新緑が眩しく映り始める季節。半袖ハーフパンツにはまだ早いこの時期に、ジャージは着るなと言い放った人物。若干身震いをしながら臨むスポーツテストには、もはや絶望しかない。
 50メートル走の平均タイムは8秒らしい。しかしそれを遥かに下回る私の足は、タンクトップにハーフパンツ姿の人物の笑い物にされる。

「森野、奇跡の足だ」
「……馬鹿にしてるんですか」

 クックックと声を殺し気味に笑う人物は、記録表に何かを記入していた。50メートル、14秒。私は昔からそうだ。運動が苦手な私は絶望的に足が遅く、運動会や体育祭、持久走大会でも毎回最下位。勉強はそれなりにできるけれど、運動は本当に絶望的なのだ。

「佐藤先生〜、古沢が転けて血が出てる!」
「転けたくらい大丈夫だ。血も大丈夫〜」

 遠くから聞こえて来た生徒の声に、全く根拠の無い言葉を返す人物。佐藤先生。そう言いながらも急いで記入を終えて、私に微笑んでから声の方に走って行った。
 タンクトップが寒そうに思えるが、当の本人は汗でびっしょり。優しく差す太陽の光が先生だけを異様に輝かせていた。


 全員の50メートル走が終わると、今度はソフトボール投げ。運動が苦手な私だが、これだけはそこそこできる。と言っても、平均以下なのには変わりないが。

 順番が回ってきて、ソフトボールを持って石灰で引かれた円の中に入る。右利きなのにボールは左で投げる私は、左肩を軽く回して準備に入る。すると記録係の同級生たちが「森野さんは飛ばない」なんて失礼な事を言いながら前に出てくるのだ。皆が立った場所はここから5メートルの位置。悪いけど、流石にそれ以上は飛ぶよ、と心の中で声を掛けて大きく振りかぶる。
 勢いよく手から離れたソフトボールは優に同級生たちを越えて、11メートル地点に落下した。絶句とも取れる表情で固まった同級生たち。てんってん……とバウンドをして止まったソフトボールを笑いながら拾った先生は、ふわっと弧を描く様に私の元へ投げ返して、記録係に声を上げた。

「お前ら、人を見くびるな?」

 そう言う先生も前の方に立っていたのを私は見逃していない。飛んでいくボールと共に走っていた様子をちゃんとこの目で見ていた。

 女子のソフトボール投げが終わり、再び休憩になったタイミングで近付いてきた先生。「あいつら酷いよなぁ」なんて言って話しかけてくるから「先生も走ってました」と返すと、小さく舌を出して意地が悪そうに微笑んだ。

「しかし、森野は左利きなんだな」
「ペンや箸は右です。それ以外が全て左です」
「へぇ、面白いね」

 多分、ペンと箸だけは親が矯正したのだろう。記憶には無いし、親からそんな話も聞いたことが無いけれど。大きくなるに連れて膨らんできた違和感。その違和感はきっと、長年右利きだと勘違いしていた私自身。何でボールは左なんだろう。それすら分からずに違和感を抱いたまま、あっという間に高校生になってしまった。
 先生はまた記録表に何かを記入して「うーん」と小さく声を上げる。その様子に少しだけ首を傾げると、先生はニヤッと笑ってボールペンの先を私の方にそっと向けた。

「走るのが苦手でも、ボール投げができれば上出来だろ」

 想像を遥かに超えたその一言。あまりにもストレートで心に届く言葉に、思わず先生から目線を逸らした。そんなことを言ってくれる人が、過去にもいたら良かったのに。……なんて、(ひね)くれそうな心に負けないように、そっと遠くを見た。

「……やっぱり佐藤先生は褒めてくれるんですね」
「ん?」
「いえ、何でもありません」

 去年のスポーツテスト……中学校で3回目だったけれど、その時の50メートル走は15秒。ソフトボール投げは9メートルだった。学年どころか、全学年で最下位の記録所持者の私を、その時の体育教師は嘲笑(あざわら)いながら酷い言葉を投げかけた。その言葉に傷付き、元々大嫌いだった体育のことがより一層嫌いになったものだ。

 遠くを見つめながら考え事をしていた私の顔を覗き込んで「おーい」と声を掛けてくる先生。目が合い、フッと微笑むと先生もまたニヤッと笑った。

「何を考えているか知らないけど、それが森野の個性だ」
「個性?」
「……みんな同じだと、面白くないだろ」

 それだけを言い残して先生は男子の方に向かって歩き始め「おら、次はお前らだ!」とよく通る声でそう叫んだ。

 スーッと吹き抜ける爽やかな風。最初は寒いと思っていたのに、日向で呆然と座っていると次第に体がポカポカしてきて何だか心地良い。体育は嫌いだけど、こうやって過ごす時間は好きかも。校庭の角で咲き誇っている菜の花が目に付く。あんなところに菜の花があったんだ、なんて新発見をしたりして。体育以外の箇所に楽しみを見出す。

 少し離れた場所でソフトボール投げをしている男子。そして黄色い歓声を上げながら見学をしている、派手な部類の女子たち。そう言えば、高石くんが格好良いとかって入学した時からみんな騒いでいたっけ。私は全く興味が無いけれど。格好良いとか、好きとか……そういう感情はあまり良く分からない。


 授業終了を告げるチャイムが鳴り、先生に向かってみんなで挨拶をする。「次回はシャトルランな。じゃあ、解散!」という、また絶望的な言葉に俯いてトボトボと歩き出すと、背後から急に肩を叩かれ全身が飛び跳ねた。その仄かな痛みに後ろを振り向くと、ニヤッと笑っている先生が視界に入る。

「ボールを体育倉庫に戻したいんだ。少し手伝って」
「……体育委員に頼んで下さいよ」
「森野に頼みたいの」

 訳の分からない先生に誘導され、渋々ボールが入っているカートを押す。カラカラ……と音を立てるカートの中で、不規則に飛び跳ねるボールたちが何だか面白い。それに見入りながら歩き続けていると、また背後から急に肩を叩かれた。
 大量の記録表を持った先生は、フフッと小さく笑って私の隣に立つ。頭1つ分くらい大きな先生を見上げてみるも、その視線は妙に力強く真っ直ぐ前を向いていた。

「森野、体育嫌いだろ」
「……はい。大嫌いですね」

 全くオブラートに包む気力の無い言葉が面白かったのか、吹き出すように大笑いをされた。(しゃく)だな……なんて思いつつカートを押し続ける。同級生たちはみんな校舎に入ったみたいで、先程の喧騒がまるで嘘だったのかと錯覚するくらい静かになった。校庭には私と先生の2人だけ。カラカラ……と騒がしいカートと共に。

「森野。俺は運動が苦手なことについて何も思わない。さっきも言ったけれど、それがお前の個性だから」
「……」
「100人生徒が居て、100人ともオリンピック選手みたいなだと怖いだろ。そういうことだ」

 どういうことだ。率直に出てきたそれは心の中に留めつつ、突然どうしたのかとも思った。だけど何となく、先生が言いたいことが分かったような気もして、少し不思議な気分。


 体育倉庫に近付くと先生は歩く歩幅を広めて、先回りして扉を開けてくれた。カートと共に倉庫に入り、定位置だと思われる隙間に収納する。外の気温は快適なのに、倉庫の中は酷く暑かった。まるで夏かのような暑さに、少しだけ頭がクラッとする。

「森野~。はよ出てこい」
「はーい」

 外に出ると、爽やかな風が再び私の横を通り過ぎていく。倉庫内で一瞬だけ熱された体は、その爽やかな風でまた冷やされた。先生は扉を閉めて南京錠を掛けると「よし、サンキューな」と微笑んだ。すると、それと同時に鳴り響き始めるチャイム。次の授業の開始を告げるチャイムだ。

「うわ、やば!」

 これから着替えもしなければならないのに。頭の中で次の授業は何かを巡らせ、最適な対応方法を色々模索する。次は、数学か。担当の賀川(かがわ)先生って遅刻すると面倒臭いんだ……なんて考える。しかし、最適な対応方法というのは全く見つからない。

「森野、俺が一緒に行く」
「え?」
「俺が頼んだんだ。俺が謝りに行く」
「そんな、悪いです」
「良いの」

 走るぞ、と声を掛けられ、先生と一緒に走って校舎内に入る。静かな廊下を小走りで進み、自分の教室を目指した。


 教室に近付くと先生はまた歩く歩幅を広め、駆け足で黒板側の出入り口へ向かう。教室内に向かって軽く手招きをして賀川先生を呼び出し、遅刻した事情を説明してくれた。佐藤先生の話に頷いた賀川先生。「そりゃ仕方ない。制服に着替えて戻ってきなさい」と言ってくれ、私は言葉通り、更衣室へと向かうのだった。

 その道中、職員室に戻るという先生と一緒にまた廊下を歩いた。静かな廊下で、ヒソヒソと言葉を交わす。それが何だか秘密を共有しているような感じがして、少しだけむず痒かった。