始業式が終わり、3学期がスタートした。
冬休みを挟んだおかげか、以前のような目立つ嫌がらせはない。
いつも通り教室でひとり過ごしていると、やたら戸野くんの視線が気になった。話し掛けてくるわけではないけれど、視線だけがこちらに飛んでくる。それがとても気持ち悪かった。
***
3学期初日から、5限目は体育だ。
久しぶりだからドッヂボールでもするぞー、と声を上げたのは佐藤先生だ。いつも通りを装っている様子だったが、その表情はどこか暗く、調子もよさそうには見えない。
キャッキャと楽しそうな声を上げる同級生を遠目に見つめる。
やはり私の体力は落ちているのか。正直立っているだけでもすこし辛い。
ドッヂボールには参加せず、私はこそっと体育館の外に出た。そして渡り廊下に座り、庭を眺める。
あの大雨の中行われたクラスマッチの日。あの時もドッヂボールには参加せず、ここから紫陽花を眺めたことを思い出し、すこしだけ頬が緩んだ。
「……森野」
「ん?」
呼ばれて振り返ると、背後には佐藤先生が立っていた。「遊んでいるところを見ておかなくていいんですか?」と聞くと、「あれは遊びじゃない、試合だ」と割と真顔で返答される。
それがなんだか面白くて、吹き出すように笑うと、先生は同じように私の隣に座り庭を眺めた。申し訳程度に植えられているカラフルなパンジーが、ほんのり雪を被って揺れている。
「今日は〝お腹が痛いから見学しています〟って言わないの?」
「言いませんよ。今日はお腹が痛くないので」
ふふっと笑い合い、パンジーをまた眺める。
こうやって先生とふたりでいるところを見られるから、いじめられるのだろう。そう思いながらも、やはりこの時間を失いたくないという気持ちの方が勝る。
「森野。あの時も、こうやって並んで紫陽花を眺めたね」
「……はい」
「だけど——……その記憶も、もうすぐ消えてしまうのかな。ここで過ごしたこと、全部忘れてしまうのかな」
「……」
「……なーんて、お前の方がずーっと前から、そういう気持ちで過ごしていたのにな。ごめん」
冷たい風が吹き抜けていく中、同級生たちの楽しそうな声がよく響く。隣に座っている佐藤先生は、小さく溜息をついて一筋の涙を零していた。悲しそうな様子の先生に対して掛ける言葉が見つからなくて、また庭に向かって視線を向ける。すると先生は涙を拭いながら小声で言葉を継いだ。
「森野が高校で友達を作らないって話していた時の心情が、今の俺なら以前よりも理解ができる。森野はほんとうに大人だよ。そして強い。薔薇の件の時も思ったけれど、森野はほんとうに強い人だ」
「……」
「森野なら、なんでも乗り越えられる。俺、いつ忘れるか分からないからさ。覚えているうちに伝えておこうと思って」
それだけを告げて、先生は立ち上がり体育館の中へ戻って行った。
ピーッと首に提げていた赤い笛を強く吹き、「オラーッ、後ろも参加しろよー!!」と大きな声を上げて笑っていた。不意に飛んできたボールを上手にキャッチして、クラスの中でも目立つ方の男子に向かって投げつける。「お前もひとりくらい、当ててみろ!」と煽ると、その男子は小さく頷いて、敵の男子に向かってボールを投げた。
こんなにも楽しそうなのに。こんなにも生き生きとしているのに。
運命とは、時に残酷だ。
佐藤先生も同じ病気にかかったと聞いてから、改めて〝記憶能力欠乏症〟について調べた。
ネットで調べればいくらでも出てくるのに、その現実と向き合いたくなかった私は、自身の病気について詳しく知ろうとしなかった。
〝記憶能力欠乏症〟——……比較的新しい病気で、白血病や認知症と間違われることもある。診断がなかなか難しく、脳神経内科医でなければ判断することが難しい。
先天性と後天性があり、先天性は生まれて直ぐの血液検査で異変が出る。厳密に言えば、やはり白血球の数値が高い。そこから色々な検査をして、様々な病名と比較して……最終的に“記憶能力欠乏症”だと診断される。こちらは進行が非常にゆっくりで、ある時急に白血球の数値が急増する。それが、余命宣告のサインらしい。そのサインが出てくるのが10代のうちなのか、20代なのか、それとも50代なのか。人によっては様々で、余命宣告がされないまま人生を謳歌して亡くなった患者も過去にはいるそうだ。
一方の後天性は、何の前触れもなく白血球の数値が急増するとのこと。そこで大抵の人は異変に気づくらしい。
症状は体力の衰え、記憶力の低下、そして……記憶の欠乏。すこしでもその兆候があると、〝記憶能力欠乏症〟だと診断を下される。
後天性はとにかく進行が早いのが特徴。診断名が下されると同時に余命宣告され、早い人は1か月。長い人で1年。あっという間に病気が進行して死にゆくらしい。
しかも最近の研究によると、後天性として発症する人の多くが20代~30代の男性だとか。年々患者は増加傾向にあるものの、病気にかかる直接的な要因や予防方法などはまだ分かっていない。
「……」
佐藤先生には、長生きして欲しい。
ふとそう願ってしまうのも、やはり私が先生こと好きだからなのだと思う。
「ねー、せんせー!! 一緒に参加してよー!!」
「あぁ!? 俺はお前らがちゃんと参加しているか確認をする義務があるんだ! 呑気にその輪の中で遊んでられねぇーよ!」
「あ、先生遊びって言った!!」
男女関係なく囲まれる先生の姿を見て、ジワッと涙が滲んできた。
佐藤先生がいつまでも〝先生〟でいられる世界線ってどこだろう。
つい空想にふけてしまう意識の中で、またピーッという笛の音が聞こえた。
先生は「はーい、試合終了! もう怠いから、このまま解散!! お疲れ~!!」と言って、適当に授業を閉めていた。
生徒たちが足早に体育館を後にする中で、私も立ち上がり体育館から出ようとした。するとその様子に気が付いた先生は「森野!」と一言大きな声で名前を呼んで、「ステイ!」と言葉を継ぐ。
ステイって……犬じゃないし!
そのようなことを思いながらもその場に立ち止まると、すこしだけ口角を上げて小走りで駆け寄ってきた先生は、手に持っていたドッヂボールを私に向かって、ふわっと弧を描くように投げてきた。
ゆっくりとこちらに向かってくるボールを両手でキャッチして、先生の方を眺める。「上手に取れたね」と拍手しながら、今度はボールを受ける体勢になる。そして「森野、投げてごらん」と言って優しく微笑んでくれた。
「先生、私そこまで届かないです」
「大丈夫。どんなボールでも、俺が全部受け止めるから」
その言葉に深く頷き、左手でボールを掴んで先生に向かって投げ飛ばす。
ソフトボールよりは大きいけれど、それなりに飛ぶと思っていた。だがそのボールは、まったく飛ばずに私の目の前で墜落する。
知らず知らずのうちに腕の力も落ちていたとでもいうのだろうか。
小さく跳ねるボールに、思わず笑いが零れた。
「ふふーん。えー?」
「……森野」
「先生、もう1回やります」
転がっていたボールを再度拾って、また左手で掴んだ。そして大きく振りかぶって投げ飛ばす。だけどやはり、ボールは私の目の前で墜落した。
小さく跳ねるボールを見つめていると、涙が零れてきた。
体力が衰えていることは分かっていたが、正直ここまでだとは思っていなかった。
止め処なく溢れ始めた涙を止められず、それらは床をどんどん濡らしていく。漏れ出る嗚咽も抑えきれないまま、転がっているボールを両手で取ろうとするも、手が震えて上手く掴めない。
「ははは……」
「森野」
「私の体力は、どこに行ったのでしょうか……?」
「森野っ!!」
小さくうずくまる私の体を、先生は優しく抱きしめてくれた。
先生の体も震えていているようで、まるで止まる気配がない。
「……私、死ぬんだ」
「死なない」
「でもこの前、先生が言いましたよ。一緒に死のうって」
「……うん。でも、森野は死なない。医者じゃないから理想論を語らせろって、言っただろ」
「そうですけど、この前言ったことと矛盾していますよ。私はもう、先生と一緒に死ぬと決めました」
俺と一緒に、死ぬの?
——そうだと言っているのです。
俺と一緒で良いの?
——むしろ、佐藤先生と一緒がいいです。
本音は俺も、森野と一緒がいい。
——先生と、私。ふたり一緒なら、どんな〝未来〟も怖くないと思うのです。
6限目開始のチャイムが鳴り響く中、静かな体育館に取り残されたままの私たちは、頬でお互いの体温を感じるくらい顔を近づけて、抱きしめあったまま涙を零し続けた。
これから嫌でも実感してしまう死期に、お互い耐えられるのだろうか。あまりに愚直すぎる疑問に嫌気が差しつつ。でももう長くないと分かれば、これから私たちがどのように過ごしていけばいいのか、おのずと分かってくるような気がした。
「佐藤先生。私ね、先生のことが……」
「森野」
「え?」
「しーっ」
先生はそっと唇に人差し指を立て、微笑む。
そして「また、聞かせて」とだけ呟いて、優しく頭を撫でてくれた。
「森野」
「……戸野くん」
ある当番の日。
学級日誌を書くためにひとりで教室に残っていると、帰ったはずの戸野くんが戻ってきた。
やはり戸野くんは、私がひとりの時でないと話しかけてこない。自分がいじめれると嫌だから。それに尽きるだろう。
「久しぶりじゃん。話しかけてくるの。やっぱり、いじめられている人と話すと自分の印象が悪くなるからだよね」
「……別に、そんなことない」
戸野くんは教室に入って私の隣に座り、日誌を覗き込んだ。別に大したこと書いていないのに、じっくりと中身を読む戸野くんに嫌気が差す。
「ところで森野、体調はどうなの?」
「別に。戸野くんには関係ない」
「……」
戸野くんにほんとうのことを言う筋合いはない。なんでそのようなことを聞いてくるのかも理解ができないが、体力が落ちているとか、そのような事実は彼に不要である。
関係ない。それを貫き通すためには、いちばん楽で早い言葉だ。
「ところで、なにしに来たの?」
「……様子見だよ。陸也くんの依頼」
それだけを言って、戸野くんは黙り込んだ。そして息を小さく吐いて、軽く頭を搔く。
陸也くんとはナベのことだ。
ナベは今も懲りていないのだろう。戸野くんを使ってまで、私の学校での様子を知ろうとするのは普通ではないと思う。
「詳しいことは知らない。だけど、佐藤先生から引き離してとだけ言われている。森野には、同級生の友達を作って欲しいんだ。それが陸也くんの願いだって」
「望んでないし。大きなお世話だよ……」
どうせすぐ死ぬんだから——、出てきそうになったその言葉は飲み込み、日誌の続きを書いていく。その間、戸野くんは黙ったまま私の隣にいた。
結局、ナベは諦めていないんだろう。
今もまだ、どうにかして私を佐藤先生から引き離そうとしている。
ナベは、私の為と思ってやっていることなのだろう。けれど何が私にとっての幸せなのか、きっと何ひとつ考えていない。
「……で、いつまでいるの?」
「君が帰るまで」
「迷惑だよ。さっさと帰ってよ」
「嫌だ。僕は君と一緒に帰るんだ」
すこしズレた眼鏡を押し上げて、また私の書いている日誌を眺める。戸野くんは何かを考えるかのように、首を傾げていた。
「因みにさ。森野って今も佐藤先生と仲が良いじゃん。佐藤先生が原因でいじめられているっていうのに」
「……」
「陸也くんも、なんで森野を佐藤先生から引き離せと言うのか僕には分からないけどさ。森野は、佐藤先生のことが好きなの?」
「……」
耐えられない。
私は何も答えずに、日誌を荒く閉じた。そして文房具を投げ込むように鞄に入れて席を立つ。「戸野くんに答える筋合いはない」と一言呟くと、「図星なんだ」とまた声が返ってきて、それにまた苛立ちを覚える。
ナベと言い、戸野くんと言い、もう放っておいてくれたらいいのに。
医者だから、身内に同じ患者がいたから、なんて……そんなものを盾に私の人生を妨害する権利はない。残りの短い人生をどう生きるか。それを決めるのは私だ。
「元気な戸野くんには、余命宣告された人の気持ちなんて分からないよ。どうせ死ぬなら私は、いじめられても、死ねって言われても、菊の花を添えられても、石ころを投げられても。それでも私は……私は、佐藤先生の傍にいたいと、心の底から思っている」
「森野……」
「何も知らないくせに。ナベに頼まれたからという理由だけで、私の邪魔をして来ないで」
「森野っ!!」
真剣な表情で叫んだ戸野くんを放って、私は勢いよく教室を飛び出した。
日が落ちて僅かな電灯だけが足元を照らす廊下。日誌を提出するため職員室に向かっていると、突然扉が開いた教室から「森野」と私を呼ぶ声が小さく聞こえてきた。
聞き馴染みのある声。
その姿を見なくても、誰かなんてすぐに分かる。
「びっくりしました……」
「ごめん」
「突然開かないでくださいよ。寿命が縮まりました」
「それは大変だな」
その声の主——……佐藤先生は、軽く手招きをして私を教室の中へと導いた。
そこは物置のようになっているようで、大きな棚が並ぶ部屋に沢山の物が並べられている。すこし埃っぽいこの部屋で、先生は一体何をしていたのだろうか。
教室に入ると先生は扉を閉める。そして、小さく言葉を継ぐ。
「ねぇ、森野。俺が原因でいじめられているって、どういうこと?」
「……えっ?」
先生は私の前にしゃがみこみ、両手で私の両腕を掴んで悲しそうな表情をしていた。
戸野くんとの会話を聞いていたとしか思えない先生の言葉。いつから、どのくらい聞いていたのだろうか。
「ねぇ……死ねって言われたってどういうこと? 菊の花も石ころも、俺は何も聞いていないよ?」
「……話、聞いていたのですか」
「ごめん……森野が教室で日誌書いてるって聞いたから。様子を見に行こうと思って」
次第に先生の目が潤み始める。その両手は酷く震えていた。
扉の窓から僅かに差す電灯の灯りだけが、室内と私たちをほのかに照らす。お互いの呼吸音だけが静かに響く教室には、すこしだけ重い空気が流れていた。
「いじめの原因は先生ではないです。私が悪いのです」
「この前もそう言って、はぐらかしていただろう」
「先生のせいではないからです。すべて自己責任ですから」
頑なに理由は語らず、その台詞ばかりを繰り返した。まったく納得をしていなさそうな先生は、そっと目を伏せて溜息をつく。そして一言「俺には何でも話してくれと言ったじゃないか……」と呟いた。
その言葉に返答できず先生から目線を逸らすと、優しく腕を引っ張られてその場に座らされる。そして、そっと先生の胸に包み込まれた。
「なぁ。お願いだから、俺の前では強がるなよ」
たった一言だったけれど、力強い先生の声色。それとは対照的に、抱きしめてくれていた腕の力は、以前と比べ物にならないくらい弱々しくなっていた。
実感をしたくないのに、こういうところで先生の病気を実感してしまう。私の体力が落ちているのと同じように、先生も体力が落ちているのだ。
まだふたりとも記憶の欠乏は感じられない。けれど、それもいつかはやってくる。その現実がまた怖くて、悲しくて、恐ろしい。
「……森野、わかば園まで送る。一緒に帰ろう」
「でも、そんなところ見られたら何を言われるか……」
「誰に何を言われるの?」
「……」
「大丈夫。俺がお前を守る」
先生に肩を叩かれ、ゆっくりと立ち上がる。
私と先生は足早に物置のような部屋を出て、職員室に向かった。
私は担任に日誌を提出し、先生は帰宅の準備をする。「玄関のところで待っていて」という指示に従ってひとり玄関に向かうと、1年の靴箱付近に戸野くんが立っていた。「まだ靴があったから待ってた」という恐ろしい言葉を口にして、戸野くんはすこしずつ私の方に歩いてくる。
彼の顔に感情が見えず、とにかく怖かった。どうして戸野くんがそのような表情をしているのかがまったく理解できないが、ただこの状況は非常にまずいと思った。
「職員室で何をしていたの?」
「別に、戸野くんには関係ないって」
「やっぱり、佐藤先生なの?」
「だから……戸野くんには関係ない!!」
大きな声で牽制するように叫ぶと、一瞬だけ戸野くんが怯んだように見えた。
その隙に靴を履き替え外に出そう。そう思い体を動かすと、後ろから低く冷たい声が飛んできた。それと同時に、他に誰もいない静かな玄関からは冷たい風が入り込み、全体的に冷たい空気感に覆われる。
「なぁ、戸野。お前はなんだよ、この間から」
「……佐藤先生」
先生は睨みつけるような視線を戸野くんに向け、「さっさと帰れよ」とさらに冷たく言い放った。先生は自身の靴箱からスニーカーを取り出し、スリッパをしまう。その様子を不満そうに戸野くんが見つめていた。
「……何って、こちらの台詞ですよ、佐藤先生。先生がどういうつもりで森野と関わっているのか知りませんけど、同情で気に掛けているだけなら、今すぐにでも止めて下さい。森野は先生のせいでいじめられているし、辛い思いをしているんだ。森野の病気のこと、何も知らない人が同情していい物ではありません!!」
私は戸野くんの言っている意味が分からずに、呆然とその場に立ち尽くす。すると先生は「バーカ」と一言呟いて鞄をその場に置いた。そして戸野くんの方に歩み寄り、キッチリと結ばれている制服のネクタイを手に取り引っ張る。
「お前こそ、森野の何を知っているのか知らないし、森野のことをどう思っているのか興味もないけどさ。病気のことは当事者にしか分かんねぇだろ。当事者同士だからこそ、共有できる感情もあるだろ。むしろ健康なお前こそ、何を知ってんだ?」
「……どういうこと?」
「つまり。同情するなとはこちらの台詞だ。俺は後天性の〝記憶能力欠乏症〟であり、余命はあと1年もないと医者に言われている。気持ちとは裏腹に、すこしずつ体が衰えていく。それがどんな感じなのか、お前には一生分かんねぇだろうな」
先生は戸野くんのネクタイから手を離し、大きく溜息をついた。戸野くんは驚いたような表情のまま、固まって動く気配がない。
しかし——、まさか先生が戸野くんにカミングアウトするとは思わなかった。
病気を他人に話すのは勇気のいることだ。私自身がそうだから余計に思うのかもしれないが、あまりにも普通に、呼吸をするように言い放った先生は、とても格好よく見えた。
「お前がどういう理由で俺と森野を引き離そうとしているのかは知らん。誰の差し金かも俺は知らん。知りたくもない。けれど、お前には病気のことを語る資格はないんだ」
「違う……僕の兄貴は〝記憶能力欠乏症〟で亡くなったんだ!! だから、誰よりもその病気のことを知っているつもりだし、森野のことを誰よりも理解できると思っている!! 僕の方が、佐藤先生よりもその病気について詳しい!!」
「……バーカ。なら尚更だろ。兄貴は兄貴だ。お前は病気の当事者ではない。それがすべて」
帰るぞ。と私の肩を叩き歩くよう促す。
靴を履き替えて先生の後を追って玄関を出る途中、ふと視界に戸野くんを入れてみる。
彼は酷く悲しそうな表情で、呆然と一点を見つめていた。
既に真っ暗になっていた外を、僅かな街灯だけが私たちを照らす。車に向かう先生の背中を追いかけていると、ふと立ち止まった先生はこちらを振り返ることもせずに言葉を発した。
「戸野があんなにも目くじらを立てる理由はなんだ?」
「……ナベのせいです」
「ナベ?」
「私と先生の主治医、渡邊先生です。彼が私と佐藤先生を引き離そうとしているのです」
「……なんでだよ」
「……」
込み上げてきた涙で言葉が出なかった。
先生は私の肩を支え、車を目指す。優しく助手席に乗せてくれた先生自身は運転席に座り、小さくまた溜息を零す。
私は勇気を振り絞って、先生にきちんと話をした。
先逝くであろう後天性の佐藤先生と仲良くしていると、私が傷つくことになる。だから佐藤先生と関わるなと、ナベに言われたこと。ナベは高校で同級生と仲良くなって欲しいと願っていること。
そして、それらを実現させるために、ナベが戸野くんに私たちの邪魔をするよう依頼していたこと。戸野くんのお兄さんは〝記憶能力欠乏症〟で、ナベと友達だったこと。それらすべてを佐藤先生に話した。
「……なんだよ、それ。医者だから何をしてもいいと思ってんの?」
話を聞いた佐藤先生は怒っていた。
戸野くんに佐藤先生の病気のことを言わなかったのは正解だ。だけど最初、私の病気のことを戸野くんに話したことは間違っている。そう言って語尾を強めた。
「亡くなった友達の弟だからなんだ。そんなの関係ないし、戸野に俺らの邪魔をされる筋合いもない」
ゆっくりと車を発進させ、学校を後にする。
怒りが抑えきれない様子の先生は、すこしの苛立ちを見せていた。
「……今度、渡邊先生の診察があるんだ。物申しておく」
「喧嘩はしないでくださいね」
「それは、保証できんけどな」
しばらく無言が続いた静かな車内。
移り変わる窓の外を眺めていると、ふと気になっていたことを思い出した。
「……あ」
「ん、どうした」
「そういえばずっと聞きたかったんですけど、冬休みに補習していません。評定2だったのに、何故ですか?」
「……あぁ、そのこと?」
1学期は運動が苦手すぎて評定2を取ってしまった。しかも、2以下は補習があるという特殊な学校。体育で補習対象になった人が私以外にいなくて、夏休みはプールサイドの掃除をしたのだった。
そして2学期もやはり2以下だった。それなのに先生は補習をしなかった。
私の質問を聞いた先生はふふっと笑いを零す。そしてポンポンッと私の頭を叩き、そのまま優しく撫でてくれた。
「ポインセチアを見に行っただろう。あれが補習だよ」
「え?」
「ってことにした! 何をしても担当教師の勝手だからさ。2学期も補習対象者は森野だけだったし、それでいいかなーって思って!」
信号で停車したタイミングで私の方を向いた先生は、ニヤッと無邪気な笑顔を見せた。久しぶりに見たその笑顔があまりにも素敵に映って、涙腺が緩み切っている私の目からは、簡単に涙が零れ落ちる。
「え、なんで泣いているの!? そんなに補習したかった!?」
「違います。先生の笑顔……」
「俺の笑顔?」
「先生、病気が分かってから疲れているというか、辛そうな表情ばかりだったので。久しぶりに見た笑顔に感動しました」
「な、なんだよそれ……」
信号が青になり、先生はまた車を走らせる。
このまま真っすぐ進んで、次の信号を左折すれば川内総合病院だ。
もうすぐ終わる。先生との時間。
窓の外を眺めながら、反射して写る先生の顔を眺めた。
真っ黒な短髪。すこしだけ彫の深い、整った綺麗な顔。筋肉質な体。力強い腕。
佐藤先生を構成するすべてが愛おしくて、もどかしい。
先生を想ってまた涙が零れ落ちた時、心にずっと留めていた想いも自然に溢れ出した。
「——佐藤先生、好きです」
「……」
「私、ほんとうは死にたくないです。佐藤先生も、死んでほしくないです。私と先生が、明るく楽しく、笑顔で過ごせる未来が訪れたらいいのに……なんて、最近はそのようなことばかりを願ってしまいます」
先生は正面を向いたまま、何も言わなかった。
無言のまま病院の外来駐車場に入り、わかば園の玄関に近い場所に車を停める。
言わなければ、よかったかも。
重たい空気が車内に漂い、唾を飲み込むのも躊躇う。
このままではまずいと思い、冗談でしたー、と告げようと考えた。
すると、それよりも先に先生の方が動き出す。
シートベルトを外した先生は「森野」と一言呟いて、そのまま勢いよく私の体を抱きしめた。鼻を啜りながら今出せる精一杯の力で抱きしめてくれる先生の声は、酷く震えている。
「なぁ、森野……俺だってそうだよ。俺だって、どうすればふたりが長生きできる未来がやってくるのか。俺さ、家に帰ってからも……最近はずっと、そんなことばかりを考えているんだよ」
大きく体を震わしながら嗚咽を漏らして涙を零す。涙でぐしゃぐしゃになっている先生は、私からすこし離れて自身のポケットに手を入れる。その中から取り出したのはふたつのお守りだった。押し花がデザインされた、可愛らしいお守りだ。
「なぁ、森野……教師失格だけどさ、俺もお前のことが好きだよ。同情なんかではなくてさ、俺は森野の強さと明るさに、いつの間にか惹かれていた。そして今の俺自身も、森野の強さと明るさに助けられているんだ」
「……」
「俺、神なんて信じていないんだけどさ。それでも神頼みをしてしまうくらいには、俺も森野も死なない未来を切に願っている。何が〝記憶能力欠乏症〟だよ。なんでだよ、なんで俺も森野も余命宣告されなきゃならないんだよ」
先生から受け取ったお守りには、細い花弁が特徴的な紫のお花が施されていた。裏には【長寿と幸福を】と書かれている。
このお花はノコンギクと言うらしい。菊と言うと私の机に置かれたあの時のことを思い出してしまうが、このノコンギクは故人に手向ける菊とは違うようだ。
「花言葉は、長寿と幸福。守護。そして……忘れられない想い」
「長寿、幸福、守護……」
「神頼みしかできない小さな俺を笑ってくれ。だけど、余命宣告されたふたりが長生きする未来を望むことくらい、別に罰当たりでもないし、いいよな」
「先生……」
「俺も生きる。森野も生きる」
悲しみの中に生み出されし、ひとつの希望。
生きたいと願う余命宣告された私たちは、藁にも縋る思いでそのお守りを強く握った。
抱きしめられた先生の体から感じる体温は、この瞬間を先生が生きていることの紛れもない証拠。その温かさが妙に切なくて、なんだか悲しくて、また簡単に私の目を潤ませた。
「……ほんとうは、死にたくないです」
「死にたくないな」
「ほんとうは、友達を作って普通に生きたい。病気が憎くて堪らないです」
「いったい俺らは、前世でどんな悪いことをしたんだろうな?」
「悪いことをしたバツですか?」
「そうかもしれんな」
知らんけど。最近生徒の間で飛び交うその言葉を先生が口にして、つい笑いが零れた。
「けれど俺ら、なんだかんだ死なないと思わない?」
「ふふ……なんだかんだ、ですね。そうだといいのですが」
私も先生も、抱きしめる腕に力を込める。
お互いの弱った腕が出せる最大限の力を込めて。苦しく感じるほどに、相手の体温を全身で受け止めた。騒がしいふたつの心臓に耳を傾け、どちらからともなく笑いを零して顔を近寄せる。
私と先生は、お互い見つめ合いながら、溢れる涙で濡れた頬に触れ合う。
そうして優しく、優しく。
軽く触れ合うように、そっと唇を重ねた。
「……」
「未来ちゃん」
「……」
「未来ちゃんってば」
私の定期検診の日。ナベの診察室にやってきたものの、私は何ひとつ言葉を発さなかった。
私より先に診察を受けていた佐藤先生は、案の定盛大に揉めたらしい。というか、佐藤先生がひとりで怒っていたが正解だろうか。
その一方でナベは、佐藤先生に対して何も言わなかったとのことだ。
「……未来ちゃん。血液検査の結果だけど、かなり病気が進行しているよ」
「……」
「こんなこと言いたくないけれど、もうほんとうに先は長くないかもしれない」
電子カルテに目を向けて、今日もキーボードを打つ。だけど今日のナベは、パソコンに向かいながら涙を零していた。医者がそのような態度でいいのか。そう思いながらも、私は決して言葉を発さない。
ナベはほんとうに悲しそうだった。そして「未来ちゃんもだけど、佐藤さんはもっと悪化している」と呟くように言ったのだ。
「……っ」
聞きたくない。
佐藤先生がどうかなんて、ナベの口から聞きたくない。それが本音だった。
「未来ちゃん、戸野くんの件はほんとうに申し訳なかった。やり過ぎたと思っている。でもね、これだけは譲れない。僕は佐藤さんと距離を取って欲しい。そうでないと、ほんとうに、ほんとうに未来ちゃんが傷つくだけだから。僕はどうしても、未来ちゃんには悲しい結末を辿ってほしくない」
「……」
「どうしようもないんだ。止められないんだ。どうしても、どうしても!! 後天性の佐藤さんの方が進行が早いんだよっ!! だから——」
「うるさーーいっ!!!!」
「っ!!」
ナベの言葉に耐えられず、つい叫んでしまった。
同じ部屋にいた看護師たちも驚いて体を硬直させ、みんなが私を見つめる。涙で目が潤んだままのナベも、酷く驚いたように固まっていた。
「うるさい。うるさいよ、ナベ。もう、ここまで来たらいいじゃん。私も佐藤先生も悪化しているわけでしょ? なら、もういいじゃん。死ぬ者同士、仲良くさせてよ」
「でも……っ!!」
「でもじゃない。いいの。前に言ったでしょう。私が死ぬ時、傍にいてねって佐藤先生には話している。だけどそれが叶わないと言うのならば、一緒に死ぬ未来も有りだよねって。それに、仮に佐藤先生の方が先に死んでも私は傷つかないよ。だって、私もすぐに先生の後を追うのだから。変わんないよ」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、荷物置き場に置いた鞄を手に取った。そうしてナベの方を見ずに、吐き捨てるように言葉を継ぐ。
「だから私、佐藤先生と一緒にいる。ナベに何を言われても、戸野くんに邪魔をされても、絶対に離れない」
「……未来、ちゃん……っ」
ポロッとまた涙を零したナベは、悲しそうに俯き下を向く。それに対して何も言わずに診察室を後にした。
しかし、病気が進行しているとは……。
体力の衰えから覚悟はしていたけれど、実際に指摘されると心がざわつく。そして、それ以上に佐藤先生の方が進行していること。その事実にまた、悲しみを覚える。
診察室がある東棟から、わかば園のある南棟に戻る途中、普段は気にならないのに、今日は無性に売店が気になった。デカデカと掲げられているポップに目をやり、視界に入ってくる興味深い文字。
【思い出作りに! チェキという選択!】
「……チェキ、か」
写真を撮ると、その場でフィルムに印刷されて出てくるカメラだ。スマホとはまた違うカメラに対して興味が湧いた。
「これがあれば……」
私は足早にわかば園へと戻り、ナースステーションに立っていた朱音さんに声を掛ける。挨拶もそこそこに「朱音さん、お金ちょーだい!」というと、一瞬で怪訝そうな顔をされた。
「え……未来、どうしたの?」
「朱音さん、そこの売店にチェキの本体が売ってあったの」
「チェキ?」
「管理してもらってる私の銀行口座からさ、2万円くらい引き出してきてよ! 私、チェキが欲しい」
チェキの本体を見て思った。
いつ消えていくか分からない記憶。それをフィルムとして残しておきたいと思った。学校や病院、わかば園。忘れてしまっても、形に残るように。
佐藤先生との思い出を、たくさん残せるように。
「……ねぇ未来、診察で何かあった?」
「え?」
「私に隠そうとしても無駄よ」
「……ふふーん!」
深刻そうに呟いた朱音さんを無視して「じゃあ、よろしくね!」とだけ言って部屋に戻る。
怪訝そうな顔をしていた朱音さんは「未来!!」と叫んだけれど、その声に反応はしなかった。
***
後日、用意してもらった2万円を持って売店に向かった。
ピンクと紫のチェキ本体。
それを手にした時、何だか妙に希望が見えたような気がした——。
「——朱音さーん!」
「未来」
パタパタと小走りでわかば園に戻り、ナースステーションにいる朱音さんに声をかける。そしてチェキを構えて「朱音さん、ピース!」と声を弾ませた。
朱音さんは「それがチェキか!」と呟いてピースをしてくれる。その隙にシャッターボタンを押すと、ゆっくりとフィルムが出てきた。
「すごーい!」
「へぇ、画質も良いんだね」
本体と一緒に売ってあったフィルムホルダーに、今撮った写真を入れる。記念すべき第1回目は、朱音さんだ。部屋に戻ったらチェキの余白に詳細を書き込むんだ。
もし忘れてしまっても、大丈夫なように。
「あ、夏芽さーん!」
「未来ちゃん、おかえり」
「夏芽さんも写真撮らせて!」
「え?」
驚きつつも、笑顔でピースをしてくれた。
優しい笑顔の夏芽さんが、フィルムとして出てくる。2枚目の思い出も、フィルムホルダーにそっとしまい込んだ。
「朱音さんが未来ちゃんの口座からお金を下ろしていたのって、それのためか」
「うん、そう。そこの売店に売ってあったから、お願いしたんだ」
「……売店で売るレベルの品じゃないけどなぁ……」
「それは言えてるね」
不思議そうな夏芽さんに「部屋、戻るね」と告げて歩き始める。
これから始める思い出作り。
いずれは通えなくなる学校を中心に写真を撮ろうと決めて、私はチェキを学校の鞄の中に入れた。
***
翌日、いつも通り学校に向かうと、何やら教室の雰囲気が違った。
私が教室に入ると、シーンとなるクラスメイト。「え、何?」と小声で呟くと、戸野くんがゆっくりと近寄って来た。
「森野、おはよう」
「……おはよう?」
戸野くんは他の人がいる時には絶対話し掛けてこない。彼が挨拶してきたことに驚いたが、それ以上にみんながこちらを見ていることに、もっと驚いた。
私、何かしたっけ……?
佐藤先生と仲がよくて一部の女子からいじめられている。それ以外に心当たりがなくて、すこしだけ恐怖心を抱いた。
「な、なんなの……ほんとうに……」
「ごめん、森野。僕、君の病気のことをみんなに話した」
「……」
戸野くんの言っていることが、理解できなかった。「ん?」と間抜けな声を漏らし、一生懸命に頭を回転させる。そうして、言われた言葉の意味をやっと頭で理解できた時「はぁ!?」と今度は大きな声が出たのだった。
「え、待って。どういうこと? え、戸野くんはなんでそんなに勝手なことをするの? てか、私が病気ってこと、みんなが知る必要なくない? なんで、なんで戸野くんはそんなにも自分勝手なの!? 私のこと、何も考えていないじゃん!」
「ちが……待ってよ! これには理由があって!!」
教室に入って数分。溢れ出す怒りを抑えきれなかった私はまた教室を飛び出した。
黒い薔薇の時と同じ。また今すぐにでも帰ってやろうと思って職員室に向かう。
どうして戸野くんは、そんな勝手なことばかり……私がなんの為に友達を作らないようにしていたのか、その気持ちを知りもしないで。
湧き上がる怒りと苛立ちを隠さずに教室棟を出て、特別教室棟へ向かう。職員室に近づき担任の姿を探していると、扉付近で誰かがぼそぼそっと会話している声が聞こえてきた。
「——佐藤先生、今日は急遽病院でお休みらしいですよ」
「最近、体調がよくないとは言っておられましたよね」
「そうですね。何事もなければいいのですが。2年A組のホームルームには、副担任に向かうよう伝えておきます」
「お願いしますね」
先生ふたりがこちらに向かってきたら困ると思って、咄嗟に物陰へ隠れた。しかしふたりともこちらには来ず、職員室の中に入って行ったようで、顔は合わさずに済んだ。
「……病院、休み……」
どの先生が会話をしていのか分からないけれど、その話を聞いた私は急いで自身の担任を掴まえて、早退する旨を伝えた。そして足早に職員室前から走り去る。急遽病院……そんなの、体調が悪化したからとしか考えられない。
とはいえ、体力も限界に近い私だ。
職員室前から玄関までの僅かな距離で息切れを起こし、ついその場に蹲ってしまう。
「……っ」
嫌でも実感してしまう衰え。死に向かう体に怒りすら覚える。
悔しくて涙を滲ませながらも、私は自身の体に鞭を打ってまた歩き出す。
急いで学校を後にして、川内総合病院に向かった。
戸野くんのせいで教室にいたくない……というよりは、今は何よりも佐藤先生の元に向かいたい。そちらに気持ちが切り替わっていた。
***
「——ナベっ!!」
「……え? 未来ちゃん?」
東棟にある脳神経内科の外来に向かい彷徨っていると、遠くから歩いてくるナベの姿が目に入った。深刻そうな表情をしていたナベは、私の姿を見つけると、一緒に歩いていた看護師を診察室に帰らせた。そしてナベひとりが私の元へ近寄ってくる。
「どうしたの、学校は?」
「……ねぇ、ナベ。佐藤先生は?」
「……」
「佐藤先生、来てるよね」
「未来ちゃん……」
「どこなの? 会いたい」
真剣な眼差しでナベを見つめるも、軽く首を振って拒否される。「患者同士の面会はできない」などと、訳の分からないことを言うナベに、無性に苛立ちを覚え始めた。
そこまでして私と佐藤先生を引き離したいのか。そう思えば思うほど、苛立ちが抑えきれない。
「未来ちゃんは学校に行きなさい。行ける時に行っておかないと」
「イヤ」
「なんで?」
「……佐藤先生の件は、後から知ったけど。どのみち今日はサボる予定だった」
「だから、なんで?」
なんでって……だいたい、ナベが戸野くんに私のことを話したのがきっかけでしょう。
戸野くんがクラスメイトに私のことを話したという事実、それをナベにも伝えるかを悩んだ。けれど、言ったところでナベには響かない。
私にとって、その戸野くんの行動がどれだけ辛いことかなんて、きっとナベには伝わらない。そう思った。
「……ナベには、言わない」
「なんでだよ、未来ちゃん!」
「うるさいな。すべてナベのせいなんだから。戸野くんに私のことを話したのがすべてだよ。もう何もかもが、ナベのせいなんだからっ!!」
話にならない。
佐藤先生のことも教えてくれないなら、これ以上ナベと話すことはない。私は踵を返してナベに背を向け、わかば園に戻ることにした。
わかば園のナースステーションに着くと、朱音さんがギョッとしたような表情で「え、未来!?」と声を上げる。「学校は!?」と二言目にそう言った朱音さんは、パタパタと私の方に駆け寄ってきた。
「朱音さん、ごめんなさい。今日は休む」
「どうしたの?」
「病気のことを知ってる男子にさ、クラス全員にバラされた。私の病気のこと」
「え、なんで!?」
「知らない。私が知りたい」
朱音さんの横を通り過ぎて、機械にカードをかざす。そして、そのまま部屋に戻って行った。
佐藤先生がこの病院のどこかにいるのに。どこにいるのか分からない。それがまた悔しいし、教えてくれないナベのことが憎い。
教室にいづらくなった原因を作った戸野くんも。誰も彼もが憎くて堪らない。
部屋に戻った私は乱暴に鞄を放り投げて、布団に潜り込んだ。
もう、学校に行きたくない。今すぐにでも死んでしまいたい。
他の人からすれば『ただ、病気のことを話されただけじゃん』という感じかもしれない。だけど、私にとってはそうではない。私にとって病気を知られることは、公開処刑と同じ。誰にも知られたくなかった。知っているのは、ナベと佐藤先生だけで、よかった——……。
「——もーりのっ」
「えっ!?」
しばらく布団に潜り込んで考えごとをしていると、突然開いた部屋の扉から、私を呼ぶ軽い声が聞こえてきた。その聞き覚えのある声に飛び起きると、ニコニコと微笑んでいる佐藤先生の姿が視界に入る。
「森野、入ってもいい?」
「どうぞっ」
布団から飛び出して椅子を先生に差し出す。そして自身も椅子に座って先生の顔を見上げた。
青白い顔で微笑んでいる先生は、すこし荒めの呼吸をして、ふぅ……と息を吐き出す。そして「しんどいね」と一言呟いて、鞄を床に置いた。
「先生、どうして私がここにいることを知っているのですか?」
「……渡邊先生が教えてくれたよ。森野が学校をサボってるって」
「え?」
「どうしてサボっているのかな~?」
「ふ、ふふーん」
「答えなさいっ!!」
腕を伸ばして私の頭に手を置き、わしゃわしゃと髪の毛を撫でられる。その手があまりにもひんやりとしていて驚いたけれど、先生は何も気にしていない様子だった。
しかし……ナベが先生に私のことを話したなんて、ますますナベの考えていることが分からない。
私と先生の仲を引き離したいなら、黙っておくことだってできたはずなのに。ナベはいったい、何がしたいのだろう。
「……なぁ、森野」
「はい?」
「答えないと、筋トレさせるぞ?」
「え、イヤです!!」
今度は意地の悪そうな顔を浮かべた佐藤先生は、「腹筋何回にしようかな~」と言葉を継ぐ。その様子に私はつい唇を尖らせながらも、先生に今朝の出来事をきちんと話すことにした。
教室に行くと戸野くんが話しかけてきて、そこでクラスメイトに私の病気をカミングアウトしたこと。それが辛くて、悔しくて、その場にいられなくて職員室に向かったこと。そして、そこで佐藤先生がお休みだと知ったということ。それらすべてを先生に話した。
私が話している間、先生はずっと真顔だった。
何も言わずに固まり、何かを考えているような様子。考える中で何か不満が募っているのだろう。だんだんと眉間に皺が寄る先生が面白くて見つめていると「……戸野、馬鹿だな」と小さく呟いた。
「戸野、大馬鹿だ。今度あいつの眼鏡壊してやる」
「……そういう物騒なのは止めてください」
ふふっと笑うと「笑いごとじゃねぇだろ」と先生は怒り気味だった。だけど、先生が私のことで怒っているのがまた嬉しくて、やはり笑いが止まらない。
「……はぁ。なぁ、森野。ちょっと外に行かない?」
「外?」
「うん。さっき外来駐車場から梅が咲いているのが見えたんだ。多分、中庭だ。一緒に見に行こうよ」
「……行きます」
先生はすこしよろけながら椅子から立ち上がる。その様子に不安を覚えながら腕を支える。そこで、ふと思い出した。
「あ、チェキ」
「チェキ?」
先生が安定したことを確認した私は、学校の鞄に入れていたチェキを取り出した。これで佐藤先生と一緒に写真を撮る。この存在を思い出せた自分に心で拍手をしながら、また先生の元に駆け寄った。
先生はチェキを知らなかった。「それ、何?」と不思議そうに聞くものだから「これはカメラですよ」と答える。「あとでどんなものか分かります」と言葉を継ぐと、嬉しそうに小さく頷いた。
***
わかば園の玄関から外に出て中庭に向かう。しばらく歩き続けていると先生の言った通り、綺麗に咲き誇る梅が視界に入って来た。ピンクと白。色とりどりの梅が輝いて見える。
梅を見た先生は「綺麗だな……」と呟いて、近くに置かれているベンチに腰を掛けた。
「もう、2月。森野はどうだった? 高校1年の生活」
「……え?」
「俺、森野といちばん長く一緒にいた気がするんだけど、森野はどう?」
「どうって……」
そんなの、私も同じだ。
同級生に友達を作らないと決めた私。その私を気にかけて、話し掛けてくれたのは……紛れもない、佐藤先生だ。夏休みも冬休みも、私の傍にはいつも、佐藤先生がいた。
「……私も同じです。いつも隣に、先生がいました」
「そうだよな」
先生はどこか嬉しそうに微笑む。
梅の花を眺めながら微笑んでいる様子が儚くて、なんだか消えてしまいそう。
「……」
私は滲んできた涙を見られないように軽く拭い、持ってきたチェキを構えた。そして梅の花も一緒に入るように佐藤先生に向け、シャッターを切る。
ゆっくりと本体から出てきたフィルムを先生に見せて「これが、チェキです」と言うと「あぁ、知ってたわ」とまた優しく微笑んだ。
「それ、貸して。俺も森野を撮りたい」
「えー……私単体はいらないですよ~」
「俺が欲しい」
「え〜?」
このチェキは自撮りもできる。モードを自撮りに変更して先生に渡した。「先生、こうやって腕を伸ばして。このボタンを押してください」とお願いし、先生に顔を近付ける。そしてチェキからシャッター音が聞こえてきたことを確認して動き出すと、先生と私の2ショットがフィルムに焼かれて出てきた。肝心な梅の花はすこし途切れているけれど、先生とふたり、初めての2ショットに頬が緩む。
「森野、それ俺も1枚欲しい」
「え〜?」
「お願い」
先生に促され、もう1枚2ショットを撮る。
出てきたフィルムが欲しいと言う先生に渡すと、嬉しそうに眺めたあと、自身のカードケースの中にしまいこんだ。
先生が言うに〝お守り〟らしい。
ノコンギクのお守りと一緒に、このフィルムも持ち歩くのだと言って、先生は優しく微笑んでいた。
「……なぁ森野。ここだけの話、俺もう長くないらしいよ」
「……え?」
「今日も酷い頭痛に苦しんでいた。渡邊先生によると、記憶が欠乏する予兆らしい。どの記憶からなくなっていくのか。どの身体機能が奪われていくのか。医者ですら見当もつかないらしいけれど、俺が今のままでいられるのも、時間の問題だ」
重たい言葉とは裏腹に、佐藤先生はあまりにも清々しい表情をしていた。まるで死を既に受け入れているかのような表情。だけど私には、どことなく悲しそうにも見える。
「……先生、死んじゃうの?」
「——最初そうやって、俺が森野に聞いたね」
「思い出を語るんじゃなくてっ!!」
「突然大きな声を出すなよぉ~、森野~」
まぁ、座りなよ。そう呟きベンチをトントンと叩く。
先生に促されるがままベンチに座ると、周りに誰もいないことを確認した先生は、そっと私の肩を抱き寄せた。
優しい抱擁に、心が落ち着く感覚がする。
先生が隣にいてくれる。ただそれだけで、胸が温かくなる。
「私より先に死んだら駄目です」
「森野は長生きしな?」
「イヤです」
「そんなこと言うなって~!!」
春になったというのに、まだ肌寒いこの季節。
私と先生を照らす太陽のぬくもりすら物足りない。
「……」
隣にいる大きな体にギュッと抱きついて、全身でその体温を感じる。やはりいつもより冷たいけれど、それでも吹き抜ける風よりは温かい。
一瞬驚いたような声を上げた先生だったが、私の抱擁を受け入れ、優しく腕を撫でてくれた。
優しくて、温かい。
佐藤先生のこの温もりを永遠に感じることができたらいいのにと、すこし感傷に浸る中で視線を梅に向けた。鮮やかなピンクと白。私の視線が梅に向いていることに気が付いた先生も、同じようにそちらを向いた。
そして先生は「来年も、森野の隣で梅を見たい」と小さく呟く。
私はその言葉が〝聞こえなかったフリ〟をして上を向くと、既に潤んでいた目からゆっくりと一筋の涙を零れ落ちた。
「未来、今日も学校行かないの?」
「行かなーい」
戸野くんがクラスメイトに病気のことをカミングアウトして数日。私は今もまだ学校に行っていない。
佐藤先生は体調に不安を覚えつつも、どうにか学校に向かっているらしい。とはいえ、やはり時間の問題らしく、いつ何が起こるかは分からない状況とのことだ。
朱音さんは毎朝同じ時間に私を呼びにくる。呆れたように「勉強遅れるよ、学校行かなきゃ!」と叫ぶのを無視して、私は頑なに学校には向かわない。
だいたい、最近は私の体もおかしいのだ。
体力がすこしずつ落ちていることは分かっていたけれど、最近はより一層、衰えを感じている。
認めたくないのに、認めざるを得ない。
その現実を、受け入れたくない。
「……未来、学校には行ける時に行っておいた方がいいよ」
「え、死ぬから?」
「そうじゃなくて!」
「……朱音さん。クラスメイトに会いたくないから行かないってのもあるけれど、正直なところ、毎日学校まで行く気力もないかもしれない。体力がね、やっぱり落ちてると思って」
「……」
「嫌でも、死期を実感しているの」
「……っ」
朱音さんは唇を噛みしめて、何も言わないまま部屋を後にした。
実は最近、そういう人が多すぎる。
私の言葉に何も返せず、その場を去ってしまう人。
もしかしたら、私の返答が悪かったのかもしれないけれど。
「……ま、いっか」
やることがない今日は、学校の勉強をすることにした。
休み始めて今日で1週間くらい?
学年末とはいえ、そろそろ勉強に遅れが出てくる。
私は持っていた5科目の問題集を開いて、復習や予習を行うことにした。
「……」
問題集を開いて、すこし思う。
これ、どうやって解いていたのだろうか?
特に数学が酷い。覚えていたはずの公式が思い出せず、教科書を見てもなんのことかサッパリ分からない。習って理解していたはずなのに、まったく思い出せないのだ。
「……元々、知らなかったのかな」
どうだったのか、それすらも思い出せない。
そしてよぎる、〝記憶能力欠乏症〟の症状。どこからか分からないけれど、徐々になくなっていく記憶。
もしかしたら私は、記憶力にまつわる記憶からなくなって行っているのかもしれない。生活する上ではそこまで影響のないもの。だから余計に、病気が進行している実感がないとか?
「……分かんないね」
あくまで考察にすぎない。
当事者であるが医者ではないから分からないけれど、この状況、非常にまずいような気がした。確実に進行している病気。佐藤先生だけではない。私もしっかりと悪化している。
その日の昼下がり、結局どこにも出掛けず部屋に引きこもっていると、鳴り響いたノック音と共に扉が開いた。
朱音さんか夏芽さんかと思ったが、実際入ってきたのは白衣姿のナベだった。ナベは気まずそうに俯き入ってくる。そして「未来ちゃん、ごめんね」と、第一声で謝った。
「……何?」
「昨日、戸野くんが来たんだ。未来ちゃんがもう1週間学校に行っていないこと、物凄く気にしていた」
「……」
「ごめんね、ほんとうに。僕が余計なことをした」
「……まったくだよ」
まったく、その通りだ。
すべてのことの発端はナベであり、そもそもナベが戸野くんに何も話さなければ、こんなことにはなっていなかった。
「ナベのせい」
「そうだね」
「絶対に許さない」
「ごめんって」
ナベは扉の入口で深く頭を下げていた。そしてそのまま「でもどうしても、もうひとつ話を聞いて欲しい」と言葉を継ぐ。
その言葉に対して無言を貫いていると、ナベは頭を下げたまま呟き始めた。
内容は戸野くんのことだった。
戸野くんは嫌がらせでクラスメイトに話した訳ではないから許して欲しい、とナベは言う。戸野くんとしては、私に同級生と関わることを経験して欲しかったからであり、悪気はないとのことだ。
「……別に、頼んでいないし。大きなお世話だよ」
「そうだけど、未来ちゃん。どうか戸野くんを許してあげて」
「え、なんで? なんで私が許すの? ていうか戸野くん自身が謝罪に来てよ。おかしいじゃん。ナベに伝えさせるのって」
「未来ちゃん……」
「やっぱり大嫌いだわ、戸野くん」
あまりにも苛立ってしまい、窓際に寄って外を眺めた。
その間、ナベは呆然と立ち尽くしていた。
ナベ自身も許せなくて、ほんとうは会話なんてしたくなかった。
けれど、仮にも担当医だ。
だから私は、病気について聞きたかったことを聞いてみることにした。病気のことで頼れるのは、結局ナベしかいない。
「ねぇ、ナベ」
「な、何?」
「私ね、勉強ができなくなってる」
「え?」
「解けていたはずの問題が、まったく分かんない。教科書を見てもまったく思い出せないの。記憶って、こうやってなくなっていくの?」
「……」
ナベは何も言わなかった。
その代わりに背後から聞こえてきた啜り泣く声に耳を傾け、外を眺め続ける。
向かいにある東棟の建物に沿って作られている花壇には、色とりどりのチューリップが咲き誇っていた。
もう、3月。
あっという間の1年だったと、今改めて思う。
「……未来ちゃん、学校には行きなさい」
「なんで?」
「……近いうち、行きたくても行けなくなる日がくるから。絶対やってくるその日は、現状だと回避できない。未来ちゃんには、後悔して欲しくない」
その言葉に振り返り、私はやっとナベの方を向いた。鼻を啜り、漏れる嗚咽。ナベは鼻水まで垂らしながら、見たことがないくらい大泣きをしていた。
「……ナベ、汚い。そこのティッシュで拭きなよ」
「未来ちゃん、僕は君のことをずっと見てきた。お願いだから、そろそろ言うことを聞いてよ」
「イヤだ。私の言うことを聞いてくれない人はイヤ」
「……そう。なら分かった。じゃあ、僕も言わせてもらうよ。未来ちゃんがその気なら、僕はもう君に遠慮はしない」
ナベは強く机を叩いた。そして見たことのないくらい真剣な眼差しで、睨むように私を見つめる。
一瞬で空気感が変わった。さっきまでの優しそうだったオーラは消え、まるでそこには別人がいるかのよう。ナベは冷たい目をして、私のことを睨み続けていた。
「僕は医者だ。患者には、医者の言うことを聞く義務がある。病状をよりよくするため。あるいは、すこしでも長生きをするため。あるいは、余命宣告を受けた患者が、余生をよりよく過ごしてもらうため。医者である僕たちは、相手の状況を見て、様々に手を尽くす」
「……」
「ここだけの話、君が今の学校を卒業できる確率は5%を下回ったよ。それだけ悪化しているんだ。さっきの勉強の件もそう。言わなかったけど、君の記憶欠乏が始まっていたことを僕は知っていた。つまり君は、死に向かっている」
あまりにも直球な言葉に、体が勝手に震えだして止まらなくなった。ナベも強い口調でそう言いながらも、腕は驚くほど震えていた。
お互いに滲み出す涙。だけどナベは、冷たい目を止めない。
「……だから、君には年相応のことを経験して欲しかったし、自身のことだけでも大変なのに、同じ病気の患者と関わることで余計な心配を増やして欲しくなかった。その僕の想いは、一切君には届かないけどね」
「届くわけないよ。ナベだって、患者側の気持ちを分かっていないもん。言ったじゃん、友達作っても悲しくなるだけだって。だから、同級生と関わらないって」
「なら、佐藤さんとも距離を取りなよ」
「最初こそ、佐藤先生だって急に絡んできて変な人だな、くらいにしか思っていなかったよ。だけど、佐藤先生は私のことを沢山気にかけてくれた。佐藤先生は最初からずっと、私に対して優しかった。そんな彼だからこそ、同じ病気だと分かった今、それをお互いに共有したいと思うし、傍にいたいと強く願っている」
「だから……それが駄目だって」
「駄目じゃない!! 私は、佐藤先生のことが好きだから!! どうせ死ぬのなら、私は絶対に好きな人の隣にいることを選ぶ!!」
睨んでいるナベに負けないくらい睨み返して、部屋を飛び出した。「未来ちゃん!!」と大きな声で呼ばれるも、それすら無視して廊下を走ろうとする。
その瞬間、飛び出た勢いで目の前にいた人とぶつかってしまった。相手の胸にぶつかり、私は跳ね返った衝撃で尻もちを付く。「いたっ……」と呟きながら顔を歪ますと、ぶつかってしまったその人は「……森野?」と小さく呟いて、そっと手を差し出してきた。
「森野、どうした。大丈夫か?」
「せ……先生?」
ぶつかったその人は、佐藤先生だった。
悲しそうな表情で差し出されたままの手を握り、ゆっくりと立ち上がる。佐藤先生とナベと私。3人が同時に顔を合わせるのは初めてで、何故かすこしだけ緊張した。
「ご、ごめんなさい。先生こそ大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だよ」
握った手を離し、私と先生はナベの方に視線を向ける。怪訝そうな表情を浮かべていたナベは「佐藤さん、何しに来たのですか?」と冷たく言い放った。
「森野に会いに来た。それ以外、理由が必要?」
「会うな、と言っているのです」
「医者がそこまで干渉する必要ある?」
「……」
「だいたい、今日は〝森野の教師〟として来たんだ」
ほら、これ。と紙袋を差し出されて受け取る。
中には学校からのお知らせや、各科目の課題なんかが入っていた。その中にある、見慣れない形の何か。それが気になり真っ先に手に取ってみると、正方形の色紙が出てきた。その色紙にはたくさんの文字が並んでいる。
これはなんだろう。考えてもまったく理解ができなかった。
「こ、これは……」
「1年A組からだよ。戸野から預かった」
「……」
「教室に来いってよ。森野自身は知られたくなかったかも知れねぇけど、他の奴らは何も思っていないし、むしろ今まで知らなかったことを悔やんでる奴も半分くらいはいるみたいだぞ?」
そんなの嘘だ。そう思いながら、再度色紙に視線を落とす。
《病気のこと知らなかった。別に隠す必要なんてなかったのに》
《私、森野さんが読んでいた本好きなの。ずっと話し掛けたいって思っていた。よかったら教室に来て。お話したい》
《嫌がらせして、悪かった。病気、ましてや余命宣告なんて知りもせず、嫌がらせをして暴言を吐いたこと。直接謝りたい》
「……嘘だ」
「嘘じゃないと思うよ。事実確認は、この俺がしているからな」
「……」
クラスメイト39人分。一言ずつ書かれたたくさんの言葉は、すべて私に向けられていた。
佐藤先生は「あと、1年A組には、俺から何度も教育的指導を施している」とドヤ顔で呟き「担任より担任っぽいだろ?」と言って今度は微笑んだ。
一方、先生との会話を聞いていたナベは、ひとり複雑そうな表情をしていた。ナベは何も言えずに俯く。その様子に私もまた、掛ける言葉はない。
「……てか、ごめん。座ってもいいかな?」
「あ、こちらです。気が利かなくてすみません」
「いいんだ。森野が謝ることではない」
すこし辛そうに首を傾げた先生を、わかば園の共有スペースに連れて行って椅子に座ってもらった。
ふぅ……と小さく息を吐いた先生は「体育教師も、限界だな」とこれまた小さく呟く。軽く飛び出したその言葉はあまりにも重たくて、自然と気持ちが下がるような気がした。
「……佐藤さん。これ以上進行すると、入院になります。その場合、仕事は辞めていただくことになります。〝記憶能力欠乏症〟が原因での入院。それは人生の終末期を指します」
「ったく、言われなくても分かってるよ。俺、来年度からクラス担任を受け持たないことになっている。端から俺はそのつもりだ。終末期? 上等だよ」
唇を噛んで複雑そうに先生を見つめているナベと、ニヤッと口角を上げて微笑む佐藤先生。対照的なふたりを眺めていると、じわっと涙が込み上げてくるような感覚がした。
「——はいはーい、そこのお三方~。もうっ、通夜じゃないんだから。うちのテリトリー内で暗い雰囲気を醸し出さないでよ」
「……朱音さん」
ふらっと現れた朱音さんは、細くて短い花瓶を手に持っており、その中には土筆と菜の花が生けられていた。「今年は菜の花が早いんだ」と言った朱音さんに対して、ナベは「それ全部、天ぷらにしたら美味しそうですね」と雰囲気のないことを告げる。荒く花瓶を置いてナベの元に駆け寄った朱音さんは「渡邊~~~~」と唸りながらベシッと頭を叩いていた。
今の朱音さんには、朝の悲しそうな様子は見られない。だけど、無理して笑っているような様子が垣間見えて、すこしだけ複雑だ。
一方、その様子を眺めていた佐藤先生は楽しそうに微笑んでいた。
最近あまり見なくなった無邪気な笑顔を見せながら、「土筆の天ぷらいいなぁ」と呑気に呟き花瓶に手を伸ばしている。やはりその笑顔が眩しくて、素敵で、嬉しくて。私は涙が滲むのを抑えることができなかった。
しばらく4人で雑談をした後、ナベは「この後診察がある」と一言告げて去って行った。朱音さんも業務があるからと、ナースステーションに戻って行った。
そして残された私と先生は、そのタイミングで一緒に外に出ることにした。
先生と手を繋ぎ、ゆっくりと廊下を歩く。
静かに流れる空気に安心感を覚えつつ、やはり冷たい先生の手にすこしの悲しみも覚える。
「ていうか、先生。今日はどうしてここに? まだこの時間、学校終わっていませんよ」
「……うん。やっぱり体調が悪いからさ。早退させてもらったんだ」
「なら、早く家に帰って休まないと……」
「……なぁ、俺さ。学校に来る気配のない、未来に会いたくて来たんだけど」
「え?」
「ほんとうに帰った方がいい?」
未来って……。
初めて呼ばれた名前に心臓が飛び跳ねた。
今私が出せる全力で首を振り、隣の先生を見上げる。いつものように意地の悪そうな笑みを浮かべている先生は「未来に会いに来た」と、再度同じ台詞を零す。
「……帰って欲しくないですよ。私、先生が来てくれて嬉しかったし、一緒に過ごしたいです」
「そう、よかった」
わかば園の玄関から外に出て、病院の敷地内を宛もなく歩き続けた。とはいえ、既に体力がない私たちは、ベンチを見つけては座って休んでを繰り返し、ゆっくりと散歩をした。
途中、芝生エリアに生えていた菜の花が目についた。
背丈を伸ばし風に揺れている菜の花だが、今年の開花はほんとうに早い。去年はスポーツテストの時期に咲いていたことを先生に話すと「よくそんなこと覚えているな」と驚かれた。
菜の花に近付き屈んで花を眺めていると、その付近で密かに生えている土筆も視界に入る。先生に向かって「天ぷら」と土筆を指差しながら一言呟くと、「天ぷら、食べたい」と微笑み、優しく頭を撫でてくれた。
1年生最終日。
佐藤先生からもらった色紙を信じて、私は久しぶりに教室へ向かった。あまりにも足取りが重くて、辛いという感情の方が大きかったりして。
結局色紙をもらってから今日まで、学校には一切近寄りもしなかった。なんだかんだ理由を付けて距離を置いた、面倒臭がり屋な私だ。
一方の佐藤先生は、今も体調に波があるようで、休みや早退を繰り返していたらしい。
そして早退した日は必ず、わかば園まで来てくれていた。
「っあ、森野!!」
教室に入って第一声、私の名を呼ぶ戸野くんの叫び声が飛んできた。その声に釣られてクラスメイト全員がこちらを向く。そして「森野さん、やっと来た……」などと、みんなが嬉しそうに声を上げたのだ。
「……え?」
「森野、みんな待ってたんだよ」
「みんなが?」
「そう。みんな、君を待っていた」
自分の席に向かい鞄を置くと、ゾロゾロとクラスメイトたちが集まって来た。初めての状況に戸惑いながらも対応していると、その様子を戸野くんが嬉しそうに見つめる。
意外にも私なんかと話したい人がいたらしい。私にいじめをしていた集団は近寄って来なかったけれど、遠くから静かに様子を眺めていた。
クラスメイトに囲まれながら修了式に参加し、その後のホームルームが終わってからも囲まれ続けた。
戸野くんから私の病気のことを聞いたってだけで、ここまで変わることもあるかと疑問に思っていた。
しかし、その疑問は直ぐに払拭される。どうやら1年間、私がクラスメイトと一切関わって来なかったことが原因らしい。関わらないからこそレア感が増す。つまり関わらないからこそ、1年A組の中でレアキャラになっていたとのことだ。
それにプラスして、同情という名の感情。こちらはあまりいいものではないが、誰しも『病気』『余命』と聞けば、『可哀想』という思いが発動するものだ。それが原動力となり話してくれた人もいるみたいだった。
***
放課後、疲労困憊となってしまった私は、帰る前に教室で休憩していた。たくさんのクラスメイトと会話をできたのはよかったけれど、病気が進行中の私にとっては少々辛いものだった。
机にうつ伏せて休んでいると、ゆっくりと教室の扉が開く。
そしてふたりがそっと入ってきた。
「森野」
「佐藤先生……と、戸野くん」
静かな教室に現れたのは、佐藤先生と戸野くんだった。
珍しい組み合わせに首を傾げていると、戸野くんは私の隣に座り、先生は私の後ろにゆっくりと座る。
窓の外から聞こえてくる生徒の声。そちらの方に寂しそうな視線を向ける先生と、真っすぐ優しそうな瞳で私を見つめてくる戸野くん。黙ったままのふたりは、特に何かを言うわけではなかった。
「……森野。色々とほんとうに申し訳なかった。陸也くんに頼まれたとは言え、森野の気持ちも考えずに勝手なことして、ほんとうに申し訳なかったと思っている」
「まったくだよ」
戸野くんは何度もごめんなさい、と呟き深く頭を下げる。それを横目に、私も佐藤先生と同じように窓の外を眺めた。
静かに謝罪を繰り返す戸野くんの声に耳を傾けながら、楽しそうな生徒たちに目をやる。キャッキャと男女が騒いでいる様子に、私にはない青春を感じた。
「僕が1年A組のみんなに森野の病気を話した理由は、陸也くんの願いと同じ。どうにかしてでも、僕は森野に同級生と関わりを持って欲しかった。だけど最初クラスで話した時、酷く驚かれたし……だいたい、森野いじめられていただろ。だから正直な話、異常なまでに雰囲気が悪くなった」
「……でしょうね」
戸野くんの言葉に、ずっと黙っていた先生が口を開いた。
ボソッと「結局、なんでいじめられていたのか、聞いてないな……」と呟いていたが、私はその言葉が聞こえなかったフリをした。
窓の外では楽しそうな生徒の横で、鳥たちが追いかけっこをしている。妙にその様子が気になり、ジーっと見つめる。すると、同じように鳥を眺めていた先生は「俺も鳥になりたい……」とまたボソッと呟き、頬杖をついていた。
「……僕では改善できなくて、中途半端にクラスの空気と森野の印象を悪くしてしまっただけだった。自分がどうしようもなくなってしまった時、助けてくれたのが、佐藤先生だった」
「……え?」
先生は頬杖をついたまま外を眺め続ける。
まだ鳥を見つめがら「戸野の為じゃないよ。森野の為だから」と呟き、今度は机に顔を伏せた。
先生の顔が青白い。どう見ても調子が悪そうな先生に、すこしだけ焦りを覚える。
「俺は結局、森野がいじめられていた原因を知らない。だけど、戸野が悪くした空気をよくすることはできる。担任ではないけれど、教育的指導を何度も繰り返してきたクラスだ。俺の手にかかれば、難しいことなど何もない」
言葉は自信に満ち溢れていたが、声色は弱々しかった。ニコッと力なく微笑んでいる先生に「流石ですね」と言葉を掛けると「当たり前だ」とまた声を出し、小さくガッツポーズをした。
「僕はたくさんの人を巻き込んで困らせただけだった。陸也くんの頼みを完遂させたいとか、兄の無念を晴らせたいとか、いろんなことを考えたゆえの行動だった。けれど結局、僕はいろんな人を困らせて、特に森野については酷く苦しめた。僕は馬鹿だ。ほんとうに、ごめんなさい」
戸野くんは私に向かって深く頭を下げる。
私は視線を窓から戸野くんに移し、その姿を眺めた。
戸野くんのやったことは確かに間違っていた。けれど正直なところ、あの色紙は嬉しかったし、今日のクラスメイトの様子も嬉しかった。こんなにも同級生と会話をしたのは初めてだったし、自分が改めて高校生であり『1年A組に所属している生徒』であることを、最終日である今日、ちゃんと実感することができた。
ここに至るまでの過程は最悪だったけど、私は戸野くんのことを、これ以上責めようとは思わない。
「戸野くん、謝らないでよ。私が惨めに思えるじゃない」
「……森野」
「でも、結果的にはよかったんじゃないかな。とはいえ、戸野くんもナベも、ふたりのことは一生許さないけど」
「……」
「なーんてね」
そう言って誤魔化し「ふふーん」と軽く微笑んでみたが、顔を上げた戸野くんは嗚咽を漏らしながら泣いていた。
徐々に日が落ち、薄暗くなる教室。
うつ伏せたままの先生は「戸野、遅くなる。もう帰れ」と小さく呟いていた。
「……ていうか、先生。僕は兄貴を見ていたから分かります。佐藤先生、ほんとうにまずいですよ」
「なにが?」
「とぼけないでください。病気のことですよ。このままでは先生は……!!」
「まずとかどーとか言うけど、どうせ死ぬしか未来はないんだ。だいたいな、まずいのは当事者である俺がいちばん分かってるっつーの。バーカ」
〝記憶能力欠乏症〟の後天性である佐藤先生は、やはり先天性の私とは比べ物にならないくらい、病気の進行が早かった。
先生は私に会いに来てくれるたびに、すこしずつ弱っていた。
このままでは新年度を迎えられないかも、なんて笑っていたけれど。それが現実になりそうで非常に怖い。
私も先生と同じペースで病気が進行すればいいのに。私の病気も間違いなく進行しているけれど、先生とは比べ物にならない。それが物凄くもどかしかった。
「戸野……とにかく帰れよ。森野にちゃんと説明したんだから。もういいだろ」
「帰るのは先生の方です。僕は森野と帰ります」
「バーカ。森野は俺が送るんだ。お前はさっさとひとりで帰れ」
「そんな青白い人が何を言っているのですか。先生は無理です。森野を送れません」
「残念だな、戸野。こちらは車なものでね。お前には絶対に負けんぞ」
まるで玩具でも取り合う子供かのようなやり取りが、目の前で繰り広げられる。
その様子を呆然と眺めていると、なんだか笑いが零れた。
「……戸野くん、先生と話すことがあるんだ。私、先生と帰る」
「僕、振られたってこと?」
「うん。バイバイ、戸野くん」
なんの躊躇いもなく手を振り、戸野くんに別れを告げる。彼は物凄く不満そうだったが、私と先生の意思を汲んでひとりで帰ってくれた。
教室に先生とふたりきり。
椅子を先生の方へ引き寄せて座り、そっと頬を寄せた。
呼吸音が聞こえるほどの至近距離で顔を覗き込み、優しく頬に自身の唇を重ねる。音を立てないように離れて再び顔を覗き込むと、嬉しそうに微笑んでいた先生は「幸せ」と呟いてニコッとさらに口角を上げた。
「……未来」
「……先生、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。めちゃくちゃ元気が出た」
ゆっくりと体を起こした先生の顔色は、やはり青白かった。だけどしっかりと微笑み、「まだ死なんぞ!」と小さく声を上げた。
暗くなってしまった教室に差す僅かな光。それだけを頼りに教室から出て、先生は職員室に荷物を取りに行った。
そこから移動する際、手摺りを握りながらも時折バランスを崩す先生が心配だった。
佐藤先生はどうしようもないくらいに弱っている。大丈夫だと言う言葉とは裏腹に、身体は限界に近そう。
***
「……しかし、未来は強いね」
「唐突になんですか?」
「いや、どうしても伝えたくなった。あんなに同級生とは関わらないって言っていたのに、きちんと受け入れて凄い」
「……強いのは、先生です。ていうか、先生のお陰で穏便に済みました。ほんとうにありがとうございます」
「俺は何もしていないよ。未来の努力だよ」
「違いますよ。先生ったら、変です」
先生の車に乗り込んですぐ、シートベルトを嵌めた先生はそう呟く。ふぅ……と溜息を吐き「行くね」と声を発した先生は、すこしだけ口角を上げて微笑んでいた。
外はすっかり暗くなっていた。
窓の外に見える真っ暗闇に目を向けると、ちょうど校門の辺りに咲いている桜が視界に入る。
この前の菜の花もそうだったが、今年は花の開花が早い。そう思ったのは佐藤先生も同じだったようで、「森野が筋トレできずに怒り狂った去年の4月。あの日も、桜が咲いていた」と言った。
「……私、怒り狂っていませんよ」
「でも、あの時がいちばん最初だったな。ふたりで見つめた中途半端な桜。今の桜を見ても、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってくる。いつ消えるか分からない記憶なのに、俺の中で大切な記憶として今でも綺麗に色づいているんだ」
「……先生。今度、桜を見に行きましょう」
「桜、見に行く?」
「はい。先生と一緒に桜が見たいです」
先生の方は向かずに窓の外を向いたまま、そう言葉を投げかける。運転中の先生は「ふふっ」と軽く笑い声を上げて「いいね、絶対行こう」とまた明るく答えてくれた。
他愛のない話をしながらも、先生はやはり辛そうだった。
青白さは変わらないままの顔で運転をし続け、どうにか川内総合病院に辿り着く。そして外来駐車場に入って車を停めた先生は「……未来、着いたよ」と一言呟いたのを最後に、そのまま意識がなくなってしまった。
「えっ、先生?」
「……」
「先生!?」
真っ先に心音を確認するも、音は変わらず聞こえ続けていた。それにひとまず安心しつつ、今度は軽く体を叩いてみる。それでも佐藤先生は目を覚ます気配がなかった。
「……う、嘘でしょ」
私は急いで車から飛び降り、わかば園の玄関に向かった。
私自身も体力が低下しているが、そんなことは気にしていられない。今の私が出せる精一杯の力を振り絞ってナースステーションに向かい、朱音さんを呼んだ。
「朱音さん、朱音さん!」
「未来、おかえり」
「おかえりじゃない!! ねぇ、朱音さん! 助けて!!」
「どうしたの!?」
全力で朱音さんを外に呼び、佐藤先生の車まで連れて行く。そして、今も変わらず意識がない佐藤先生を見てもらうと、スマホを取り出してどこかに電話を掛けた。
「……あ、渡邊? 至急、大至急でわかば園付近の外来駐車場まで。君の患者がピンチだ」
それだけを告げた朱音さんは、今度は急いで座席の背もたれを倒して先生の体を横にした。楽な体勢を取らせる。何が原因であっても、それがコツなのだと朱音さんは教えてくれた。
焦っている私の横で、朱音さんはとにかく冷静だった。
聞いた話によると、前までは看護師をしていたらしい。今でこそわかば園の受付担当というイメージが強いが、かつては病院の入院病棟で働いていたみたい。
その頃の記憶と知識が役に立っているんだ、と微笑みながら流れる汗を拭っていた。
しばらくすると、ナベが飛んでくるようにやってきた。
いつもの白衣を適当に羽織っただけのナベは、佐藤先生の様子を見て一瞬で表情を曇らせた。そして「急いで処置をする必要がある」と呟くと、脳神経内科の看護師に連絡をしてストレッチャー持ってくるよう指示を出す。
男性数人で車の中から佐藤先生を運び出して、持ってきたストレッチャーに乗せる。そうして向かう先は、病院側の救急だ。
「ねぇナベっ、先生は大丈夫!?」
「今はまだ分かんない。未来ちゃんはわかば園に戻ること。明日以降、容体については教えるから」
「ナベっ……」
「……けれど、佐藤さんはそんなにヤワじゃないでしょ。未来ちゃんがいちばん分かっているでしょ」
カラカラと音を立てながらストレッチャーが移動していく。その上に乗っている佐藤先生と、隣で走っているナベを見送ると、そっと朱音さんが私の肩を叩いた。そして何も言わず、ただただ遠くなるナベたちを眺めながら「今日のところは、部屋に帰ろう」と小さく呟いたのだった。
その日の夜、私はあまりにも眠れなかった。
意識をなくした佐藤先生の様子が衝撃で、不安で、怖くて。できればもう二度とその様子は見たくないんだと、素直に思った。
「……とかいう私も、いつそうなるか分からないけどね」
結局、私も佐藤先生と同じ病気なのだ。
私自身だって、いつ急に意識がなくなるのかわからない。
生と死。私と佐藤先生。色々なことを想像し、勝手にモヤモヤしながら静かに布団の中に潜り込んだ。
「私……いつ悪化するのかな?」
先に病気を抱えていた私の方が軽いなんて、やはり理解できない。とはいえ、それがまた現実であり避けられない。私も佐藤先生と同じように病気が進行すればいいのに……そう考えるとやるせない気持ちになってしまう。
***
翌日、ナベに呼ばれて病院側に向かった。
東棟の6階、625号室。
ここが佐藤先生の病室らしい。
【脳神経内科 佐藤未来】と書かれている部屋の前に立ち、小さく深呼吸をする。
扉の取っ手を掴むも、開く勇気が出ない。意識がなかったらどうしよう。病気がさらに悪化していたらどうしよう。
考えても仕方ないことを永遠と考え立ち尽くしていると、背後から声がかかった。
「未来?」
「……え、せ……先生!?」
「未来~!! 元気か、おはよう!」
「お、おはようございます!?」
振り向くと、薄い青色の病院着を着ている佐藤先生が立っていた。無邪気な笑顔を浮かべて「朝早いな!」と声を上げた先生は、ゆっくりと扉を開いて「まぁ、入れば?」と私の肩を叩いた。
「……ていうか、え?」
私の想像を遥かに超える先生の姿に驚いた。
昨日の苦しそうで辛そうだった先生はどこへ行ったのか。青白かった肌にも血色が戻っており、ほのかに頬が赤らんでいた。
昨日は夢だったのか。そう思うくらい、先生は生き生きとしてきた。
「未来、座りなよ」
「……先生、元気になったのですか?」
「俺はいつも元気だよ。っていうかさ、さっきから気になっているんだけどさ」
「ん?」
「俺のことを〝先生〟って呼ぶの、なんで? 俺、何者?」
「……え?」
記憶欠乏……その言葉が真っ先に思い浮かんだ。それと同時に、無邪気な笑顔の先生の様子に涙が滲む。私のことは覚えているようだけど、教師だった自分自身のことは忘れているような様子だった。
体が震えるのを抑えられない。小刻みに震える手を握りしめていると、不思議そうな表情をした先生が首を傾げながら私の元に近付いて来た。
「未来? どうしたの?」
「あっ……いや」
溢れるように涙が零れた。元気いっぱいの先生の様子が嬉しい反面、昨日とはまるで違う状況が猛烈に悲しい。「未来?」と優しく名前を呼んでくれる先生だったが、先生と私がどこで出会ったのか、それは分からないみたいだった。教師という仕事に紐づく記憶の殆どがなくなっているのかもしれない。
先生と雑談をしていると、様子を見に来たというナベが部屋に入ってきた。「渡邊先生、おはようございます」と佐藤先生は姿勢よく頭を下げた。容体を確認したナベは「体は昨日よりマシだね」と小さく呟く。
ナベによると、やはり〝記憶能力欠乏症〟の悪化らしい。
昨日意識が消失したことが原因となり、佐藤先生の中にあった記憶が一気に欠乏していった。
両親のこと。友達のこと。
学校のこと。同僚、上司のこと。生徒たちのこと。
そして、ナベのことも。
佐藤先生の場合、とにかく人のことを忘れていたみたい。
意識が戻った時の第一声が「未来……未来、どこ!?」だったみたいで、それを聞いて記憶は大丈夫かと安心したのも束の間。私以外の人のことが一切分からなかったのだ。
たくさんの人を忘れているのに、佐藤先生の中に唯一残る私の存在。それが今後のキーポイントとなるはずだと呟いたナベは、なぜかすこしだけ複雑そうだった。
「佐藤さん、今日は昼から脳の検査をしますから」
「分かりました」
佐藤先生はすっかりナベに対して丸くなった。
ペコッと頭を下げる様子が新鮮だったけれど、それ以上に悲しさが勝る。
その後、ナベは佐藤先生に関する現状を教えてくれた。
今の先生は〝記憶能力欠乏症〟の症状を抑える薬を飲んでいるらしい。この薬は身体的な体調不良を改善するものであって、病気の進行を止めるとか、記憶欠乏を改善するとか、そう言った効能は一切ない。
失った記憶を取り戻すことはできないし、体力の低下も抑えられない。けれど、薬さえ飲んでおけば、最低限元気よく過ごせるはずだと、ナベは呟くように言った。
「――じゃあ、佐藤さん。お昼過ぎにまた来ますから。ここでゆっくり過ごしておいてください。未来ちゃんも、お昼ご飯が配膳されるまでに、わかば園に戻ってね」
「……はーい」
小さく頷き、ナベは足早に去っていく。
急に訪れた静けさの中、先生と私はふたりで椅子に座って窓の外を眺めた。
雲ひとつない青空。名前の分からない鳥が飛び交う様子を黙って眺めていると「……違和感なんだ」と、先生は突然呟いてそのまま顔を伏せた。
「未来。俺さ、ほんとうに違和感なんだよ。さっき渡邊先生も言っていたけれど、俺は未来とどうやって出会ったのか、今まで何をして過ごしていたのか。正直な話、ここ20数年の記憶が一切ない。ていうか、俺っていったい何歳だっけ。それすら、分からない」
先ほどまで笑顔だったのに、先生は急に真顔になり頭を抱える。
椅子から立ち上がった私は、先生の背後に回ってそっと抱きしめる。そうして不安そうな様子の先生の腕を優しく撫でながら「……大丈夫です。大丈夫」と、一切根拠のない言葉を繰り返し先生に聞かせた。
「そういえば、これ」
「……ん?」
佐藤先生が入院して1か月が経ち、カレンダーは4月になっていた。
学校は新年度が始まり、私は無事2年生に進級できた。所属は2年A組らしい。だけど体力が落ちて歩く際に杖が必要になった私は、毎日通うことが現実的に不可能となってしまったため、大人しく学校を休学していた。
一方の佐藤先生だが、こちらは当然失われた記憶が戻ってきていない。
自分が教師だったという事実すら覚えていないため、学校は佐藤先生を休職扱いにしたらしい。学校の関係者とやり取りをした、ナベからの情報だ。
私は佐藤先生のことを何も知らなかったが、ご両親は既に他界しており、先生自身はひとりっ子とのこと。
身内に頼れる人がいない。何をするにも壁があるんだと、ナベは非常に頭を悩ませていた。
私は先生と一緒に死ぬと決めていたのに、あまりにも先生のことを知らなかった。ナベから聞く先生の話に、驚かされることが非常に多かった。
「……みきさん、これは?」
〝先生ではないから先生と呼ばないで〟
そう言った先生——、みきさんの意思を汲んで、最近は名前で呼んでいる。
「……それ、〝森野未来様〟って書かれた手紙だよ。これを俺が書いた記憶はないけど、どう見ても俺の字だし。なにより、きちんと未来に渡さなければいけないと思った」
私の手に収まる1通の手紙。桜の花びらがデザインされた、淡いピンク色の封筒をみきさんから渡されたのだった。
お世辞にも綺麗とは言えない文字が並ぶ。だけど、書かれた私の名前から伝わってくる一生懸命さが、〝これが何か〟を伝えてくれているような気がした。
「……実は、私も」
「え?」
私もポケットに手を入れ、ずっと持っていた手紙を取り出し、みきさんに渡した。
〝佐藤未来様〟
この手紙自体は、みきさんの病状が悪化する前に書いたものだ。
いつ渡そうか、ずっと悩んでいた。今のみきさんにはこれまでの記憶がない。だから余計に、渡すことを躊躇っていた。
それでも、今このタイミングで渡せたことに喜びを感じる。そんなの、私のエゴなのに。
一方、受け取ってくれたみきさんは、不思議そうに首を傾げていた。
「……今、読んでもいいの?」
「駄目です。できれば私が死んだ後に読んでください」
「え、未来は死なないよ」
「……」
「死ぬのは、俺だけで十分だろ」
とはいえ——……そう言ってみきさん手紙をポケットにしまった。そして「俺がいよいよヤバそうになったら読むわ」と呟きながら微笑んでいた。
私の手元にある、みきさんから受け取った手紙。
私も今読みたい衝動に駆られるのを抑えて、同じようにポケットにしまいこんだ。
みきさんも歩行の際は杖を使っていた。
お互いに「本当に歩けなくなる日が来るまで、車椅子には絶対乗らない」と強気な宣言をしている。別に打ち合わせたわけではないけれど、ふたりがそれぞれの診察で同じことを言ったみたい。それをナベは苦笑いしながら教えてくれた。
春の爽やかな風が吹き抜けていく。
川内総合病院の東棟は、屋上が憩いスペースとして開放されている。
私とみきさんはその屋上のベンチに座り毎日雑談する。それが私たちの日課となっていた。
みきさんは、ほんとうに何も覚えていない。
高校でのこと、何ひとつ覚えていない。その事実が、あまりにも悲しかった。
「最近、渡邊先生に漫画を借りたんだ。これがね、面白いんだわ」
「なんの漫画ですか?」
「『転生したらアリだったんですけど!?』って漫画だよ。転生って、凄いよね。アリはちょっと微妙だけどさ、俺も余命のない体に転生したいなって思った」
「みきさん……」
「未来は何に転生したい?」
「……私は」
——私は、みきさんとまた出会えるなら、なんでもいい。できれば、健康な体で。歳を取ってもずっと一緒に過ごせるような、幸せな……。
「……」
喉まで出てきたその言葉は飲み込んで、空を見上げた。滲んだ涙を見られないように軽く拭い、小さく唇を噛みしめる。
「……」
「未来?」
「ふふーん。私は、アリかな!」
「え、アリなの!? ちょ、ならこの漫画を絶対に読んだ方がいいよ! 人生観変わるから!」
楽しそうなみきさんの様子に涙が滲んだ。「みきさんもアリに転生しましょ」と呟くと「未来が言うなら……」と、真剣な表情で考え始めた。
実際、転生先はアリでもなんでも良い。
私とみきさんが楽しく元気よく、長生きできる世界線。そのような理想的な世界であれば、私は何になったっていい。
いつか訪れたらいいのに。
ひとりでそう願いながら、私はまた空を見上げた。
***
その日の夜。
わかば園の自室に来客が訪れた。
朱音さんと夏芽さんのふたりが来たから、何事かと思い急いで横たわっていた体を起こした。すると朱音さんが深刻そうな表情で「……未来、ごめん」と一言呟いたのだ。
その言葉が理解出来なくて首を傾げると、ふたりの後ろから中年の男女が現れた。その男女は「み……未来……」と涙を流しながら言葉を発して、飛ぶように部屋に入ってくる。
「み、未来。 ごめん、ごめんね!!」
「げ……元気か? 未来、未来!」
「……?」
私の目の前で、男女ふたりが大号泣をしていた。その後ろで同じように涙を流している朱音さんと夏芽さん。状況がまったく理解できなくて、つい体が固まってしまう。
「未来……朱音さんから聞いたよ。杖がないと歩けなくなったって。ほんとうにごめん。ほんとうはこうなる前に会って、どこかに出掛けたりしなければならなかった……!」
「悪いことをしたと思っているの。でも、未来に余命宣告されたことが、悲しくて……辛くて。未来がいちばん辛いってこと、分かっていたのに! 現実を直視したくなくて未来から目を逸らしていた。今さら何を言っても遅いけれど、ほんとうにごめんなさい!」
「……」
意味が分からなくて、首を傾げながら朱音さんに視線を送る。「未来、どうした?」と聞いてくれた朱音さんに向かって小さく頷いて「……この方たち、どなた?」と呟くと、絶望にも似た泣き叫ぶ声が私の部屋に響き渡った。
朱音さんによると、このふたりは私の『両親』らしい。だけど、その一切が分からない。急に両親だと言われても理解もできないし、意味も分からない。
夏芽さんが「記憶の欠乏……」と呟くと、さらに大きく泣き叫ぶ声が響く。
「だ……だから、未来の記憶がなくなってからでは遅いと、あれほど言っただろうが!! もう何もかも手遅れじゃないかよ!! どうしてくれるんだ!!」
「そう言うけれど!! あなただって、これまで一言も『会いに行こう』とは言わなかったじゃない!! 私だけに責任を押し付けて、自分だけを正当化させようとしないで!!」
女性は手に持っていた花束を投げ捨て、部屋を飛び出して行った。そして、それを男性と朱音さんのふたりが追いかけていく。
3人が飛び出して行った後の部屋には、静けさが訪れた。残された夏芽さんは「……未来ちゃんのせいではないから」と一言呟いて、優しく私を抱きしめてくれた。
気が付かないところで進行している記憶の欠乏。
分かっているのに、いざ現実となると悲しみを覚える。
投げられた花束に視線を向ける。
私が昔から大好きだったピンクや赤色の花に、可愛いリボンがあしらわれていた。
誰にも話したことがない、私の好きな色。
その現実があまりにも虚しくて。寂しくて。
だけど不思議と切なくて、複雑で、どうしようもなかった。
「……」
優しく匂う、新緑の風。
みきさんとふたり、屋上のベンチに座り体を寄せ合う。
何度か、みきさんの元を学校の先生が訪ねて来た。
校長先生も、教頭先生も。いろんな人が来たけれど、みきさんは誰ひとりとして覚えていなかった。
もう、復職は難しい。
それが学校の見解だった。
「…… 未来」
「どうしました?」
「向日葵って、開花してからの寿命は1週間らしいよ」
「……えっ?」
「って、ふと思い出した。なんか昔、未来と話したことがあった気がして」
「……」
向日葵が咲く時期にはまだ早い。
それなのに、なんの前触れもなく出てきた単語に驚いた。
干乾びそうなほどに暑かった、あの夏の日。
〝佐藤先生〟と一緒に食べた、ラムネ味のアイスクリーム。
夏休みの補習のこと、今のみきさんは間違いなく覚えていない。その事実にまた悲しさを覚え、涙がすこしだけ滲んだ。だけど、私の記憶が欠乏していないことが救いだった。今もまだ鮮明に残る〝佐藤先生〟との記憶。
絶対に失くしたくない、大切な……大切な記憶だ。
「ねぇ、未来」
「どうしましたか、みきさん」
「……未来」
「……」
頬を摺り寄せ、甘えるような仕草をする。
今のみきさんは、元々筋肉質だったと言われても誰も信じてはくれないほどに筋肉は落ち、痩せ細ってしまっている。
高校のグラウンドで大きな声を張り上げて、寒くても半袖Tシャツにハーフパンツ姿で走り回っていた〝佐藤先生〟は、もうどこにもいない。
「——時間の問題だね」
「……え?」
静かに開いた屋上の扉から現れたのは、まさかの戸野くんだった。
久しぶりに姿を現した制服姿の戸野くんは、静かに歩みを進めて、私たちの方に近づいてくる。
「佐藤先生、もうじきだね。もう、長くない」
「……な、何よ突然。だいたい、どうしてここが分かったの!?」
「陸也くんから聞いた。ふたりはいつもここにいるって」
「……」
「ねぇ、森野。佐藤先生が死んだらさ、僕と付き合わない?」
「……は?」
「〝同じ病気にかかる当事者〟同士だ。お互い分かり合えることもあるだろう。何より僕は、ずっと前から君のことが好きだから」
戸野くんの言っていることが、何ひとつとして理解ができなかった。
意味不明な戸野くんは、こちらに向かって歩きながら目元を赤く染めている。泣いていたのか、頬には涙の跡が一筋ほど付いている。
「……意味が分からないよ。佐藤先生は死なない。戸野くんとは、付き合わない」
「どうして?」
「私は、佐藤先生のことが好きだから」
「そんなにも弱っているのに?」
「……分かった。言い方を変える。私は戸野くんのことが好きではない。だから、付き合わない」
「……」
「先生がどうとか関係ないよ。そもそも私、戸野くんに好かれるようなことをした記憶はないから」
悲しそうに顔を歪ませた戸野くんは、その場に鞄を置いてさらに近づいてくる。赤くなった目から涙を零し、拭うこともせずポタポタと床に零し続けていた。
「絶対に、付き合わない?」
「……うん、絶対。私はずっと、先生と一緒いる。そう決めているから」
「……っ」
戸野くんは嗚咽を漏らしながら急に走り出した。
私とみきさんが座っているベンチを通り過ぎ、屋上を囲っているフェンスに向かう。そしてそのフェンスを登り跨いだ戸野くんは、あと一歩で落ちてしまう——、そのような危険な場所で立ち止まった。
「と、戸野くん!?」
杖を手に取り、力の入らない体に喝を入れて戸野くんの元へ向かう。みきさんも驚いたような表情で杖を手に取り、同じく戸野くんの方に向かった。
「……森野。僕ね、陸也くんの診察を受けてきたところなんだ」
「え?」
「……僕も、後天性の〝記憶能力欠乏症〟らしい。知らなかったんだけどね、兄弟にひとりでも患者がいたら、発症する確率が急激に上がるらしいよ」
「……」
「遺伝子には逆らえない。まだ僕、16歳なのにね。兄貴よりも遥かに早い発症に……正直、気が狂いそうだよ」
突風が屋上を吹き抜けていく。
体力のない私とみきさんは、ふたりしてよろけながら歩みを進めた。一方の戸野くんは、フェンスに手を掛けたまま私たちの方をジッと見つめて言葉を継ぐ。
戸野くんは先程、ナベによって余命宣告をされたらしい。心のどこかで、〝自分は大丈夫〟と高を括っていたそうで、突然の宣告に理解が追いついていないみたい。
——どうせ、死ぬのなら。
私の知らないところで、私に想いを寄せていたという戸野くんは、人生後悔しないよう、私に告白をするという選択をしたとのことだった。
そして、たった今、振られた。
楽しみも希望も何もかも見出せないから、今ここで死んでやる。
それが、戸野くんの言い分だった。
病院の屋上のくせに、どうしてこんなにもフェンスが低いのか。簡単に乗り越えられる高さのフェンスに対して、初めて怒りすら覚える。
「ねぇ待って、待って!! い、意味分かんない!! その流れはほんとうに意味分かんないって!!
私は叫んだ勢いでまたよろけてしまい、その場に倒れてしまった。それでも、床に這いつくばりながら戸野くんの元へ向かい、こちら側に戻って来るよう叫び続ける。
「戸野くん、お願い。早まったら駄目だって! こっちに戻っておいでよ!! どうして、どうしてそうなるの!?」
普段は他の人もいるというのに、こういうときに限って私とみきさんしかいない。
体力がない私たち。みきさんは戸野くんが誰なのか分かっていなかったけれど、その行動に危険を感じてフェンスに向かっていた。
「森野、好きだよ」
「やめて!」
「森野、君と出会えて良かった」
「戸野くん!!」
ありったけの力を振り絞り、フェンスに飛び込んだ。
もう、夢中だった。
戸野くんの腕を掴むため、全力で力を振り絞る。
どこから出てきたのか分からない私自身の力でフェンスを乗り越えて、既に足を踏み外していた戸野くんの腕を掴んだ。
「森野、離せ!!」
「み……みきさーーんっ!!」
「未来っ!!
叫び、嘆き、騒ぐ。
左手で戸野くんを掴み、右手でフェンスを握るも、当然だが私にはもう限界だった。
唇を噛みしめ、口内に血の味が広がる。隣に現れたみきさんもまた、同じように戸野くんの腕を掴み、必死に唇を噛みしめていた。
「……バカ……バーカ!!」
「み、みきさん!!」
「佐藤……離せよ!!」
「離さない!!」
みきさんと一緒に私もありったけの力を振り絞り、ふたりで戸野くんを上に引き上げた。
そして、それと引き換えに私とみきさんは下へ落ちて行く。
終わった……。
遠くなる戸野くんの姿を見ながら、冷静にそう思った。
「——あのなぁ、お前が誰だか知らねぇけどなぁ。命を粗雑に扱おうとする奴が、この世でいちばん大っ嫌いなんだよ!!」
みきさんは最期の力を振り絞り、まるで捨て台詞かのような言葉を吐き出した。距離が遠くなる戸野くんは、フェンスを握ったままこちらに向かって叫んでいる。
「さと……森野ぉぉぉぉ!!」
落下していく最中、みきさんと顔を見合った。
みきさんは、青白い顔で口から血を流している。それなのに、清々しいほど素敵な笑顔を浮かべていた。
「未来、愛してる——」
みきさんの呟きが耳に入ると同時に、これまでの人生で味わったことない強烈な痛みが私を襲う。
痛い——、その一言では表せないくらい、痛い。
みきさんは、腕を伸ばせば届く位置にいた。
私は限界を遥かに超えた身体に喝を入れ、すこしずつ移動する。そして、みきさんの胸に自身の耳を近づけた。
もう、みきさんはピクリともしない。
そして私はもう、彼の名前を呼ぶ気力もない。
だれど、今にも消えそうな命の灯火を、どうしてもこの目で見届けたかった。
「こっちっ!! こっち!!」
「誰か、医者を呼べ!! 早く、早く!!」
続々と人が集まる。
段々と私たちの周り騒がしくなる。
喧騒が響き渡る。
だけどそれらはもう、ここではないどこか。
遥か遠い場所から、聞こえてくるような気がした——……。
拝啓 森野 未来様
記憶がなくなってからでは、何もかも遅い。
だから、俺の記憶がまだあるうちに、この手紙を書き記しておきます。
森野は最初、変わった子だなと思っていました。クラスメイトと打ち解けずにひとりぼっち。どうしてなのだろうかと考えていた矢先に、運動が苦手なことが発覚しました。
あの頃から余命宣告されていたと知っていれば、俺も森野に対する思いが違ったかもしれない。無理して運動をさせてしまってごめんなさい。だけど、こうやって謝ると「惨めに思える」と言って怒られるのでしょうね。
今となっては、あの頃の森野が懐かしいです。
俺が記憶能力欠乏症だと診断される前、その疑惑があるということを、真っ先に森野に話したいと思いました。病気の共有というわけではないけれど、ひとりよりはふたりだという思いからです。
なのに、いざ言おうとすると、言えませんでした。あまりにも勇気が必要で、伝えることが怖くて。結局、診断が下されてからとなりました。意外と弱虫な俺です。
あの日のポインセチアの赤が今でも脳裏に焼き付き、その時の森野の様子も芋ずる式に蘇ります。この記憶もなくなってしまうことに悲しみを覚えますが、ここに書いておけば、例え記憶がなくなったとしても永遠に残る。そう思える気がしています。
森野は、強い人です。
その強さに、俺自身はかなり助けられました。
森野に出会えて良かった。
ふたりのミライに涙を零し、お互いに名前を憎んだこともあったけれど。
俺は、ほんとうに良かった。
最期の最期に、自分の名前を好きになれたから。
森野がこれを読む頃には、もう俺はいないかもしれない。だけど、これだけはどうしても伝えたい。
森野未来。
俺はあなたを心から愛しています。
またどこかで再会できたら、その時はまた、キャッチボールでもしましょう。
今度は病気ひとつない、お互い健康体でね。
最期に。
愛する、未来。
俺は君に出会えて、ほんとうに幸せでした。
ありがとう。
ほんとうにありがとう。
敬具
佐藤 未来
***
「——馬鹿じゃん。未来ちゃんも、佐藤さんも。こんな終わり方、ないでしょう。大馬鹿だよ……ふたりとも……綾都くん……っ!!」
微かに聴こえていたか細い心音が消えた時、私自身の心音も消えていく気配がした。
もう痛みすら感じない。
遠くなる意識に、一段と最期を実感する。
私たちの横を吹き抜ける風と共に、徐々に遠くなる意識の中で聞こえた誰かの声。懐かしく感じる声色に一筋の涙が零れた時、目の前にはたくさんの花々が現れた。
桜、菜の花、紫陽花、向日葵。
秋桜、ポインセチア、パンジー。
ノコンギク。
他にもたくさんの花が、季節感を無視して一堂に会している。
その先で筋肉質の男性が、優しく微笑んでいた。
「一緒に行こう。未来」
「……はい。みきさんと私。ふたり一緒なら、どんな〝未来〟も怖くないと思うのです——」
差し出された手を握り、放たれる光に涙が滲む。私たちの死を実感し、体が震えて止まらない。
「ふたりで、ひとりを救ったな」
「……」
「未来、泣くなよ……」
「そんなの、みきさんこそ」
「お、俺は泣いてないし。てか、手紙読んだ?」
「……ふふーん」
涙を拭い合い、そっと微笑む。
そして、ポケットに入れていたみきさんからの手紙を取り出した。
「読めなかったから、持って来ました」
「……あぁ!? お前なぁ~!! 持って来るな!! 恥ずかしいじゃん!!」
「そういうみきさんだって、持ってるでしょう? 私からの手紙」
「……バレた?」
「バレますよ」
あの頃と同じように、みきさんは意地の悪そうに舌をすこし出した。そして私と同じように、ポケットから手紙を取り出す。
ふたりの想いが詰まった2枚の紙を、大切にそっと重ね合わせる。すると、放たれていた光がさらに強まった。眩しいくらいに感じる輝きに目を細めると、みきさんは優しい声色で囁く。
「……もう、楽になれる」
「はい。ずっと、一緒です」
「離さない」
「……離れない」
ふわっと舞い上がった風に乗って、たくさんの花びらが舞い散る。
花のいい匂いに包まれて心満たされる中、不意に土筆が視界に入ってきたりして。土筆の天ぷらを食べたがっていたみきさんを思い出し、また涙が零れた。
なくなっていた記憶が、次々と蘇る。
それはみきさんも同じだったみたいで、走馬灯のように駆け巡る数々の記憶達に、頭を抱え大粒の涙を零し続けた。
「そういえば俺、高校の体育教師だったな」
「……そうです。みきさんは、〝佐藤先生〟だったのですよ」
グラウンドに響き渡る、大きな〝佐藤先生〟の声。誰よりも遠く響く明るい声色が、私は、何よりも大好きだった。
私の記憶の中に残る。
赤い笛を首から下げた、明るくて無邪気な笑顔。
忘れない、忘れたくない。
「——ねぇ、未来。愛してるよ」
「……みきさん。私も、愛しています」
溢れ出しそうな記憶に潰されそうで、自身の存在が消えてしまいそうだと私たちは実感した。ふたり手を繋いで、最期の力を振り絞り、互いの名前を呼び合う。
そうして顔を静かに寄せて、お互いの涙を拭い合いながら優しく、優しく頬を重ねた。
光に包まれ、私たちの意識は消失していく。その最中、季節感を無視したたくさんの花たちが、僅かな風に揺れていた。
真っ暗闇の中、最期に聞こえたサーッという音。
それは、私たちふたりの〝未来〟を願い、お見送りをしてくれているような気がした——……。
***
拝啓 佐藤先生へ
私にとって2枚目の遺書となります。
1枚目は【まだ見ぬ『誰か』様】向けて、高校入学時に書きました。
ですが今回は、佐藤先生に向けて書きます。
渡邊先生に『高校を卒業できる確率は10%未満』と言われて望んだ入学式。
どうせ死ぬのならば、同級生とは関わらない。そう決めて過ごしていました。
ひとりぼっちの日々を過ごす中、今でも佐藤先生の言葉を思い出します。
「森野未来、奇跡の足だ」
先生自身は、覚えていますか?
私はこの言葉を言われた時、非常に苛立ちを覚えたものです。
馬鹿にされたと思いました。
昔からそうでした。
運動ができない私のことを同級生、体育教師、いろんな人が馬鹿にしてきました。
だから、佐藤先生も同じなんだと率直に思いました。
でも、違いました。
佐藤先生はその後、運動が苦手な私を褒めてくれました。
腹筋2回でも、ボール投げがそこそこでも。先生は褒めてくれました。
それが私は、物凄く嬉しかったです。
そして佐藤先生が私を気に掛け、話し掛けてくれたこと。
ほんとうに、ほんとうに嬉しかったです。
同級生と関わらないと言いながらも、実際は寂しかったがゆえの感情だったと、今なら思います。
いつも私の傍にいてくれて、支えてくれて、ありがとうございました。
これから行く先が、どのような場所なのか分かりません。
ですが佐藤先生と一緒なら、例えそこがどんな場所でも怖くないと思うのです。
佐藤先生。
これまでも、これからも。ずっと先生のことが大好きです。
願わくは、〝記憶能力欠乏症〟と闘った先でも。
たくさんの花と共に。
いつまでも、佐藤先生の隣で。
敬具
森野 未来
花と共に、あなたの隣で。 終