「未来、今日も学校行かないの?」
「行かなーい」
戸野くんがクラスメイトに病気のことをカミングアウトして数日。私は今もまだ学校に行っていない。
佐藤先生は体調に不安を覚えつつも、どうにか学校に向かっているらしい。とはいえ、やっぱり時間の問題らしく、いつ何が起こるかは分からない状況らしいが。
毎朝私を呼びにくる朱音さん。呆れたように「勉強遅れるよ、学校行かなきゃ!」と叫ぶのを無視して、私は頑なに学校には向かわない。
大体、最近私の体がおかしいんだ。
体力が落ちていることは分かっていたけれど、最近はより一層、衰えを感じている。
認めたくないのに、認めざるを得ない。
その現実を、受け入れたくない。
「……未来、学校には行ける時に行っておいた方が良いよ」
「え、死ぬから?」
「そうじゃなくて!」
「……朱音さん。クラスメイトに会いたくないから行かないってのもあるけれど、正直なところ、毎日学校まで行く気力も無いかも。体力がね、やっぱり落ちてる」
「……」
「嫌でも、死期を実感しているの」
「……っ」
朱音さんは唇を噛みしめて、何も言わないまま部屋を後にした。
最近、そういう人が多すぎる。
私の言葉に何も返せず、その場を去ってしまう人。
もしかしたら、私の返答が悪かったのかもしれないけれど。
「……ま、いっか」
やることが無い今日は、学校の勉強をすることにした。
休み始めて今日で1週間くらい?
学年末とはいえ、そろそろ勉強に遅れが出てくる。
私は持っていた5科目の問題集を開いて、復習や予習を行うことにした。
「……」
問題集を開いて、少し思う。
これ、どうやって解いていたっけ?
特に数学が酷い。覚えていたはずの公式が思い出せず、教科書を見てもなんのことかサッパリ分からない。習って理解していたはずなのに、全く思い出せないのだ。
「……元々、知らなかったのかな」
どうだったのか、それすらも思い出せない。
そして過ぎる、“記憶能力欠乏症”の症状。どこからか分からないけれど、徐々に無くなっていく記憶。
もしかしたら私は、勉強にまつわる記憶から無くなって行っているのかもしれない。生活する上ではそこまで影響のない記憶。だから余計に、病気が進行している実感が無いとか?
「……分かんないね」
分からないけれど。この状況、非常に不味い気がした。確実に進行している病気。佐藤先生だけじゃない。私もちゃんと、悪化している。
その日の夕方、結局どこにも出掛けずに部屋に篭っていると、突然ノック音が鳴り響いて扉が開いた。
朱音さんか夏芽さんかと思ったが、実際入ってきたのは白衣姿のナベだった。ナベは気まずそうに俯き入ってくる。そして「未来ちゃん、ごめんね」と、第一声で謝った。
「……何」
「先程、戸野くんが来たんだ。未来ちゃんがもう1週間学校に行っていないこと、物凄く気にしていた」
「……」
「ごめんね、本当。僕が余計なことをした」
「……全くだ」
全く、その通りだ。
全ての事の発端はナベであり、そもそもナベが戸野くんに何も話さなければ、こんなことにはなっていなかった。
「ナベのせい」
「そうだね」
「許さない」
「ごめんって」
扉の入口で深く頭を下げていたナベ。「でも、どうしてももう1つ話を聞いて欲しい」と言葉を継ぐ。
その言葉に対しては黙ったままを貫いていると、ナベは頭を下げたまま呟き始めた。結局のところ、戸野くんは嫌がらせでクラスメイトに話した訳では無いと。戸野くんとしては、私に同級生と関わることを経験して欲しかったかららしい。
「……大きなお世話だよ」
「そうだけど、許してあげて」
「何で? 何で私が許すの。てか戸野くん自身が謝罪に来てよ。おかしいじゃん。ナベに伝えさせるのって」
「未来ちゃん……」
「やっぱり嫌いだわ、戸野くん」
あまりにも苛立ってしまい、窓際に寄って外を眺めた。
その間、呆然と立ち尽くしていたナベ。
ナベ自身も許せなくて、本当は会話なんてしたくなかったけれど、私は聞きたかったことを聞いてみることにした。病気のことで頼れるのは、結局ナベしかいない……。
「ねぇ、ナベ」
「な、何」
「私ね、勉強ができなくなってる」
「え?」
「解けていたはずの問題が、全く分かんない。教科書を見ても全く思い出せないの。……記憶って、こうやって無くなって行くの?」
「……」
ナベは何も言わなかった。
その代わりに背後から聞こえてきた啜り泣く声に耳を傾け、外を眺め続ける。
向かいにある東棟の建物に沿って作られている花壇には、色とりどりのチューリップが咲き誇っていた。
もう、3月。
あっという間の1年だったと、今改めて思う。
「……未来ちゃん、学校には行きなさい」
「何で」
「……近いうち、行きたくても行けなくなる日が来るから。絶対やって来るその日は、現状だと回避できない。未来ちゃんには、後悔して欲しく無いからさ」
その言葉に振り返り、やっとナベの方を向いた。鼻を啜り、漏れる嗚咽。ナベは鼻水まで垂らしながら、見たことが無いくらい大泣きをしていた。
「……ナベ、汚い。そこのティッシュで拭きなよ」
「未来ちゃん、僕は君のことをずっと見てきた。お願いだから、そろそろ言うことを聞いてよ」
「イヤ。私の言うことを聞いてくれない人はイヤ」
「……分かった。じゃあ、もう僕も言わせてもらうよ。未来ちゃんがその気なら、君にもう遠慮はしない」
ナベはダンっと強く机を叩いた。そして見たことの無いくらい真剣な眼差しで睨むように見つめる。
一瞬で空気感が変わった。さっきまでの優しそうだったオーラは消え、まるでそこには別人が居るかのよう。ナベは冷たい目をして、私のことを睨んでいた。
「僕は医者だ。患者には、医者の言うことを聞く義務がある。病状をより良くするため。あるいは、少しでも長生きをするため。あるいは、余命宣告を受けた患者が、余生をより良く過ごしてもらうため。医者である僕たちは、相手の状況を見て、様々に手を尽くす」
「……」
「ここだけの話、君が今の学校を卒業できる確率は5%を下回ったよ。それだけ悪化しているんだ。さっきの勉強の件もそう。言わなかったけど、君の記憶欠乏が始まっていたことを僕は知っていた。つまり君は、死に向かっている」
あまりにも直球な言葉に、体が勝手に震えだして止まらなくなった。ナベも強い口調でそう言いながらも、腕は驚くほど震えていた。
お互いに滲み出す涙。だけどナベは、冷たい目を止めない。
「……だから、君には年相応のことを経験して欲しかったし、自身のことだけでも大変なのに、同じ病気の患者と関わることで余計な心配を増やして欲しくなかった。……その僕の想いは、一切君に届かないけどね」
「……届くわけないよ。ナベだって、患者側の気持ちを分かっていないもん。言ったじゃん、友達作っても悲しくなるだけだって。だから、同級生と関わらないって」
「なら、佐藤さんとも距離を取りなよ」
「……最初こそ、佐藤先生だって急に絡んできて変な人だな、くらいにしか思っていなかったよ。だけど、佐藤先生は私のことを沢山気にかけてくれた。佐藤先生は最初からずっと、私に対して優しかった……。そんな彼だからこそ、同じ病気だと分かった今、それをお互いに共有したいと思うし、傍に居たいと強く願っている」
「だから……それが駄目だって」
「駄目じゃない!! 私は、佐藤先生のことが好きだから!! どうせ死ぬのなら、私は絶対に好きな人の隣に居ることを選ぶ!!」
睨んでいるナベに負けないくらい睨み返して、部屋を飛び出す。「未来ちゃん!!」と大きな声で呼ばれるも、それすら無視して廊下を走ろうとした。
その瞬間、飛び出た勢いで目の前にいた人とぶつかってしまった。相手の胸にぶつかり、跳ね返った衝撃で尻もちを付いた私。「いたっ……」と呟きながら顔を歪ますと、ぶつかってしまったその人は「……森野」と小さく呟いて、そっと手を差し出して来た。
「森野、どうした。大丈夫か」
「せ……先生?」
現れたその人は佐藤先生だった。
悲しそうな表情で差し出されたままの手を握り、ゆっくりと立ち上がる。佐藤先生とナベと私。3人が同時に顔を合わせるのは初めてで、何故か少しだけ緊張した。
「ご、ごめんなさい。先生こそ大丈夫ですか」
「俺は大丈夫」
握った手を離し、私と先生はナベの方に視線を向ける。怪訝そうな表情のナベは「佐藤さん……何しに来たのですか」と冷たく言い放った。
「森野に会いに来た。それ以外、理由が必要?」
「会うな、と言っているのです」
「医者がそこまで干渉する必要ある?」
「……」
「大体、今日は“森野の教師”として来たんだ」
ほら、これ。と紙袋を差し出されて受け取る。中には学校からのお知らせや、各科目の課題なんかが入っていた。その中にある、見慣れない形の何か。それが気になり真っ先に手に取ってみると、正方形の色紙が出てきた。沢山の文字が並ぶ色紙。それが何なのか、頭では全く理解ができなかった。
「こ、これは……」
「1年A組からだよ。戸野から預かった」
「……」
「教室に来いってよ。森野自身は知られたく無かったかも知れねぇけど、他の奴らは何も思っていないし、寧ろ今まで知らなかったことを悔やんでる奴も半分くらい居るみたいだぞ」
そんなの嘘だ。そう思いながら、再度色紙に視線を落とす。
《病気のこと知らなかった。水臭いな、1人で隠す必要なんてなかったのに》
《私、森野さんが読んでいた本好きなの。ずっと話し掛けたいって思っていた。良かったら教室に来て。お話したい》
《嫌がらせして、悪かった。病気、ましてや余命宣告なんて知りもせず、嫌がらせをして暴言を吐いたこと。直接謝りたい》
「……嘘だ」
「嘘じゃないと思うよ。事実確認は、この俺がしているからな」
「……」
クラスメイト39人分。一言ずつ書かれた沢山の言葉は、全て私に向けられていた。
佐藤先生は「あと、1年A組には、俺から何度も教育的指導を施している」とドヤ顔で呟き「担任より担任っぽいだろ?」と言って今度は微笑んだ。
一方、先生との会話を聞いていたナベは、1人複雑そうな表情をしていた。何も言えずに俯くナベ。その様子に私もまた、掛ける言葉が無い。
「……てか、ごめん。座っても良いかな」
「あ、こっちです。気が利かなくてすみません」
「良いんだ。森野が謝ることではない」
少し辛そうに首を傾げた先生を、わかば園の共有スペースに連れて行って椅子に座ってもらった。ふぅ……と小さく息を吐いた先生は「体育教師も、限界だな」とこれまた小さく呟く。軽く飛び出したその言葉はあまりにも重たくて、自然と気持ちが下がるような気がした。
「……佐藤さん。これ以上進行すると、入院になります。その場合、仕事は辞めて頂くことになりますよ。“記憶能力欠乏症”が原因での入院。それは人生の終末期を指します」
「ったく、言われなくても分かってるよ。……俺、来年度からクラス担任を受け持たないことになっている。端から俺は、そのつもりだよ。……終末期? 上等だよ」
唇を噛んで複雑そうに先生を見つめているナベと、ニヤッと口角を上げて微笑む佐藤先生。対照的な2人を眺めていると、じわっと涙が込み上げてくるような感覚がした。
「————はいはーい、そこのお三方~。もうっ、通夜じゃないんだから。うちのテリトリー内で暗い雰囲気を醸し出さないでよ」
「……朱音さん」
ふらっと現れた朱音さんは、細くて短い花瓶を手に持っており、その中には土筆と菜の花が生けられていた。「今年は菜の花が早いんだ」と言った朱音さんに対して、ナベは「それ全部、天ぷらにしたら美味しそうですね」と雰囲気の無いことを告げる。荒く花瓶を置いてナベの元に駆け寄った朱音さんは「渡邊~~~~」と唸りながらベシッと頭を叩いていた。
今の朱音さんには、朝の悲しそうな様子は見られない。だけど、無理して笑っているような様子が垣間見えて、少しだけ複雑だ。
一方、その様子を眺めていた佐藤先生は楽しそうに微笑んでいた。最近あまり見なくなった無邪気な笑顔を見せながら、「土筆の天ぷら良いなぁ」と呑気に呟き花瓶に手を伸ばしている。やっぱりその笑顔が眩しくて、素敵で、嬉しくて。私は涙が滲むのを抑えることができなかった。
暫く4人で雑談をした後、「この後診察がある」と一言告げて去って行ったナベ。朱音さんも業務があるからと、ナースステーションに戻って行った。残された私と先生は、そのタイミングで一緒に外に出ることにした。
先生と手を繋ぎ、ゆっくりと歩く廊下。
静かに流れる空気に安心感を覚えつつ、やっぱり冷たい先生の手に少しの悲しみも覚える。
「ていうか、先生。今日はどうしてここに? まだこの時間、学校終わっていませんよ」
「……うん。やっぱり体調が悪いからさ。早退させてもらった」
「なら、早く家に帰って休まないと……」
「……俺さ。学校に来る気配のない、未来に会いたくて来たんだけど」
「……」
「本当に帰った方が良い?」
未来って……。初めて呼ばれた名前に心臓が飛び跳ねた。
今私が出せる全力で首を振り、隣の先生を見上げる。いつものように意地の悪そうな表情を浮かべている先生は「未来に会いに来た」と、再度同じ台詞を零す。
「……帰って欲しくないですよ。私、先生が来てくれて嬉しかったし、一緒に過ごしたいです」
「そう、良かった」
わかば園の玄関から外に出て、病院の敷地内を宛も無く歩き続けた。とはいえ、既に体力が無い私たち。ベンチを見つけては座って、休んで。ゆっくりと散歩をした。
途中、芝生エリアに生えていた菜の花が目についた。背丈を伸ばし風に揺れている菜の花だが、今年は本当に早い。去年はスポーツテストの時期に咲いていたことを先生に話すと「よくそんなこと覚えているな」と驚かれた。菜の花に近付き屈んで花を眺めていると、その付近で密かに生えている土筆も視界に入る。先生に向かって「天ぷら」と土筆を指差しながら一言呟くと、「天ぷら、食べたい」と微笑み、優しく頭を撫でてくれた。