そんな、できる男には謎めいた伝説がある。実は昼間は帝に仕えているが、夜になると、とある井戸を通って地獄の閻魔(えんま)大王庁に出仕し、閻魔大王の裁判の補佐をしていたという。

 昼間に仕えていた上司の死を嘆いて閻魔大王に頼み込み蘇生させたという話や、かの有名な『源氏物語』の作者、紫式部の地獄行きを阻止すべく、仕えていた閻魔大王に口添えをしたとか。しなかったとか。小野篁の地獄に関する逸話はいくつかある。

 僕がその逸話を知ったのは、中学の修学旅行で京都を訪れた時だ。自由散策の時間にふらっと立ち寄ったお寺に、小野篁が夜な夜な、夜のお勤め先へと向かうために通っていたと云われる井戸があったのだ。

 興味本位で覗こうとしていたところを住職に見つかり、延々と説法を聞かされる羽目になったことを思い出す。

「多少訂正箇所はあるが、その逸話が示す人物は私で間違いない。しかし、よくそのようなことを知っていたな。そなたのことを少しばかり見直したぞ」
「はぁ」
「違います〜。古森さん。そこは『ありがとう〜ございます〜』と言うべきです〜」
「ん? あぁ、そうなの?」

 椅子に座る事務官の足元に控えている小鬼が間の抜けた注意をしてきた。それと同時に事務官が眼鏡の奥の目を再びスッと細める。そして、よくわからない質問をしてきた。

「古森。そなたは、これまでの人生において、何度、他者に感謝の気持ちを言葉にして伝えてきた? 答えてみよ」
「え? そんなの覚えていませんよ」
「そうか。では、小鬼。答えよ」

 事務官が鋭く声をかけると、小鬼は例のタブレットらしき端末で何かを確認すると、顔を僕の方に向けてキッパリと言う。

「ゼロ回です〜」
「ゼロ? そんなはずはない」

 僕は訂正の声をあげる。しかし、それを無視して事務官はさらに質問を続けた。

「では、古森。そなたがこれまでに他者から感謝の気持ちを伝えられたことは?」
「そ、それは……」
「小鬼!」

 事務官は言い淀む僕の答えなど初めから求めていないかのように、鋭く小鬼に指示を飛ばす。それに小鬼は嬉々として応える。

「はい〜、ゼロ回です〜」
「そ、そんなはずない!!」

 事務官は僕を真っ直ぐに見つめると、低いがしっかりと通る声でハッキリと宣言する。

「冥界区役所の管理データに誤りはない。そなたは、これまでの十九という歳月の間、誰にも感謝されず、また感謝の気持ちを持たずに生きてきたのだ」

 そう言われて、僕は暫しこれまでの生活を振り返ってみた。