僕に背を向け鼻をグズグズと鳴らしながら、それを隠すように母は窓をガラリと開けた。途端に、爽やかな風が甘い香りを纏って室内へと流れ込んでくる。近くで金木犀が咲いていそうだ。

 僕は馴染みのある匂いを思いっきり吸い込む。小鬼の笑顔が思い出された。先ほど別れたばかりの友人にまた会いたくなった僕は、寂しさを紛らわせようと、もう一度右膝の五つの傷へと視線を向ける。

 僕が彼らに会うのは三十年後。その時まで、僕は自分が何者なのか、何のためにこの世界で生きているのかを忘れてはいけない。

 天真爛漫なあの笑顔と、自分の立場をしっかりと胸に刻んでいると、平静を取り戻したらしい母の掛け声が聞こえてきた。

「さてと! 衛の目も覚めたことだし、お母さんは一旦家に帰って、入院の準備をしてくるわ。アメリカに出張中のお父さんにも、衛の無事を知らせなきゃ行けないし」

 そう言うと、母はベッドの脇に備え付けられている小さなテレビ台の上に置いてあった鞄を取り上げる。

「何か欲しいものある?」

 不意に聞かれた僕は、暫しの間無言で考えを巡らせる。

「……お茶が飲みたい」
「お茶? ペットボトルの緑茶で良ければ冷蔵庫に入っているから、後で保に出してもらいなさい」
「ああ。うん。緑茶でも良いんだけど……」

 そこで僕は言い淀む。言っても大丈夫だろうか。

 あちらの母が飲んでいたからと言って、今、目の前に居る母も同じものを飲んでいる保証はどこにもない。それでも、僕は思い切って言ってみる。

「母さんのお茶が飲みたい」
「お母さんのお茶って……オクスス茶のこと? なんで、そんなもの……まぁ、良いわ。後で持ってきてあげる」

 そう言うと、母は病室を出て行った。

 病室の扉が閉まるのを見送って、フゥと息を吐きつつ背もたれにしている枕へと体重を預ける。

「お茶いるの?」

 弟は、(かが)んでテレビ台の下に設置されている小さな冷蔵庫を開けていた。

「うん。そうだね。貰おうかな」

 冷蔵庫からペットボトルを一本取り出すと、蓋を開けてくれた。手は両方とも無事なので自分でも開けられたのだが、弟の何気ない優しさに胸が熱くなる。

「ありがとう」

 弟の顔を見ながらお礼を言ってお茶を受け取ると、弟がジッと見つめてきた。

「なんか、にいちゃん、変わった?」
「えっ?」
「いや、だって、いつも俺のこと避けてたっていうか、キョドってた? のに、起きてからは全然普通っていうか……」

 弟の言わんとしていることに、僕は曖昧に微笑む。