんてことはないです。現に私と先生は、向日葵の晴れ姿を間近で見ているじゃないですか」
「……」
「向日葵、キラキラと輝いていて綺麗ですね」
「森野……」
サァーッとやってきた生温い風は私たちの横を通り過ぎ、少し先にある向日葵をまた優しく揺らす。太陽を向いたまま左右に揺れる様子が、何だか私には喜んでいるように見えた。
来年も、私は向日葵の輝く姿を拝む事ができるのかな。そんなことを思い、小さく唇を噛む。
「よし、森野。備品庫にジョウロがある。それに水を入れて、向日葵の前に集合」
「何でプールにジョウロ?」
「授業終わりのフリータイムで使ってもらう為だよ」
高校生ってプールでジョウロを使うかな。疑問に思い首を傾げていると、先生はそっと微笑んで足早に教官室に戻っていく。その背中を見届けた私もベンチから立ち上がって、言われた通り備品庫に向かった。
履いてきたローファーを身に付け、ゆっくり歩いて向日葵が植えられている花壇を目指す。本当に学校には誰も居ないのか。それとも涼しい冷房の効いた教室に籠っているのか。蝉の声だけが響き渡る静かな校庭に、少しの不安感を抱くほどだ。
プール横に設置されている花壇には、横一列に沢山の向日葵が植えられている。ざっと20本くらい。等間隔で咲いている向日葵は、みんな太陽の方を向いていた。
「このジョウロで……終わる?」
暑い太陽に背中を向けて角で咲いている向日葵から順番に水を掛けてあげる。備品庫に置かれていたジョウロは、まさかの子供用だった。青色で象の形を模した小さなジョウロを傾け、向日葵の根本を濡らしていく。ジワッと汗が噴き出す感覚に気持ち悪さを覚えながら3本目の向日葵の元に来ると、既にジョウロの中身が空っぽになっていた。この子供用ジョウロでは向日葵を2本分しか満たせないらしい。
「ふぅ……」
思わず溜息を漏らし、花壇から近い体育館の蛇口に向かおうとすると、長い緑色のホースを引っ張って走ってくる先生の姿が目に付いた。先生は走りながらニヤッと笑い、握っているホースのレバーを引く。そのホースの先から勢いよく出てきた水は私の方へ飛んできて、またもや制服を濡らす羽目に。
ついムスッと頬を膨らましながら、子供のように微笑んでいる先生の元へ駆け寄る。そしてその手からホースを奪って、同じようにレバーを引くと、先生に向かって勢いよく水が飛び出した。
「あっ!! 森野……お前やったな!」
「先に仕掛けたのは先生ですから」
「貸して、今度は俺の番」
「嫌です〜」
静かな校庭に響き渡る私と先生の声。繰り返し飛び出す水は、太陽の光に照らされ小さな虹を作る。その虹を見てまた子供のように2人喜び、もはや何の為にホースを持って来たのかすら忘れていた。
また生温い風が私たちの横を通り過ぎていく。静かに揺れ動く向日葵は、水をやらずに遊んでいる私たちを笑うかのように、ザワザワと音を立てていた。