久しぶりの定期検診で、病状が微妙に悪化していると病院の先生に言われた。「微妙ってなによ」と強気な口調で言うと「微妙は微妙なの」なんて言って、話は終わりだよとでも言いたげに分厚いノートを閉じられる。
この病気について、正直なところ『罹患している実感』が私には無い。というのも、大きな体調の変化が無いからだ。心臓が痛いとか、お腹が痛いとか……食欲が無いとか、行動制限とか。そんなのが何か1つでもあれば実感できるのに、私には本当にそれらが無い。血液検査で『私の現状』というのが分かるらしいのだけど、それは先生にしか分からないこと。当の私には、その検査結果すらよく分からないのだ。
だから、“私が学校を卒業できる確率は10%未満”だなんて。
本当に、本当に……実感が湧かないし。正直なところ、理解もできていない。
「ところで未来ちゃん。学校はどう?」
「んー、まぁまぁ」
「未来ちゃんは本当に友達を作ってないの?」
「うん、友達ゼロ。有言実行でしょ」
「本当にそれで良いのかな……」
そう言って首を傾げるこの人は、私の担当医、渡邉先生だ。幼い頃からの付き合いだから、私は親しみを込めてこの人のことを、ナベと呼んでいる。
ナベは首を傾げながら電子カルテに目を向けて、キーボードをカタカタと叩く。そしてその様子を、少し離れた位置から私が眺める。これがいつもの検診ルーティンだ。
「1人で寂しくない? 僕は逆に色んな人と交流をして欲しいと思うんだけど」
「余命が短いから?」
「……未来ちゃん」
「だって事実でしょ?」
この病気とは昔からの付き合いだ。
だけどずっと病気に罹患している実感すら無いし、何なら病名すら私には教えられていない。
その上余命だなんて。正直、意味不明にも程がある。
最初に余命云々言われたのは中学1年の秋だった。当時もナベが何を言っているのか分からなくて、その日は全く眠れなかったんだ。今でこそ笑っていられるけれど。あの頃はやり場の無い複雑な感情が抑えきれなくて、何度も何度もナベにぶつけては、自己嫌悪に陥っていた。
「未来ちゃんは、今も“あの手紙”を常に持ち歩いているの?」
「えっ、それはナベに関係無くない!?」
「関係無くてもいいじゃん」
「いや〜だ。黙秘権を行使します!」
「未来ちゃん…………」
「ふふーん。じゃあ私、帰るね」
何だか悲しそうなナベに向かって右手を挙げて、診察室を後にする。
帰る途中、顔見知りの看護師さんとすれ違っては、他愛の無い話をした。顔見知りも多いから色んな人と会話をするんだ。学校で人とそんなに話さない分、病院内での会話が実は私の楽しみだったりする。
診察室がある東棟から渡り廊下を渡って南棟に入った。“入所者以外立ち入り禁止”の看板を超えて長い廊下を進むと、見えてくる見慣れたナースステーション。この場所に“帰る”と、いつもここから1人の女性が大きく手を振ってくれるのだ。
「あ、未来。おかえり」
「朱音さん、ただいま~」
手を振る女性……ナースステーションに立つ朱音さんは、ここのベテラン事務員。通称、ボス。なんて言ったら怒られるけれど。
私は朱音さんの目の前で機械にカードをかざし、手を振ってナースステーションを後にした。この機械は、入所者の在室状況を管理する為の物。出掛ける時と戻った時は必ずカードをかざさなければならない。
ここは川内総合病院の南棟にある、何らかの重い病気を抱える高校生までが入所できる施設、川内わかば園。ここが私の帰る場所。
余命宣告された時、私の両親は酷く悲しんだ。そして、見てられない……辛すぎてもう一緒に居たくない……、なんて意味不明なことを言って私を施設に入所させた。辛いからこそ傍に居てくれよ。そう思ったけれど、別に寂しくは無かった。制限の無い私は、門限さえ守れば行動は自由だし。施設に隣接している支援学校では無くて、普通の高校に通わせて貰えてるし。何一つ不自由も無い。
ナースステーションを過ぎて自分の部屋に戻る道中、柱に立て掛けられている大きな笹が目に付いた。カラフルな折り紙で作られた飾りや短冊が装飾されている笹。それを見てやっと、もうすぐ七夕であることを理解した。
「未来ちゃん、おかえり」
「夏芽さん、ただいま」
笹に見惚れていると傍に近付いてきた人。私の担当看護師の夏芽さんだ。ここで生活をする上でのサポートをしてくれる大切な人。
夏芽さんはカラフルな短冊を手に持っていた。柱に沿わせるように置かれた小さな机には『願い事を書こう!』と書いてある。恐らく、願い事を書いて笹に飾る為の短冊なのだろう。
「未来ちゃんも願い事を書きなよ。1枚でも2枚でも。好きなように書いてくれて良いんだから」
「えー、私には願い事なんて無いし~」
「そんなこと言わない!」
半ば無理やりに水色の短冊と12色のペンセットを押し付け、夏芽さんは笑いながら移動していく。笹の前に残された私、1人。何を書こうか悩むも、何1つ思いつかない。
“大学生になりたい”? “友達が欲しい”? “彼氏が欲しい”? “長生きしたい”? 普通の人なら当たり前であろうことが、今の私には唯一の願い事として思い浮かんでくる。だけど、そんなありきたりなことを願ってもね。
「うーん……」
暫く頭を悩ませ続ける。たかが短冊にここまで悩む人もいないだろう。
短冊の隅っこに小さく猫の絵を描いてみた。これは何猫かな。個人的には三毛猫が好きかな。なんて、現実逃避をしながら、描いた猫に模様を付ける。いそいそと描いていると、背後から近付いて来た夏芽さんが声を上げた。
「まだ悩んでるの?」
「夏芽さん……やっぱり願い事なんて無いなぁって思って」
「深く考えないことっ!」
夏芽さんは手に花瓶を持っていた。可愛い形をした透明な花瓶には、紫色の花が生けられている。よく見ると花弁が星のような形をしているみたい。珍しいその形に思わず目が奪われた。
綺麗に咲き誇る花が大好きで、目に付いた花は良く観察をするのだけど、この紫色の花は初めてみたかも。遠目に見ると星のような形だなんて、植物って本当に面白い。
「夏芽さん、そのお花は何?」
「あ、これ? これはね、桔梗よ」
「……桔梗?」
「そう。花言葉は『変わらぬ愛』『誠実』とかって言うんだけど、それ抜きで考えても素敵なお花よね。星型だから七夕っぽいし、ここに飾ろうかなって思っているの」
小さな机に書いてある『願い事を書こう!』の文字の隣に、夏芽さんは花瓶を置いた。緑の笹と、紫の桔梗と、カラフルな短冊と飾り。少しだけ殺風景な廊下に映えるこの一角だけが、何だかとても素敵に思えた。
「……夏芽さん、願い事を決めました」
「おっ、書いてみて」
水色の短冊に茶色のペンで文字を書く。隅っこに描いた猫が良い感じのワンポイントになっている。そんな猫が目立つように、模様なんかも描き足してみたりして。世界に1つだけの、私だけの短冊の完成。
「で~きた。はい、夏芽さん!」
「ありがとう、未来ちゃん」
「うん、じゃあ部屋に戻るね~」
「後で夜ご飯を届けるから!」
「はーい」
夏芽さんの方を見ずに、足早に部屋へ向かう。
短冊を敢えて自分で笹に付けなかった。願い事を書いている最中、ふいに浮かんできてしまった涙を、夏芽さんに見られないようにするためだ。
「……何が、願い事だよ」
何が、『来年も短冊に願い事を書けますように』だよ……。
部屋に戻った私は、電気も付けずにベッドに潜り込んだ。
意味が分からない。病気のことも、余命のことも。何より、普通の人と何ら変わりなく元気なことも。それなのに“来年”を夢見て、物思いにふけることも。
私、本当に死んでしまうのだろうか。何一つ理解できずに私の中の沢山の感情が矛盾し合っている現状が、とても苦しくて、意味が分からなくて……何だか妙に、悔しかった……。