「ねえ、卯紗(うさ)。淑景舎ってここであってる?」

 「はい!」


 後宮の女を知った翌日、杏子と卯紗子は淑景舎にいた。

 普段は飛香舎にいる杏子と卯紗子が淑景舎にいるのかというと、今から三刻ほど遡る。





 朝食を食べ終わって朝のゆっくりした時間、


 「杏子様、淑景舎様って何か病気なのですか?」

 「うーん。違うんじゃない?病気だったら里帰りさせられるでしょ」


 後宮は死を嫌う。

 新たな命が誕生する場に死は縁起が悪い。

 病気や出産、出家など死と関連があることからは離す。

 その結果、妃は里帰りという名で後宮を出ることになる。

 昨日の感じから、淑景舎は実家ではなく後宮にいる。


 「確かにそうですね。あ!物忌みではないでしょうか?」

 「それって、夢見が悪かったり、不安なことがあったり、穢れを避けたいときにするやつだよね。一定期間物忌みをすると身を守れるっていう胡散臭い奴」


 物忌みとは指定された時間、どこにも行かず、来客とも会わずに引きこもること。

 破ると恐ろしい目に遭ってしまう......らしい。

 当然のことながら、杏子と卯紗子は信じてない。

 不安なことがあっても夢見が悪くても外に行ったり、誰かと会ったりしているが、恐ろしいことにあったことない。


 「でも貴族の間では信じられているそうですよ。物忌みなら仕方ないですよね」


 (なんでこんなことを信じるのかしら?)

 こんなにも胡散臭いことを信じてやっている貴族に疑問を感じる。

 でも、これを使えば皇族から呼ばれても断ることが出来るのでは?


 「また何か思いついたのですか?」

 「ちょっとね。......淑景舎様のとこに行ってみない?」

 「杏子様、淑景舎様は来客と会えないんですよ?」

 「まだ物忌みだって決まった訳じゃないもの。卯紗、行くわよ!」

 「せめて、昼になったらにしましょう。きっとこの時間は仕事してますよ」

 「仕事って?」

 「ええっとそれは......」


 笑顔でぐいぐいと聞いてくる杏子に卯紗子はたじたじとなり、時は進む。






 そして、今、杏子と卯紗子は渡殿を歩いて内裏の端、淑景舎に来ていたのだった。


 「どうやって、中に入りましょう?」

 「声かけてみる?」

 「いきなり飛香舎に住んでいる方が来て話しかけたら驚きますよ?」

 「確かに。なら、どうしよう?」


 杏子と卯紗子が淑景舎の前でうろうろしていると、中から一人の女性が来た。

 飾りけのない着物で身を固めている。

 侍女なんだろうか?


 「こちらは淑景舎様の宅です。何か御用があるのですか?」

 「わたくしは飛香舎にいる杏子と申します。淑景舎様に会いに来ました」

 「飛香舎様、ですか⁈中でお待ちください」


 全く顔が動かない能面のような侍女に連れられて、杏子と卯紗子は中に入ることができた。


 「部屋の主が違うとお屋敷の雰囲気は変わりますね」

 「ほんとね。ここは必要最低限な物しか置かれてなくて洗練されている。ここに案内してくれた侍女みたいね」


 床には畳が敷かれて、部屋の隅には火鉢が置かれている。

 それだけしかこの部屋にはない。

 杏子の部屋には人には見せられない物に書物や灯り。

 杏子も自分の部屋には必要以上置かない主義で(他の貴族の娘よりも)物は少ないと思っていたが、上には上がいた。


 「これだけでよく生活できるね......。外に出ることも出来ないのに。私だったら、暇死にする」


 物に覆われて刺激を得る生活に慣れている杏子は物がない生活では生きていけない。


 「飛香舎様。遅れて申し訳ございません。こちらは我が主でこの淑景舎の主です」


 能面侍女も後ろから出てきた人物は......。


 「「⁈」」


 見た目が杏子そっくりだった。

 似ているなどの易しい言葉ではなく、同一人物のようだった。


 「あ、杏子様が二人......?」

 「私も初めて見た時は驚きました」


 侍女二人が驚いている中、本人たちはというと


 「「......」」


 お互い見つめあっているだけだった。

 驚きすぎて言葉が出ないと言った方が近いかもしれない。


 「杏子様、本題に入りませんか?このままだと日が暮れてしまいますよ」

 「そ、そうだね。えっと......わたくしは飛香舎にいる杏子と申します」

 「わ、わたくしは......ゆ、雪子......です......」


 消えそうな声で杏子の前に座る女性、雪子は挨拶をした。

 姿は一緒だが、性格は真反対なのかもしれない。


 「雪子様って物忌みではないのですね」


 猫を被って奥ゆかしく演じる杏子の姿はまさに次期中宮最有力候補に相応しい空気をまとっていた。

 演技だと分かっている卯紗子、外でのやり取りを知っている能面侍女はともかく、雪子は初対面。

 (杏子様が深窓の姫君と呼ばれているのも分かります)

 雪子は盛大に勘違いをしてしまった。


 「奥ゆかしくて心優しい杏子様はわたくしのような者にも手を差し伸べて下さるのですね......。ですが、今のわたくしは物忌みをしておりません。遠いところから足を運んでいただいたところすみません」


 (お、奥ゆかしい......?)

 猫被りすぎたのだろう。

 見た目だけは深窓な姫君に追加された姫君風口調。

 中身は外に出ることを夢見る活発な姫君など誰が思うのだろうか?


 「同じ内裏内ですのでこれぐらい大丈夫ですよ。わたくしが心配して来てしまったので」


 実家にいた時は毎日のように外に出て市を見たり、農作業をしていた。

 渡殿を歩いて内裏の端にある淑景舎に行くぐらい造作もない。


 「心配、ですか?」

 「ええ。昨日、東宮主催の遊びがあったのですが、雪子様がいらっしゃらなかったので。何かあったのではと思い来てしまいました」

 「そう、ですか......」

 「杏子様、昨日の遊びにて、あの方、弘徽殿殿らが何かしてましたか?」

 「そうね......。弘徽殿様の演奏が中々独創的なぐらいで、あとずっと話していたかな。弘徽殿様の兄君は漢詩が苦手なことしか聞いてなかったけど」

 「杏子様、そのようなこと言ってましたっけ?弘徽殿様の自慢話のような感じで一方的ではなかったじゃないですか?」

 「あ、そんなこと言ってたの。私、弘徽殿様の兄君が書いた文の内容のことしか頭になかったので」

 「あの、杏子様、失礼を承知の上ですが、その文見せていただきませんか?」

 「もちろん」


 (持って来ておいて良かった)

 雪子に見せるためではなく、火鉢の燃料用にしようと思って持ってきた物だが特に問題はない。

 袂から出した無駄に高級感を感じられる撫子の文を開いて、床にそっと置いた。

 (そういえば中ちゃんと開けてなかったっけ)

 季節の話から進み、問題の漢詩が書かれていた。


 「......これ、大丈夫なんでしょうか?杏子様を求婚しているようにしか見えませんけど」

 「雪子様って漢文が分かるのですか⁉」


 漢字は男がするもので、仮名文字は女がするもの。

 そのため、女が漢文を習うのを良しとしない風潮がある。

 杏子が漢文を読めるのは、家系の仕事で漢字を使う必要があったのもあるが、一番の理由は母の紀子が教えてくれたからだった。

 (家族以外で漢文を読める人がいるなんて......!)

 後宮の妃たちは高い教育を受けているが、漢文が出来る者はほとんどいない。


 「後宮に来て一番良かった出来事かも知れない!」

 「杏子様、取れてますよ」


 何がとは言うまでもない。

 雪子とのやり取り中ちょくちょく素が出ていたが、まだ隠しきれていた。

 だが、これは隠していない。

 『おしとやか』の『お』文字もなかった。


 「ええっと、杏子様?」


 雪子は奥ゆかしいと思っていた相手が一変して、気分が好調して興奮している様子に戸惑ってしまう。

 (もしかして、杏子様って噂通りの人じゃない......?)

 雪子の気持ちが顔に出ていたのか、雪子の問いに卯紗子が応えた。


 「雪子様、その認識で合っています。杏子様はその見た目だけが噂されています。本当は好奇心で動く噂とは反対の魅力的な方なんですよ」

 「......貴族らしくないわたくしを見て幻滅しましたか?」

 「まさか。少し驚きましたが、わたくしは素の杏子様の方がその......す......好き......です......。わたくしそっくりの杏子様が落ち込んでいるのは気になってしまいますし」


 (雪子様って良い方......!仲良くできるかな?たしか仲良くなるには共通点から話すのが良いって柏陽お兄様や右近(うこん)兄さまが言っていたっけ)

 右近とは柏陽の弟兼杏子の兄で文官として働きながら、裏では情報収集に勤しんでいる。


 「あ、あの、どこで、漢文の知識を?」

 「話が随分と飛びましたね」

 「良いじゃないですか、玲子(れいこ)


 あの能面侍女の名前は玲子だったのか。

 そんなどうでもいいことに杏子は食いついてしまう。


 「ようやく名前が知れました!これから、よろしくお願いしますね」

 「こちらこそ、何卒よろしくお願い申し上げます、杏子様」

 「えっと、わたくしの漢詩の知識、ですよね。わたくしは後宮にいたことがある祖母と母から教えて頂きました。こちらの漢文は実家で読んだことがあったので分かりましたが、偶然ですよ。わたくしは女御様や他の更衣の方よりも教育は受けておりませんので、知らないことの方が多いです」

 「そんなことないですよ、雪子様。漢文の知識を持っている貴族女性は少ないです。教養に自信がないのなら、良かったらわたくしが教えましょうか?とは言ったものの、わたくしも興味がない教養については自信がないのですけど」


 漢文に和歌はまだできる。

 だが、貴族相手の対応は無理。

 上辺だけを褒めて胡麻をすって来る者の対応の仕方が分からない。

 後、陰湿な女達と話すのもできない。

 回りくどくされても意味は伝わるが、返答に仕方に困る。

 それだったら、適当に聞き流すだけで相手が満足してくれる弘徽殿のような人の方がまし。


 「良いのですか......?わたくしは更衣で盛りが終わった貴族出身です。教えて頂くのに何も返せません......」

 「返しは必要ないですよ?わたくしの個人的なことですし」

 「左大臣家出身の杏子様とわたくしが対等だなんてとんでもございません......」


 (これは何か返しを考えないと......。雪子様と一緒にお茶会、じゃなくて勉強会が開けない)


 杏子にとって必要なのは身分ではなく、その人個人の中身だ。

 身分の権力を使って事態を治めることは出来るが、せっかく距離が近くなった雪子が離れてしまう。

 それは避けなければならない。

 だが、雪子から杏子への贈り物となると莫大な金が掛かって雪子の家の経済状況を圧迫してしまう。

 (金銭が掛からないお返し......)


 「それなら、お返しに雪子様。わたくしの友人になってください。これほど瓜二つな外見を持ち、漢文の知識を持つほどの教養の深さ......。これから、楽しい毎日が始まりそうですね!」

 「わたくしのような者が杏子様のご友人......。ご迷惑をかけますが、これから、その......よろしくお願いします」

 「初めての貴族の姫君とお友達になれました!これは、報告しなければいけません」


 気分は最高潮。

 明日にでも文を書いて、報告しょうと意気込んでいる杏子に卯紗子が聞いてきた。


 「誰に、ですか?杏子様?」

 「それは、家族、だけど?」

 「九条の家にわたくしのような小者が知られるんですか......」


 杏子そっくりの顔が恐怖と不安で死にかけていた。

 これには、杏子も


 「やっぱり、伝えないでおきますね。わたくしの友人が父や母、兄に弟に取られてはいけませんから。帝も東宮も魅力で溢れている雪子様を放置にはしませんよね。わたくし、今度、東宮と会う時、雪子様の素敵なところを教えますね!」


 伝えないようにした。

 雪子が死にかけていたのは身分の差であって、理由は異なっているが。

 だが、なぜ、それが杏子の実家ではなくこの世で最も尊い帝と東宮になるのか?

 自己肯定感が低い雪子は顔が真っ白になっていたが、雪子には

 (帝にも、って帝?)

 何か忘れているような気がした。

 結構最近の出来事で......たぶん後宮にはいて......。

 全く思い出せない。


 「み、みか、どに、東宮陛下......」


 力が抜けたのか雪子は崩れ落ちて行った。


 「雪子様⁉わたくしが帝や東宮に伝えると言ってしまったから......」

 「杏子様、そんな顔をしないでください。わたくしは更衣とはいえ東宮の妃です。東宮と帝に関わっていくかもしれないのに、間接的に伝わるだけで震えてしまうのは変えないと、ですよね......」


 まだ青白い雪子は小さいながらもしっかりとした意思があった。


 「ゆっくりと慣れていきましょう!そうですね......。確実に皇族と会えるのは次の東宮主催の会です」

 「杏子様、何をするんですか?昨日と同じ遊びですか?」

 「たぶんそうじゃないかな、卯紗。基本的に会は宮中の年中行事に合わせているの。今の時期は特に何もないから、遊びか和歌かな」


 織姫にあやかって七夕では裁縫を披露する、端午の節句には薬玉を作るなど決められたことをする会があれば、季節関係なく杏子と卯紗子が参加した会のように遊びをすることもある。


 「遊びに、和歌、ですか......。行けたらいいですね」


 (行けたら?)

 東宮主催の会は後宮にいる更衣や女御の参加を求められていて、官女や女房なども参加することは可能だ。

 更衣の位を持っている雪子が行けないわけがない。

 (失礼だけど、後で調べてみようかな......。雪子様は言いたくなさそうだし、玲子は何を思っているのか分からないし)

 そんなこと思った時、外から声が聞こえた。

 幼さが残るたどたどしい幼子の声。

 雑事を行う女蔵人だろうか。


 「失礼します、淑景舎様。食事の準備が出来ました」

 「もうそんな時間が経ったのですか⁈杏子様、帰りましょうか」


 この部屋の外と繋がるところには御簾があり、光が遮断されて昼間でも夜と変わらなかいほどの暗さだったので、時間感覚が狂ってしまう。

 杏子の家、飛香舎でも御簾や障子があるが、ここほど暗くはない。

 光が入る昼間では灯りを使わずに暮らしている。


 「そうね。帰ったら、文に詳しくお勉強会のことを書いて届けますね!では、失礼します」

 「お手紙、楽しみに待っていますね......!」


 雪子に別れを告げて淑景舎に出ると既に日は落ちて、時折冷たい風が杏子の長く美しい髪を靡かせた。