墓場から家に帰ると、祐二は真生のいる病院へ向かった。昨日と同じようにエレベーターに乗って三階で降りる。真っ白すぎて落ち着かない廊下を足早に過ぎて、一番右端の部屋の前で足を止めた。

 そこが真生の病室である。祐二は一呼吸置くと、ドアを横に開く。ゆっくりと開いたドアの先で、彼女はベットの上で静かに寝ていた。起こさないように足音を殺して近づき、目を閉じた彼女の顔を眺める。小さく真っ白な顔と枕に広がる黒い髪。ゆるく上下する胸。その全部が儚く、このまま消えてしまいそうだ。

 祐二は眉を顰める。

 ──こいつ、いつからこんなに痩せちまっていたんだ? オレは……そんなことにも気づいてやれなかったんだな。

 細い右腕に刺さった点滴が痛々しい。彼女に触れたくて、祐二は頬へと手を伸ばす。しかしその手は触れるか触れないかの位置でぴたりと止まる。触れば、壊れてしまいそうな気がしたのだ。指先を握りこみ、手を下ろす。

「……真生……」

 伸ばせない指先の代わりに、小さな声で彼女を呼ぶ。胸が苦しいほど切なくなった。ふいに、真生の瞼が震える。目覚めようとしているのだ。祐二は慌てて離れると、彼女が目覚めるのを固唾を飲んで見守った。ゆるゆると開かれた眠たげな目が、ぼんやりと瞬く。やがて虚ろだった目の焦点が祐二に絞られて、大きく見開かれる。

「祐二先輩……? なんでここに?」

 真生は驚いたのか、勢いのままに起き上がりかけて、ベットに力なく倒れ込んだ。

「お、おい! 大丈夫か?」

 それに慌てたのは祐二の方である。苦しそうな様子に、そろそろと彼女の背に触れた。真生の身体が一瞬、小さく跳ねる。しかし、振り払われることはなかった。そのことに安堵して、祐二はじわりと伝わる熱を噛みしめた。それは彼女がここに生きて存在する証であった。

「悪い、大丈夫か? 驚かせるつもりはなかったんだけどよ」

「いえ、勝手に驚いたのはこっちですから」

 目を逸らして、真生は不安を滲ませる。昨日の今日だ。何をいわれるのか不安なのだろう。それも仕方がない反応だ。けれど、祐二はこのまま引き返すつもりはなかった。

「オレが諦め悪いのは知ってんだろ? 昨日のことも含めて、お前ともう一度ちゃんと話がしたい」

 真生を失うとわかっていながら、手をこまねいているほど祐二は愚かではない。彼女が逃げるのならどこまでだって追いかけて、彼女と向き合うために何度でも足を運ぶつもりだった。
 
 祐二の真剣な表情に、引き下がらないことがわかったのだろうか。真生は一度目を伏せると、すぐに顔を上げた。

「……ここだと誰か来ますから、場所を移しましょう。点滴が終わるまで少しだけ待っていてもらえますか?」

「そのくらい構やしねぇよ」

 そう答えれば、真生の顔に小さな笑みが浮かぶ。控え目であっても、彼女が笑ってくれたことに祐二はほっとした。

 ──ようやくお前の笑った顔を見られた。

 無理して笑ってほしいとは望まない。ただ、真生の泣き顔が胸に痛くて、彼女の笑顔を忘れてしまいそうだったから。祐二はもう一度彼女を心から笑わせてやりたかった。




 点滴が終わり、針を抜いてもらった真生に誘われて、二人は病院の屋上へと向かった。学校よりも広い屋上には高いフェンスに囲かれており、ベンチが所々に設置されている。どこまでも青い空がいつもより近いその場所で、二人は向き合って立つ。
 
 少しの沈黙の後に、祐二が先に口を開く。

「真生に言われたこと、ちゃんと考えてみた。けど、どうしても最後には同じ答えに行きつくんだ。お前のことが好きだって──……」

 何度考えても、その答えだけは変わらない。祐二は自分の気持ちを誤魔化すばかりで、一番肝心なことを口にしていないのだ。それを今度こそ正直に伝えたかった。

「どんなに想っても、お前の記憶が最後には消えちまうのはわかってる。けど、たとえ真生の記憶が明日消えたとしても、オレはお前を想うよ。きっと想い続ける。だってよ、心は理性でどうにかなるもんじゃねぇだろ?」

 俯いて肩を震わす彼女を、心の底から愛しいと思う。痛みも苦しみも全部笑顔の中に隠すのは、どれだけ強い想いが必要だったことだろう。彼女の優しさに救われていた影で、何度真生を傷つけていたのだろうか。祐二はそれを想う度に、たまらなく切ない気持ちになる。

「記憶がなくなるのをお前は死ぬことだと言ったけど、オレはそうは思わない。死ぬってのは身体を焼かれて、話すことも、一緒に未来に進むこともできなくなることだ。……オレの兄貴みたいにな」

 真生が驚いたように目を見開く。これはごく一部の人間しか知らない話なのだ。祐二はあの日のことを思い出してゆく。暑かった、あの日のことを────……。

 曇っているくせに、やけにむしむしと暑い日だった。当時の祐二は受験生で、全くはかどらない問題集をテーブルに丸投げしていた。その時、三つ上の兄、晃史(こうし)が帰ってきたのだ。

『ただいま。おぉ、勉強してんのか祐二?  こりゃあ今夜は豪雨だな』

 機嫌の良さそうな晃史は、祐二の頭の上に手を置いてからかうように笑った。それが無性に苛立たしくて、祐二はその手を即座に払い落した。

『うるせぇよ兄貴。勉強の邪魔だ。こんなに早く帰ってくんな!』

『冗談だって、そう噛みつくなよ』

 苦笑を滲ませる大人びた兄の余裕が悔しくて、祐二はそっぽを向いていた。たった三歳の年の差が、その時の祐二には腹立たしいほど大きく見えていたのだ。

「今思えば、喧嘩でさえなかったな。ありゃあオレが一方的に八つ当たりしてただけだった。馬鹿だよな? 兄貴だったら何を言っても許してくれるって気持ちが、心のどこかにあったんだ」

 同じ年齢になった今だからこそ、わかることがある。大人びた兄に嫉妬しながらも、弟という位置に祐二は甘えていたのだ。

『母さん、オレもう一度出てくるわ。こう暑いと何もやる気しねぇし、アイスでも買って涼んでくる』

 兄は隣の部屋で洗濯物を畳んでいた母にそう声をかけて、財布を手にした。

『そう? 母さんのも買って来てね』

『おう。ついでに祐二のも買ってきてやっから機嫌直せよ?』

『子供扱いすんな暇人!』

『へいへい、そんじゃ暇人のお兄様はパシリになりますよ』

『行ってらっしゃい。雨が降りそうだから運転に気をつけるのよ』

 ひらひらと後ろ向きで手を振る姿に、祐二は何も声をかけなかった。

「それが最後だった。兄貴は降り始めた雨にバイクの足を取られて、そのまま逝っちまった。オレに残されたのは、傷だらけのバイクと、使い古したライターに、尽きることのない後悔だけだ」

 どうしてあの時、何も声をかけなかったのだろう。
 どうしてあの時、不機嫌な態度を取ってしまったのだろう。
 どうしてあの時、止めることをしなかったのだろう。
 どれだけ後悔しても、すべてが遅かった。

「それじゃあ、先輩のバイクは……」

「兄貴の形見だ」

 自分自身を戒めるため、そして後悔を絶対に忘れないために、傷は消さないであえて残したままにしている。

「兄貴が死んでからオレの家はめちゃくちゃ荒れたんだぜ?」

 苦笑が浮かぶ。それでも話せるようになっただけましだった。三年前の記憶は、引き攣れた傷跡となって祐二の中に残っている。

 子供を失った母は、祐二が傍にいないことを極端に怖がるようになった。祐二が時間通りに帰ってこないと錯乱して、泣き叫ぶ母の姿をどれだけ見たことだろう。そんな母が哀れで、不安にさせないように努力した。学校が終わればすぐにでも帰ったし、友達と出掛けることも、夜に外に出ることも止めた。

『お願いよ、晃史! お母さんを置いて逝かないで……っ』

 失う恐怖に自分と兄と間違えて泣き喚く母の姿が悲しくて、祐二はひたすら母を宥めた。泣きながら眠り、起きては自分を責めることを繰り返す日々。その現状を見て、父は家に寄り付かなくなった。毎月義務のようにお金だけが通帳に振り込まれるのが悔しくて、祐二は逃げた父親を恨んだ。

「泣いてばかりのお袋と、真っ先に逃げ出した親父。それを見て、オレだけはしっかりしねぇとって思ってた。けど、そう思えば思うほど家にいることが苦痛になっていった」

 ある日、祐二は夜中にバイクで家を飛び出した。胸の中で堪えていた鬱屈が一気に吹き飛ぶほど、服越しに当たる風が心地よかった。その頃には、安らぐはずの家でさえ、息苦しいだけの場所へと変わってしまっていたのだ。

 もともと放任主義だった家の雁字搦めの束縛。いつまでもそれに耐えられるほど祐二は我慢強くはなかった。それでもバイクで気晴らしをすれば、また頑張ろうという気持ちになれた。しかし家で祐二を待っていたのは、鬼の形相をした母だった。

『バイクには二度と乗らないでってあれほど言ったでしょっ? 祐二まで事故にあったらどうするの!』

『お袋は心配し過ぎだ。見ろよ、今日は雨も降ってねぇ。それにバイクは乗ってやらないと壊れやすくなる』

『祐二はまだ中学生でしょっ? どうしてお母さんの言うことを聞いてくれないの! お兄ちゃんが死んじゃったのに、祐二は哀しくなかったの!?』

 居間を切り裂くように響いた声は、祐二の心を握りつぶした。自分の失言に気付いた母は顔を強張らせて、ただ唇を震わせた。その姿に一気に心が冷えるのが自分でもわかった。

 いつか元の家族に戻れると思っていた。そのためなら耐えられると。それなのに前を見ていたのは自分一人で、母はもう手の届かない幸せを求めていたのだ。過去が、戻るはずもないのに。

「あの人は兄貴の幻影を追うばかりで、今を少しも見てはいなかったんだ。それに気づいた時、もう駄目だって思い知った。だからオレは母親が落ち着くのと同時に家を出たんだ。もう二度と帰らないと決めて」

 父も母も祐二を止めることはしなかった。負い目があるだけに強く言えなかったのだろう。仮に止められてもきっと出て行っただろうが。

「先輩は、お父さんとお母さんを恨んでいるんですか?」

「許せなかった。許すつもりもなかった。けど、お前を失いそうになって初めて、オレにもお袋達の気持ちが少し理解できたんだ」

 失う事実を否定したくて、逃げきれるわけがないのに、逃げ出したくなった。どうしようもない現実に何もかもをぶち壊したい衝動に駆られた。そうやって悩み抜いた時間の中でわかったのは、兄を失った両親の気持ちである。

 兄の死を悼み、悲しんだのは祐二も両親も同じだったはずだ。それを深いか浅いかで比べようとは思わない。しかし、当時の両親はこんな風に苦しんでいたのかもしれないと思えば、何年も祐二の心を蝕んでいたどす黒い憎しみは、小さく萎んでいった。

「今でも、ふとした時に兄貴のことを思い出す。あの時、どうして見送ることをしなかったんだろうって。多分、後悔してるのは親父もお袋も同じで、あの日の正しい答えを求めてる」

 そんなことをしても、過去を変えることはできないと知りながら、これから先もまるで自らを罰するように、『どうして』と、自分に問い続けるのだろう。しかし、祐二はそれが間違っているとは思わない。

「いなくなって初めてその存在のでかさを知った。めちゃくちゃ後悔したからこそ、ここでお前と別れて同じ後悔をしたくねぇ」

「だけど、私は……」

 泣きそうな顔で、真生が距離を置こうと後ずさる。祐二はそれを許さずに詰め寄ると、彼女をできるだけ優しく抱きしめた。腕の中の温もりは、今を生きているのだと祐二に伝えてくれる。

「苦しいなら、その苦しみを半分寄越せ。辛いなら、辛いって口に出せよ。お前の腹の中にある気持ちを見せてくれ」

 懸命に一人で立とうと足掻く真生の姿は、傍で見ていてあまりにも切ない。たった一人で苦しんで、たった一人で泣かせるくらいなら、祐二は他の誰でもない自分の腕の中で、真生を泣かせてやりたかった。