平安後宮身代わり姫君伝

 季節は廻り、あっという間に紅葉が舞う秋となった。

 杏子は父に連れられて入内。

 貴族の男性や女房たちが華やかに着飾って、酒と音楽に酔いしれた祝宴が開かれた。


 「これはめでたいですな」

 「ああ、九条殿は羨ましい限りだ」

 「家柄、姿、知性、全てが整っているなど、次代の中宮は決まりだな」


 御簾先からも聞こえる浮かれた声。

 遠くから聞こえる雅な管楽の音。

 東宮に入内した本日の主役である杏子(きょうこ)


 「暇」


 重い正装を着て、畳の上に座っていた。

 何かしようとも、衣装が重すぎて動けない。

 動きたくない。

 今、杏子が来ているのは、遠い未来で十二単と言われている貴族女性の正装。

 濃い紅色の長袴と白い小袖を着る。ここまではいつも通り。

 その上から(ひとえ)と呼ばれる裏地のない下着にかさねの色目を意識して5枚ほど(うちき)を着る。

 袿の上には唐衣(唐衣) (短い上着)を。

 さらに、腰にはスカートのような()をつけて、仕上げに檜扇(ひおうぎ)帖紙(たとうがみ)

 何枚も衣を着る十二単の重さはどこかの時代の秤では10㎏前後を指し示すそうだ。


 「重いですよね。これからは毎日この恰好になると思るんですか......」


 杏子の女房、卯紗子(うさこ)も杏子と同様に十二単を着ている。

 主である杏子ほど華やかな物ではないが、それでも衣は一品物だった。


 「なんで?」

 「高貴な女性に仕える女房はこれが正装なんですよ。今までは、軽装で許されいましたが、内裏となるとちゃんとした服装にしないといけないんですよ。杏子様はこれから、帝と東宮の前ではその服でいないといけないそうですよ」

 「......ねえ、その決まり変えない?」


 内裏とは帝や東宮を含む皇族が住む場所。

 そうなってくると、皇族と会う日が増えてこの思い服を着ないといけなくなる。

 こんな服、今日だけで十分。

 杏子のいつもの服で毎日過ごしたい。

 かさね色目って何ですか?

 衣の表地と裏地、衣の重ね着に自然美の調和?

 自然美の調和は他の方法で出来ないのか。

 いつも長袴に袿ぐらいしかきていない杏子にとって、十二単なんてもう二度と着たくない。

 もう少し簡略化して欲しい。

 そうしたらまだ着ようと思える。


 「どうやって変えるんですか?」

 「うーん。わたくしが帝や東宮と会う時にこれを着ないとか?」

 「上位の女御が流行を作っていると聞きましたし、もしかしたらそれが流行になるかもしれませんね」

 「それなら......!」

 「杏子、いるか」


 御簾の外で聞こえたのは、この国で一番偉い方、帝の声だった。

 そして、杏子の許可なく勝手に部屋の中に入って来てしまった。

 帝は杏子の実の伯父。

 血縁関係があるので、女性である杏子の部屋に堂々と入出することができる。

 この国には高貴な女性は血縁関係がある者や親しい者以外男性には顔を見せないというしきたりがある。

 もっとも、帝にはそんな規則に縛られないが。


 「本当に紀子そっくりだな。この度は私、いや、じじの願いを聞いてくれてありがとう。杏子は昔から外に出たいと行っておったのに。そなたの夢を潰してしまったお詫びにじじが何でも叶えてあげよう」


 願ってもないお願い。

 もちろん、杏子の願いはここから出ること。

 でも、今日入内した姫がその日に内裏から出るのもおかしい。

 何かあったのではと家が疑われてしまう。

 それに、まだ卯紗子が言っていた女の戦場とやらを体験してない。


 「ありますが、別の機会でお願いします」

 「おう、そうか。杏子は女御。中宮がいない(みなと)にとっては一番高い位となる。そして、ここは飛香舎(ひぎょうしゃ)という。清涼殿とは近い。杏子にいやがらせをする者はいないだろう。安心して暮らせるぞ」


 帝が住む清涼殿に近いほど妃の家柄が高くなる。

 清涼殿に近い飛香舎を与えられた杏子は東宮の中宮最有力候補となったことを、杏子は気づいていなかった。

 なんで嫌がらせがないのか。

 それは、帝に近いから。

 と勝手に答えを考えて、この話題は消す。


 「心遣いありがとうございます、帝」

 「この場にはうるさく言う者もいないから、昔のようにおじい様と呼んでくれぬか?」

 「それもそうですね、おじい様」

 「そうそう、ここの警備をする者は杏子も知っている人物だ」

 「後で見に行って来ますね!」


 (誰だろう?)

 男との関りがほとんどない杏子にとって選択肢はほとんどない。

 帝の右腕として働いている父に、武官と文官の兄。陰陽師として働いている弟。

 今すぐにでも外に出たいが帝の手前、我慢している。

 決して、帝の願いだからではない。


 「夜は危ないから、明日の朝にしておいで。今日はもう遅い。杏子、ゆっくりと体を休んでくれ。それじゃあ、また。失礼するぞ」

 「また、後日」


 帝が部屋からいなくなると、全く動かなかった杏子が外の方へ向かう。


 「杏子様。帝から夜は危険と言われましたよね」


 杏子至上主義のこの女房にとって杏子のことは全てお見通しである。


 「うん。だから、見に行くの。危険な目にあっても卯紗が守ってくれるもの」

 「杏子様......!ってそれとこれとは別の話です。杏子様、今日は疲れていますし一度お休みになったらどうでしょう?明るい昼間の方がきっとよく見えますよ」

 「これくらいで疲れるほど、やわな女ではないのよ、卯紗」

 「燭台だけでは、相手のことほとんど見れませんよ?日の光が当たることで見えるのです」

 「ねえ、卯紗。知ってる?今日は月が出ているの。ほのかに光る月の灯りで十分見えるのよ」


 杏子はそう言っているが、今日は三日月で月光よりも星々の方が輝いて見える。


 「月光は朧気ですよ、杏子様」


 二人の話はやがてどの月が美しいのかに転じ、さらに月の話、動物の話になった時には星々が消えて空がほのかに明るくなっていた。
 「父上、杏子(きょうこ)の様子はどうでしたか?」


 帝は東宮である俺よりも先に杏子とあって来た。

 この宴のせいで全く身動きが取れなくなってしまい、父上に先越されるとは......。


 「杏子はやはり紀子の面影を継いでおる。慣れぬ正装に苦しんでおった」

 「正装は重いですからね」


 母は父の言葉に納得をしている。

 そんなに重いのか......。

 正装を簡略化させるか。

 杏子のためにそうしたいが、古きを好む物もいる。

 どちらにも納得するような政治をする。

 それが難しいことだ。


 「湊、杏子に会いには行かないのか?」

 「慣れない内裏に着いたばかりできっと疲れているでしょう。もう数日したら会いに行こうと思います」

 「そうか。湊、杏子のことどう思っているのか?」

 「この世界で慈しむ姫です」





 杏子と会ったのは、今から十年ほど前。

 父上が目に入れても痛くないほど可愛がっている妹の紀子(きこ)内親王と夫の左大臣、俺と同じぐらいの年の二人の男と杏子が挨拶しにやってきた。


 「ほら、杏子。この方が東宮の湊様よ」

 「みんとさま?」


 舌足らずな杏子は俺の『な』が『ん』になっていた。

 訂正しようとしても、杏子は直らなかった。

 頑張って何度も練習をしている杏子の姿を見て名前を付けることができないあったかいものが俺の中から生まれた。


 ふわふわしているものが形になったのは、


 「私、外の世界に行ってみたいのです。たくさんのことをこの目で見て見たいのです!あ、すみません。はしたないところを見せてしまって......」


 杏子のような貴族の女性は外に出ることなく屋敷の中で暮らす。

 世間とは離れたそんなところも好ましい。

 誰にもに囚われず自由に舞う蝶を捕まえて見たくなってしまった。


 「いつか見せてあげるよ、杏子」


 俺は東宮。

 ここから出ることは許されない。

 でも、君と外に出られたらー。

 そんな願いを今だけ思ってしまった。





 「ー。ところで、湊、明日、何があるのか分かっているだろうな?」


 惚気た顔が一瞬にして変貌して真面目になる。


 「もちろんです」


 明日は俺が主催する管楽会。

 後宮にいる更衣や女御、女官が琴、琵琶、笛などを披露していく。

 公にはしていないが、中宮を決める際の判断材料となるかもしれないと言われている。

 そんなことはどうでもよく、せっかくの杏子に会える機会。


 「父上、母上。笛の練習をしてきます」

 「こんな時間に?」

 「練習しないといけないので」


 ヒラヒラ飛んでいく蝶を花にとまってくれるように。

 長い夜は始まったばかりだった。
 日が空の真上にある頃、


 「眠い......」


 昨日は太陽が昇るぎりぎりまで起きていたため、生活が乱れてしまった。


 「飛香舎様、文が届いております」

 「飛香舎様?」

 「わたくしがここに住むことになったから、そう呼ばれるのね。卯紗、文を取ってきてくれる?」


 親しい人以外、名前は教えない。

 言葉には力があるそうで、名前を呼ばれると人格を支配される......らしい。

 もちろん、杏子や卯紗子は全く信じていないので、卯紗子には名前で呼んでもらっている。

 人格の支配、そんなことはまだ一度も起きていない。

 そろそろ起きないかなと杏子はひっそり楽しみに思っていたりする。


 「え⁉」

 「どうしたの?卯紗」


 文を取りに行った卯紗子の悲鳴のような声が外から聞こえる。

 何かあったのでは⁈

 不安と興味で混ざった感情を持ちながら、外に出ると見慣れた人物と卯紗子が見えた。


 「卯紗子がいるってことは、ひょっとすると中にいるのって」

 「柏陽(はくよう)兄様!」

 「お、杏子。じゃなくて今は女御様か。たくさんの文が届いてますよ。今この場で焼きましょうか?」


 にこやかな顔をしているが、目は笑っていない。


 「待って下さい。中身を確認してから燃やします」


 卯紗子から、紫の桔梗に結ばれた文を開くと、

 (行きたくないんですけど)

 東宮直筆の文字が羅列していた。

 秋は月が綺麗とか書いてあったが、簡単にまとめると、今日の夜に東宮主催の遊びが開かれるらしい。

 遊びとは詩歌に管弦、舞などをして楽しむこと。

 東宮主催の遊びとなると、自分の特技をみせる発表会に近い。

 どれも知識や技能が必要なので、妃の教養と賢さが試される。

 そのため、格付けの基準となり、誰が中宮候補なのか大体決まってしまう。

 一度決まると覆すのは困難。

 きっと後宮の花々は死に物狂いでくるだろう。

 (どうやって休もう?)

 東宮主催の遊びとなると断りにくい。

 ただの熱だったら這い上がっても行かないといけないほどなので、そんじょそこらの言い訳は効かない。

 別に琴を弾くのは嫌いではないし、杏子の他にいる女御や更衣に会ってみたい。

 だけど、あの重い服を着ていくとなると行きたい気持ちが消滅する。


 「風邪ひきたい......。中止するほどのことが起きて欲しい......」

 「何か良からぬことが書いてあったのですね。直ぐに燃やしましょう」

 「......燃やしたら、いけないものです。差出人は東宮でした。今日の夜、東宮主催の遊びがあるそうです」


 東宮の文を燃やしたら不味い。

 それぐらいの常識は持っている。


 「それって、あの正装を......?」

 「たぶん」


 目に見えて落ち込む杏子と卯紗子に、なんでそんなに元気がないのか男である柏陽は全く検討もつかない。


 「えっと......ほら、女御様。こっちにも文はありますよ」


 撫子に結ばれた文と紅葉の絵が描かれた文。

 開けやすい紅葉の方から見ると、和歌が書いてあった。

 それも上の句のみ。

 この歌は世に知られていない知る人ぞ知る歌で、相手の教養が高い証拠である。

 (これはお返しをした方が良いわね)


 「柏陽兄様、一旦席を外しますね。残りの文も下さい。中で見たいので」

 「おう、分かった」

 「杏子様、紙と墨を磨ってきますね」

 「ええ。ありがとう」


 何も言わなくても主がしたいことを察する万能女房である。


 「それでは、また夜お願いします」

 「任せてください、女御様」





 部屋に戻ると、既に準備は整っておりいつでもできる状態になっていた。

 向こうが書いた和歌は、直訳すると秋の花の数を指折って数えています。

 (確かこの下の句は七種類の花があるみたいな言葉が来るけど......)

 そのまま書いても、工夫がない。

 ここはもうひとひねりしたいところ。


 「花......。うーん......」


 (そういえば、前に読んだ物語で帝の妃が花に喩えられていたっけ......)

 立場的に杏子が書くわけにもいかないので、質が悪い紙に返歌と一言書くと


 「ねえ、卯紗。これを書いて、相手に渡してくれる?」

 「これは......花は妻に喩えたのですか」

 「ええ。だって卯紗。この人、女たらしで有名な人よ?前に柏陽兄様に教えてもらったの。教養は高いけど奥さんが大勢いるって」

 「だから、この一言なんですか」


 杏子の返歌にそっと置かれた一言は一見穏やかに伝えているが実際は違う。


 「そうそう。たくさんの奥さんがいるけど、奥さんは愛想つかしてるよって書いた。まあ、伝わんなかったらでいそれでいいんだけどね。率直に意味を取ると、たくさんの花があります。でも一本の花は枯れてますよって感じかな」

 「男性は女性の恋の辛さなんて全く知らないですからね。書き終わったので、柏陽様に送っときますね」

 「お願いね」


 今や男尊女卑の時代。

 それは結婚にも表れる。

 一夫多妻制の世の中、男は数多の妻がいて当たり前。

 夫が来ない夜は自分ではない他の姫君のところに行っていると思うとそんな事実に耐えられなくて、相手に嫉妬してしまう。

 全ての決定権がある男は分からない。

 恋する乙女の辛さ、苦しみが。

 理解することもできない。


 「......恋の苦しみが分からないわたくしが他の方のところに夫が行って欲しいって願っていいのかしらね」


 昼間だというのに光が入らない部屋で杏子の声は誰にも聞かれることがなかった。
 「杏子様、今宵は秋の暦なので、かさねの色目も秋っぽくしてみました!」

 「寒くなるとはいえ、これは熱すぎ......」


 熱が出ることもなく、天変地異が起こることもなかったので、予定通り東宮主催の遊びに出席することになってしまった。

 そのため、卯紗子(うさこ)によって正装を着させられた。

 今日の五衣(いつぎぬ)は一の衣から順に表は中紅、淡朽葉、中黄、濃青、淡青、中紅。裏は中紅、中黄、中黄、濃青、淡青。

 どこかの世界では紅紅葉(くれなゐもみぢ)と呼ばれているらしい。

 杏子や卯紗子は知らないが。


 「早く行って早く帰りましょう」

 「それもそうね」


 飛香舎(ひぎょうしゃ)から出ると、手燭(てしょく)を持った柏陽(はくよう)がいた。


 「女御様に卯紗子......。なんか豪華な服だ、ですね」

 「歩きづらいから、あまりこの姿はお気に召さないんです。柏陽兄様、なぜ今日は蝋燭なんですか?いつもは松明(たいまつ)なのに?」

 「後宮で松明は危ないから使ってはいけないそうです。一体誰が考えたのでしょうかね?松明の方が明るいのに」

 「ほんとそうです!蝋燭は暗いし火が灯っている時間がとても短いんですよ!」


 杏子や柏陽の家では夜出歩くときは松明を採用していた。

 蝋燭は高価なくせにすぐに火が消えてしまう。

 蝋燭を何本も使えるのは後宮やお金持ちの家ぐらい。


 「杏子様、柏陽様。お話中失礼します。蝋燭の火が消えてしまう前に行きませんか?」

 「そうだな。ここから清涼殿が近いからといっても蝋燭がないと何も見えなくて危険だからな。ほら、行きますよ、女御様」





 灯りを持っている柏陽を先頭に杏子、卯紗子という順で渡り廊下を歩いていると昼間のように明るい部屋についた。

 管弦の美しい音色がまだ聞こえないが、外にまで聞こえるほどの女性の声は聞こえる。

 東宮の声がないので、始まっていないんだろう。


 「行ってらっしゃいませ、女御様。何かあったらすぐに教えて下さい。ちゃんと持っていますね?」

 「もちろんです、柏陽兄様。では、行って来ますね」

 「女御様の力でねじ伏せて下さいな」


 何か物騒な言葉が後ろから聞こえた気がするが、気のせいだろう。

 中に入ると、高灯台で絹の光沢がわずかな明かりを反射させているのか艶やかな雰囲気で満たされていた。


 「あら、藤壺様!次代最有力中宮候補と言われているだけあって美しいですね。実は今日、我が兄が藤壺様に文を渡したそうですよ。もうお読みになりましたか?撫子の文で、漢詩の文から取ったそうで、わたくしの部屋で自慢してきましたの。兄の方がわたくしよりも先に藤壺様と仲良くなって」


 (息継ぎどうしているんだろう?)

 口元に扇を添えた目の前の女性に疑問を持つ。

 言葉を挟もうとしてもすぐに次の言葉が紡がれる。

 せめて相槌と思ったが、その隙間もない。

 一体いつ息を吸っているんだろうか、この人は。

 器用に鼻で呼吸しながら話しているのか?

 それとも、肺活量が良いから一度も息を吸わずに話せるのか?

 想像しがいがある。


 「弘徽殿様と藤壺様はもう友人に違いありませんね」

 「ええ。藤壺様も弘徽殿様も女御で家柄も見た目も備わっていますから」


 弘徽殿の後ろにいる取り巻き1,2(名前を知らないのでそうしとく)はどこを見たら、友人と思ったんだろう?

 杏子と後ろにいる卯紗子はただ立っているだけ。

 (あの文の中身って漢詩なんだ。誰の漢詩なんだろう?はやく言って欲しい)

 杏子は人が良さそうな笑みをたたえて時々首を動かしながら、全く別のことを考えていた。

 取り巻き1,2が言ったことを全く聞いてない。

 頭にあるのは、漢詩。

 それだけ。


 「藤壺様は左大臣出身ですよね。それなら兄の文にある銀台金闕夕沈沈(ぎんだいきんけつゆうべちんちん)にも答えらられますよね?漢詩って難しいですけど、頭が良い藤壺様ならきっとできますよ。私でさえできたので。それで、」


 (この漢詩の意味知っているのかしら?)

 弘徽殿の兄が書いた漢詩を訳すと豪華できらびやかな宮殿で夜は静かに更けていく。

 これをどうしろと?

 この後の文を書くのか?

 でも、この後に続くのは独宿相思うて翰林に在り。

 意味は一人宿直して君を思う。

 仮にも女御の杏子にこの漢詩は非常識すぎる。

 この漢詩の作者は都では愛好家が多くてそれなりに有名だ。

 きっと作者だけでこの漢詩にしたんだろう。

 (この文は燃やそう。灯りの燃料にちょうど良さそうだし)


 「集まったか」


 騒がしい部屋の中でよく通る凛とした声。


 「今日は管楽会に来てくれてありがたく思う。長話はしたくない。早速、誰か弾いてみてくれ」

 「......」


 誰も行かない。

 (私が行くか)


 「東宮。私が演奏してもよろしいでしょうか?」


 いつ行くのか見定めていた女たちは顔が悪くなった。

 杏子の琴と自分の腕を比べられるのは自明の理。

 杏子の琴の評価が上がり、自身の価値は落ちてしまう。

 女たちがどうやって高く評価させるのか考えているなんて知らない本人たちは、和やかに会話が進む。


 「もちろんだよ。飛香舎」

 「それでは遠慮なく」


 白魚の手から奏でる美しい音色。

 一音鳴るだけで空気が動く。

 女の声はいつの間にか消えて皆が音に集中する。

 最後の弦を弾いても、誰も動かない。動けない。

 (何かおかしかったかしら?)

 反応がないと演奏者は不安になる。

 固まるとなると良かったのか悪かったのか演奏の良し悪しが判断できない。


 「さすが国一番の琴の名手。もう一曲演奏できる?」


 東宮が杏子を称えたことで、観客の金縛りは溶ける。

 本来なら次の妃の変わらないといけないが、東宮が杏子にお願いしているので誰も動けない。

 東宮の意向を無視して行くなど出来るわけがない。

 そのようなことをしたら、都中に教養がない妃として知れ渡ってしまう。

 都で流れる噂は殿上人も耳にするので、もう二度と高位になれないことはないことを示唆する。

 杏子に一方的に話続けた弘徽殿もその取り巻きも動くことはできない。

 動けるのは、東宮と杏子のみ。

 卯紗子は杏子の女房でしかないので、ただ頭を下げて杏子の後ろにそっと控えている。


 「承知いたしました」


 杏子は別の曲を演奏する。

 先までの華やかで豪華な雰囲気から一転して静かな曲。

 音も小さく耳を傾けないと聞こえない。

 (月が出る夜に一人いる姫を思った曲だっけ)

 音色から伝わるのは会えない寂しさに孤独。


 「ー♪」

 「⁈」


 冷たい琴の音色を包み込むかのような温かい笛の音がすぐ横から聞こえる。

 (一人でいる男の元に姫が来たよう)

 楽譜を無視して杏子は徐々に明るい音色を奏でていく。

 派手ではないし華やかでもない。

 控え目だけど音から伝わる、溢れ出る幸せ、幸福。

 琴と笛の音で作り出す二人きりの世界が終わると、


 「飛香舎、楽しかったな。あの場で旋律を変えるのはさすがとしか言えない」

 「東宮こそ、音に合わせて笛を吹くなど私には出来ません。見事でした」

 「また、一緒にしよう」

 「......そうですね」


 後宮から出たい杏子はその約束を果たすことはできないかもしれない。

 でも、気持ちが高揚している東宮の前では否定的なことは言えなかった。


 「次に演奏する者は誰だ?」

 「桐壺様はどうでしょうか?桐壺様も管楽が得意とおっしゃっていたので」


 前方にいる弘徽殿が口を開いたことで、この場にいる者が後ろを見る。

 桐壺とは淑景舎の別名。

 帝や東宮が住む清涼殿から最も遠く、他に殿舎の渡り殿を取らなくてはならないなど非常に不便な場所に位置する。

 そのため、淑景舎を与えられる妃は身分が低い更衣の位がほとんど。

 このような皇族主催の会は、位が高い順に前から座っていくので後ろであればあるほど位が低くなるので、桐壺を見つけようと後ろを振り返ったのだった。

 3人を除いて。

 東宮は妃と対面しているような形で上座に腰を下ろしているので、後ろを見る必要はない。

 では残りの二人はというと、


 「杏子様、桐壺様のことを見ないんですね」

 「前に出る時見られるでしょ。正装で後ろを振り向くのは大変なんだから」


 前にいる東宮のところに行くのも大変だった。

 必要以上に動きたくない。

 じっと耐えている方がまだ軽く感じられる。


 「桐壺は......いないみたいだね」


 後ろを見ている東宮がそう呟くと杏子の後ろにいる他の妃は扇で口元を隠しながら、


 「東宮様主催の遊びに来ないなんてね......」

 「桐壺殿はその辺りの教育を受けてないのでは?」


 桐壺のことを悪く言っていた。

 東宮に聞こえないように声を潜めているが、前に座っている杏子には筒抜け。


 「杏子様、これが女の闘いです。桐壺様は身分が低いので言いたい放題ですね」

 「そうね」


 弘徽殿の発言で桐壺を中心にさせる。そして、いないと分かると罵る。

 (茶番劇を見ているような感じがする)


 「弘徽殿、君も演奏してみてくれ。女御という位に立つのだから、期待している」

 「は、はい!ただいま!」


 後ろにいる弘徽殿が前に出て来て琴を弾く。

 だけど、


 「杏子様の素晴らしい演奏の後だとちょっと......」

 「卯紗。弘徽殿様も上手なんだから」

 「それは分かるんですけど......」


 杏子と次に演奏したことで、下手に見える。

 弘徽殿が下手なわけではない。むしろ上手い分類に属する。

 弘徽殿も予想していなかったのだろう。

 観客の反応で何があったのか悟り、徐々に音が悪くなっている。

 女御の中でも高位に位置する弘徽殿を非難する声はない。

 この場で弘徽殿よりも位が高いのは東宮と杏子だけ。

 だが、妃たちの内側では弘徽殿の演奏を馬鹿にしている。嘲笑ってる。


 「弘徽殿よ、戻っていいぞ」

 「は、はい......」


 逃げるようにして部屋から出ていく弘徽殿と取り巻きを杏子は横目で見送った。


 「ねえ、卯紗。女って怖いね」

 「そうですね。一瞬にして立場が変わりますから」


 華やかで明るい雅な世界。

 そこに咲くのは美しい花々。

 でも、花には棘があって毒に侵されることを杏子は目の前で実感した。
 「ねえ、卯紗(うさ)。淑景舎ってここであってる?」

 「はい!」


 後宮の女を知った翌日、杏子と卯紗子は淑景舎にいた。

 普段は飛香舎にいる杏子と卯紗子が淑景舎にいるのかというと、今から三刻ほど遡る。





 朝食を食べ終わって朝のゆっくりした時間、


 「杏子様、淑景舎様って何か病気なのですか?」

 「うーん。違うんじゃない?病気だったら里帰りさせられるでしょ」


 後宮は死を嫌う。

 新たな命が誕生する場に死は縁起が悪い。

 病気や出産、出家など死と関連があることからは離す。

 その結果、妃は里帰りという名で後宮を出ることになる。

 昨日の感じから、淑景舎は実家ではなく後宮にいる。


 「確かにそうですね。あ!物忌みではないでしょうか?」

 「それって、夢見が悪かったり、不安なことがあったり、穢れを避けたいときにするやつだよね。一定期間物忌みをすると身を守れるっていう胡散臭い奴」


 物忌みとは指定された時間、どこにも行かず、来客とも会わずに引きこもること。

 破ると恐ろしい目に遭ってしまう......らしい。

 当然のことながら、杏子と卯紗子は信じてない。

 不安なことがあっても夢見が悪くても外に行ったり、誰かと会ったりしているが、恐ろしいことにあったことない。


 「でも貴族の間では信じられているそうですよ。物忌みなら仕方ないですよね」


 (なんでこんなことを信じるのかしら?)

 こんなにも胡散臭いことを信じてやっている貴族に疑問を感じる。

 でも、これを使えば皇族から呼ばれても断ることが出来るのでは?


 「また何か思いついたのですか?」

 「ちょっとね。......淑景舎様のとこに行ってみない?」

 「杏子様、淑景舎様は来客と会えないんですよ?」

 「まだ物忌みだって決まった訳じゃないもの。卯紗、行くわよ!」

 「せめて、昼になったらにしましょう。きっとこの時間は仕事してますよ」

 「仕事って?」

 「ええっとそれは......」


 笑顔でぐいぐいと聞いてくる杏子に卯紗子はたじたじとなり、時は進む。






 そして、今、杏子と卯紗子は渡殿を歩いて内裏の端、淑景舎に来ていたのだった。


 「どうやって、中に入りましょう?」

 「声かけてみる?」

 「いきなり飛香舎に住んでいる方が来て話しかけたら驚きますよ?」

 「確かに。なら、どうしよう?」


 杏子と卯紗子が淑景舎の前でうろうろしていると、中から一人の女性が来た。

 飾りけのない着物で身を固めている。

 侍女なんだろうか?


 「こちらは淑景舎様の宅です。何か御用があるのですか?」

 「わたくしは飛香舎にいる杏子と申します。淑景舎様に会いに来ました」

 「飛香舎様、ですか⁈中でお待ちください」


 全く顔が動かない能面のような侍女に連れられて、杏子と卯紗子は中に入ることができた。


 「部屋の主が違うとお屋敷の雰囲気は変わりますね」

 「ほんとね。ここは必要最低限な物しか置かれてなくて洗練されている。ここに案内してくれた侍女みたいね」


 床には畳が敷かれて、部屋の隅には火鉢が置かれている。

 それだけしかこの部屋にはない。

 杏子の部屋には人には見せられない物に書物や灯り。

 杏子も自分の部屋には必要以上置かない主義で(他の貴族の娘よりも)物は少ないと思っていたが、上には上がいた。


 「これだけでよく生活できるね......。外に出ることも出来ないのに。私だったら、暇死にする」


 物に覆われて刺激を得る生活に慣れている杏子は物がない生活では生きていけない。


 「飛香舎様。遅れて申し訳ございません。こちらは我が主でこの淑景舎の主です」


 能面侍女も後ろから出てきた人物は......。


 「「⁈」」


 見た目が杏子そっくりだった。

 似ているなどの易しい言葉ではなく、同一人物のようだった。


 「あ、杏子様が二人......?」

 「私も初めて見た時は驚きました」


 侍女二人が驚いている中、本人たちはというと


 「「......」」


 お互い見つめあっているだけだった。

 驚きすぎて言葉が出ないと言った方が近いかもしれない。


 「杏子様、本題に入りませんか?このままだと日が暮れてしまいますよ」

 「そ、そうだね。えっと......わたくしは飛香舎にいる杏子と申します」

 「わ、わたくしは......ゆ、雪子......です......」


 消えそうな声で杏子の前に座る女性、雪子は挨拶をした。

 姿は一緒だが、性格は真反対なのかもしれない。


 「雪子様って物忌みではないのですね」


 猫を被って奥ゆかしく演じる杏子の姿はまさに次期中宮最有力候補に相応しい空気をまとっていた。

 演技だと分かっている卯紗子、外でのやり取りを知っている能面侍女はともかく、雪子は初対面。

 (杏子様が深窓の姫君と呼ばれているのも分かります)

 雪子は盛大に勘違いをしてしまった。


 「奥ゆかしくて心優しい杏子様はわたくしのような者にも手を差し伸べて下さるのですね......。ですが、今のわたくしは物忌みをしておりません。遠いところから足を運んでいただいたところすみません」


 (お、奥ゆかしい......?)

 猫被りすぎたのだろう。

 見た目だけは深窓な姫君に追加された姫君風口調。

 中身は外に出ることを夢見る活発な姫君など誰が思うのだろうか?


 「同じ内裏内ですのでこれぐらい大丈夫ですよ。わたくしが心配して来てしまったので」


 実家にいた時は毎日のように外に出て市を見たり、農作業をしていた。

 渡殿を歩いて内裏の端にある淑景舎に行くぐらい造作もない。


 「心配、ですか?」

 「ええ。昨日、東宮主催の遊びがあったのですが、雪子様がいらっしゃらなかったので。何かあったのではと思い来てしまいました」

 「そう、ですか......」

 「杏子様、昨日の遊びにて、あの方、弘徽殿殿らが何かしてましたか?」

 「そうね......。弘徽殿様の演奏が中々独創的なぐらいで、あとずっと話していたかな。弘徽殿様の兄君は漢詩が苦手なことしか聞いてなかったけど」

 「杏子様、そのようなこと言ってましたっけ?弘徽殿様の自慢話のような感じで一方的ではなかったじゃないですか?」

 「あ、そんなこと言ってたの。私、弘徽殿様の兄君が書いた文の内容のことしか頭になかったので」

 「あの、杏子様、失礼を承知の上ですが、その文見せていただきませんか?」

 「もちろん」


 (持って来ておいて良かった)

 雪子に見せるためではなく、火鉢の燃料用にしようと思って持ってきた物だが特に問題はない。

 袂から出した無駄に高級感を感じられる撫子の文を開いて、床にそっと置いた。

 (そういえば中ちゃんと開けてなかったっけ)

 季節の話から進み、問題の漢詩が書かれていた。


 「......これ、大丈夫なんでしょうか?杏子様を求婚しているようにしか見えませんけど」

 「雪子様って漢文が分かるのですか⁉」


 漢字は男がするもので、仮名文字は女がするもの。

 そのため、女が漢文を習うのを良しとしない風潮がある。

 杏子が漢文を読めるのは、家系の仕事で漢字を使う必要があったのもあるが、一番の理由は母の紀子が教えてくれたからだった。

 (家族以外で漢文を読める人がいるなんて......!)

 後宮の妃たちは高い教育を受けているが、漢文が出来る者はほとんどいない。


 「後宮に来て一番良かった出来事かも知れない!」

 「杏子様、取れてますよ」


 何がとは言うまでもない。

 雪子とのやり取り中ちょくちょく素が出ていたが、まだ隠しきれていた。

 だが、これは隠していない。

 『おしとやか』の『お』文字もなかった。


 「ええっと、杏子様?」


 雪子は奥ゆかしいと思っていた相手が一変して、気分が好調して興奮している様子に戸惑ってしまう。

 (もしかして、杏子様って噂通りの人じゃない......?)

 雪子の気持ちが顔に出ていたのか、雪子の問いに卯紗子が応えた。


 「雪子様、その認識で合っています。杏子様はその見た目だけが噂されています。本当は好奇心で動く噂とは反対の魅力的な方なんですよ」

 「......貴族らしくないわたくしを見て幻滅しましたか?」

 「まさか。少し驚きましたが、わたくしは素の杏子様の方がその......す......好き......です......。わたくしそっくりの杏子様が落ち込んでいるのは気になってしまいますし」


 (雪子様って良い方......!仲良くできるかな?たしか仲良くなるには共通点から話すのが良いって柏陽お兄様や右近(うこん)兄さまが言っていたっけ)

 右近とは柏陽の弟兼杏子の兄で文官として働きながら、裏では情報収集に勤しんでいる。


 「あ、あの、どこで、漢文の知識を?」

 「話が随分と飛びましたね」

 「良いじゃないですか、玲子(れいこ)


 あの能面侍女の名前は玲子だったのか。

 そんなどうでもいいことに杏子は食いついてしまう。


 「ようやく名前が知れました!これから、よろしくお願いしますね」

 「こちらこそ、何卒よろしくお願い申し上げます、杏子様」

 「えっと、わたくしの漢詩の知識、ですよね。わたくしは後宮にいたことがある祖母と母から教えて頂きました。こちらの漢文は実家で読んだことがあったので分かりましたが、偶然ですよ。わたくしは女御様や他の更衣の方よりも教育は受けておりませんので、知らないことの方が多いです」

 「そんなことないですよ、雪子様。漢文の知識を持っている貴族女性は少ないです。教養に自信がないのなら、良かったらわたくしが教えましょうか?とは言ったものの、わたくしも興味がない教養については自信がないのですけど」


 漢文に和歌はまだできる。

 だが、貴族相手の対応は無理。

 上辺だけを褒めて胡麻をすって来る者の対応の仕方が分からない。

 後、陰湿な女達と話すのもできない。

 回りくどくされても意味は伝わるが、返答に仕方に困る。

 それだったら、適当に聞き流すだけで相手が満足してくれる弘徽殿のような人の方がまし。


 「良いのですか......?わたくしは更衣で盛りが終わった貴族出身です。教えて頂くのに何も返せません......」

 「返しは必要ないですよ?わたくしの個人的なことですし」

 「左大臣家出身の杏子様とわたくしが対等だなんてとんでもございません......」


 (これは何か返しを考えないと......。雪子様と一緒にお茶会、じゃなくて勉強会が開けない)


 杏子にとって必要なのは身分ではなく、その人個人の中身だ。

 身分の権力を使って事態を治めることは出来るが、せっかく距離が近くなった雪子が離れてしまう。

 それは避けなければならない。

 だが、雪子から杏子への贈り物となると莫大な金が掛かって雪子の家の経済状況を圧迫してしまう。

 (金銭が掛からないお返し......)


 「それなら、お返しに雪子様。わたくしの友人になってください。これほど瓜二つな外見を持ち、漢文の知識を持つほどの教養の深さ......。これから、楽しい毎日が始まりそうですね!」

 「わたくしのような者が杏子様のご友人......。ご迷惑をかけますが、これから、その......よろしくお願いします」

 「初めての貴族の姫君とお友達になれました!これは、報告しなければいけません」


 気分は最高潮。

 明日にでも文を書いて、報告しょうと意気込んでいる杏子に卯紗子が聞いてきた。


 「誰に、ですか?杏子様?」

 「それは、家族、だけど?」

 「九条の家にわたくしのような小者が知られるんですか......」


 杏子そっくりの顔が恐怖と不安で死にかけていた。

 これには、杏子も


 「やっぱり、伝えないでおきますね。わたくしの友人が父や母、兄に弟に取られてはいけませんから。帝も東宮も魅力で溢れている雪子様を放置にはしませんよね。わたくし、今度、東宮と会う時、雪子様の素敵なところを教えますね!」


 伝えないようにした。

 雪子が死にかけていたのは身分の差であって、理由は異なっているが。

 だが、なぜ、それが杏子の実家ではなくこの世で最も尊い帝と東宮になるのか?

 自己肯定感が低い雪子は顔が真っ白になっていたが、雪子には

 (帝にも、って帝?)

 何か忘れているような気がした。

 結構最近の出来事で......たぶん後宮にはいて......。

 全く思い出せない。


 「み、みか、どに、東宮陛下......」


 力が抜けたのか雪子は崩れ落ちて行った。


 「雪子様⁉わたくしが帝や東宮に伝えると言ってしまったから......」

 「杏子様、そんな顔をしないでください。わたくしは更衣とはいえ東宮の妃です。東宮と帝に関わっていくかもしれないのに、間接的に伝わるだけで震えてしまうのは変えないと、ですよね......」


 まだ青白い雪子は小さいながらもしっかりとした意思があった。


 「ゆっくりと慣れていきましょう!そうですね......。確実に皇族と会えるのは次の東宮主催の会です」

 「杏子様、何をするんですか?昨日と同じ遊びですか?」

 「たぶんそうじゃないかな、卯紗。基本的に会は宮中の年中行事に合わせているの。今の時期は特に何もないから、遊びか和歌かな」


 織姫にあやかって七夕では裁縫を披露する、端午の節句には薬玉を作るなど決められたことをする会があれば、季節関係なく杏子と卯紗子が参加した会のように遊びをすることもある。


 「遊びに、和歌、ですか......。行けたらいいですね」


 (行けたら?)

 東宮主催の会は後宮にいる更衣や女御の参加を求められていて、官女や女房なども参加することは可能だ。

 更衣の位を持っている雪子が行けないわけがない。

 (失礼だけど、後で調べてみようかな......。雪子様は言いたくなさそうだし、玲子は何を思っているのか分からないし)

 そんなこと思った時、外から声が聞こえた。

 幼さが残るたどたどしい幼子の声。

 雑事を行う女蔵人だろうか。


 「失礼します、淑景舎様。食事の準備が出来ました」

 「もうそんな時間が経ったのですか⁈杏子様、帰りましょうか」


 この部屋の外と繋がるところには御簾があり、光が遮断されて昼間でも夜と変わらなかいほどの暗さだったので、時間感覚が狂ってしまう。

 杏子の家、飛香舎でも御簾や障子があるが、ここほど暗くはない。

 光が入る昼間では灯りを使わずに暮らしている。


 「そうね。帰ったら、文に詳しくお勉強会のことを書いて届けますね!では、失礼します」

 「お手紙、楽しみに待っていますね......!」


 雪子に別れを告げて淑景舎に出ると既に日は落ちて、時折冷たい風が杏子の長く美しい髪を靡かせた。
 「まだ、神無月に入ったばかりなのに、夜になると冷え込みますね......」


 秋の終わりを感じる風が渡殿を抜けていく。

 上は何枚か着物を着ているが下は袴だけでかなり寒い。

 文明発達したどこかにある床暖房なんて存在しないので板間の床が冷たい。

 まだ、冬でもないのにここまで寒く感じてしまうと本格的な冬が来たらどうなってしまうのか。

 内裏の冬を越えることに不安しかない。

 言ってしまえば、後宮で冬を過ごせない自信がある。


 「卯紗子、冬の間、ここから出れたりしない?」

 「来たばかりの女御が出たら、子が出来たと勘違いされますよ?杏子様、私が暖かく感じてもらえるように頑張ります!」

 「卯紗、今日からでもお願い」

 「まっかせてください!主である杏子様の期待に応えるのが私の仕事です。舎に付いたらすぐに火鉢の準備をしますね。あ、見て下さい。弘徽殿まで来ましたよ」

 「ここが?」


 飛香舎よりも一回り程大きい建物が右手側にあった。

 渡殿から見える庭には華やかを通り越して派手過ぎる花や植物が植えられていた。

 長押から垂れさがる布、壁代も下地が白だけど模様に明るい色が何色も使われているせいで、目が痛くなる。


 「あら、飛香舎様?何故そちらからきているのですか?あ、わたくしに会いに来てくださったとか。嬉しいです!そういえば、兄上が返事を持っていましたよ。もし良かったら書いて下さいな。もしかしてもっと兄上の返事がほしいですか?わたくしが頼んでみますね。それで」


 またあの文が届くのか。

 火鉢の燃料が増えると思って喜んでおこう。

 でも、今はそんなことよりも

 (寒い......)

 立ち止まったせいで体温が上がらず、体が冷えてきた。

 (後どれくらい続くんだろう?)

 寒い外の中が終わりが見えない話に付き合わされるこちらの身にもなってほしい。

 ただ立っているよりも、何かした方が寒さが和らぐかもしれない。

 周りを見ると、ちょうど良さそうな時間潰しにできる物があった。

 弘徽殿が着ている着物の柄を数えるのが簡単そうに見えて難しい。

 柄が重なっていると数えづらい。

 中々やり応えがあって楽しい。


 「ー。では、楽しみにしていますね」

 「は、はい......?」


 何を話したのか知らないが、これで拷問のような時間は終わった。

 早く家に帰ろう。

 弘徽殿が後ろを向いた時には、杏子と卯紗子は走っていないぎりぎりの速さで移動していた。





 飛香舎の庭に帰ると、


 「どこに行っていたんですか?女御様、卯紗子。舎にいなかったから、食事は後で持って行くそうだ。女御様が来たことだし運ぶように伝えてくわ」

 「ありがとうございます、柏陽兄さま!」


 弘徽殿とは違って話が短く、こちらが話す間を作ってくれる兄に感動する。


 「どうしたんだ?何かあったのか?」

 「話たいことは山々なんですけど、色々あって体を温めたいのでもう少ししたらで良いですか?」

 「ああ。もちろんだ」





 柏陽の許可を貰って中に入ると、


 「すぐに準備しますね」

 「お願い」


 卯紗子がすぐに準備するほど寒かった。

 ほぼ外のような渡殿と比べたらまだ暖かくは感じるし、床は畳なのでそれほど冷たくない。

 だが、風通しが良すぎて外からの冷風が中に入って来る。

 (もう我慢できない)


 「卯紗。わたくしもやる。一人で準備をするより二人でした方が早くできるもの。わたくしが炭を持って来るので、卯紗は寒い中悪いんだけど火を持って来てくれる?」

 「杏子様......!では、外に行って来ますね!」


 卯紗子がいなくなって、杏子は物置になっている隣の部屋から炭をいくつか持ってきた。

 火鉢の中に入っている灰を綺麗にならしてその上に五つの炭を中心におく。


 「杏子様、火、入れますね」


 小さな松明を持って帰って来た卯紗子が炭に火をつける。


 「これで火鉢が出来た!まだ冷たいけど、もう少ししたら暖かくなるよね」


 かじかんでいる手がじんわりと暖かくなっていく。

 部屋はまだ冷たいが、火鉢周辺はすでに暖かくなってきていた。


 「女御様、食事持ってきましたよ」

 「今行きますね、柏陽様」

 「卯紗。柏陽兄さまに上がるよう言っといてくれる?話たいことがあるから」

 「分かりました」


 しばらくするとお膳を持った卯紗子と柏陽が帰って来た。

 今日の食事は、いつも通りの少し固めなお米が主食。

 主菜は焼き魚に何かの肉。

 川で釣った魚を干物にして、狩りで取った物を出したのだろう。

 副菜に野菜のおひたしに漬物に他もろもろ。

 その奥にはもち米の粉を練って焼いた煎餅のようなものが置いてあった。


 「女御様ってこのような物を食べていたんですか」


 杏子や柏陽、卯紗子の家ではこんなに品数がある料理を目にしたことがなかった。

 基本的に一汁三菜。

 白い米ではなく、玄米に、その日取れた物を使って作る汁とおかずに長持ちする漬物。

 上流階級の貴族とは思えないほど質素な物を食べていた。


 「わたくしも最初出された時、驚きました。いつも一人で食べきれないので卯紗子と一緒に食べているんです。でも、わたくしは正直に申しますと家の方が美味しい」

 「こちらの食事は豪華ですけど冷たいんですよね」

 「......毒見をしているから、か」


 階級が上がるほど毒を盛られる可能性がある。

 何人かの人が確かめる分だけ時間がかかり、せっかくの暖かい食事が冷めてしまう。

 杏子の家では出来立ての食事が出されていたせいか、冷えた食事がどれほど味が落ちているのかを実感する。


 「毒見なんて必要ないんですけどね。だって、毒が入っているくらい自分で見抜けますもの」


 杏子の家でほかほかのご飯が出てきた理由。

 それは、毒見をしていなかったから。

 自分たちで毒入りなのか判断できるので必要がない。


 「一見普通に見えても、気で直ぐに分かる。だって、それは所有物なんだから」


 言葉に責任を持つという言葉がこの世の中に存在するが、それはあながち間違いではない。

 そして、言葉だけに留まる小さな話ではない。

 一度話してしまった言葉、一度触れてしまった物。何だったら自身の行動も入る。

 だって、それらは全て自身がしてしまったこと。

 物のように分かりやすくなければ、気づくこともできず、目に見ることもない。

 だが、それら全てには所有者がいる。

 この世に解き放してこの世界に生み出した者がいるから。

 所有者を気として見ることができるのが、杏子、柏陽の実家である九条家だった。

 初代帝の時代から今までずっと帝の傍に仕え続けていた家。

 でもそれは表の姿。

 裏では、全ての行動は自身の所有物という理に従って呪いをかける術師、呪師の家。

 呪いを含む黒魔術は帝によって禁止されているが、唯一許されている。

 帝を含む皇族に害意を生す邪魔者をいつでも排斥できるように。


 「柏陽兄様。実は調べて欲しいことがあるのです」


 誰が邪魔者になるのか分からないのと、相手を確実に失職させるためには、情報取集は必至。

 武官側では兄の柏陽が、文官側では父ともう一人の兄、右近が、貴族女性の方は母と祖母が、後宮に関しては杏子が、家族総出でやっている。


 「誰か呪いたいのか?」

 「まさか。ただ知りたいだけですよ?」

 「本当ですか、杏子様?」


 杏子は完全に呪いをすると思われているようだ。

 ただ単純に調べたいのにそこまで疑われるとは、一体何をしたんだろうか?


 「ほんとだよ!淑景舎様と弘徽殿様について調べたいんです。こちらからも調べるのですが、後宮は陰謀が巻き、自分にとって都合のいいような噂が流れるところ......。人の主観が入っていて事実かどうか照らし合わせないといけないんです」

 「......思った以上にやばい世界なんだな。分かった。今からでも調べよう。卯紗子、紙と筆、針を取ってくれ」

 「分かりました!すぐに持ってきますね」


 卯紗子が隣の部屋から上質な紙に筆、なんで妃の部屋にあるのか分からない鋭利な錐を持ってきた。


 「よくこんな錐、持って行けたな。東宮の反逆を疑われてもおかしくないぞ?」

 「東宮と帝にはすでに伝えていますし、ただの棒にしかみえないので大丈夫です」

 「蓋さえすれば、ですけど。あの柏陽様は何を書いているのですか?」


 柏陽は卯紗子が持ってきた紙に漢字とも仮名文字とも言えない文字を書いていた。

 これだけでも不快感が募ってくる。


 「卯紗、これは呪文を書いているの。柏陽兄さまの字が少し達筆で癖があるので読めなくても仕方ないです」

 「......字が汚いということか?」

 「そんなこと言っていませんよ」


 (ばれたか)

 にこにこ笑って杏子は誤魔化す。

 でも柏陽の字が乱雑なのは事実。

 慣れている杏子でも読みにくい。


 「あ、あの、柏陽様、この針は何に使うのですか?」


 火鉢のおかげで暖かくなってきた空気が極寒に変わる時、卯紗子が柏陽に質問をした。

 杏子と柏陽の喧嘩は冷たい。

 いつもは中間に右近がいて収めてくれるが、今日はいないのでかわりに卯紗子がすることになった。

 上流貴族の兄弟喧嘩の仲裁......。

 女房である卯紗子の命がいくつあっても足りないことにはたして当事者達は気づいているのだろうか?


 「ん?それは今から使うんだ。杏子、卯紗子の前でしたことないのか?」

 「わたくしが昔一人でやったら大変なことになったので、わたくしは父上か母上か伯母上の前でしか出来ないのですよ」

 「そういえばそうだったな」

 「私が杏子様に引き取られる前に何をしたんですか?」

 「それは」

 「柏陽兄さま!それ以上はだめです」


 (私の黒歴史が......)


 「別に良いだろう。あれは」

 「柏陽お兄様!義姉様を呼びますよ?」


 こうなったら最終手段。

 柏陽の幼馴染で未来の姉に手伝ってもらわねばならない。


 「おい⁉なぜそこにあいつが出てくるんだ⁈」

 「妹のお願いを聞いてもらえないのなら、姉に相談するしかないですね」


 柏陽の幼馴染は柏陽よりも年上で杏子の姉みたいな人。

 暴走しがちな柏陽と杏子の手綱を握っていられる肝っ玉で、まだ結婚はしていないが杏子の家ではすでに家族同然の扱いを受けている。


 「......分かった。卯紗子、話すのは今度で良いか?」

 「私はただの興味で聞いてしまっただけですので、構いませんが、大丈夫なんですか?」

 「......なんとかする。えっと、呪文を書くとこまでいったら、この針を指に刺す」


 柏陽は躊躇なく針を親指に刺した。

 すると、穴からは溢れんばかりの朱色をした液が出てきた。


 「この血は誰がやったかの証であり責任となるの。文字の傍に付けて折れば完成」

 「......見るからに痛そうですね」


 傷自体は小さいが液の通り道に刺したのかまだ流れている。

 乾ききっていない墨の上に押したのか、柏陽の指は黒く、まだらに朱が入っているので、慣れていない者は見るのを躊躇ってしまう。


 「柏陽兄さま、外で手を洗ってきてください。折るぐらいわたくしがしてもいいでしょう?」

 「そうだな。それぐらい大丈夫だろう。卯紗子、杏子がおかしなことをし始めたらすぐに止めろ」

 「かしこまりました」


 忘れずに注意勧告をして柏陽は部屋から去った。

 (そんなに言わなくても大丈夫なのに)

 杏子が幼少の頃にしたことの印象が強すぎて未だに一人で呪いをすることを止められている。


 「折るだけでもできるようになった、と前向きに考えましょう」


 杏子は慣れた手つきで紙を綺麗に折っていく。

 杏子の手から生み出されたのは


 「鶴、ですか」

 「鶴は空を飛べるし、人に見つかっても問題にならないの。鶴よ」


 杏子が折り鶴に声を掛けた瞬間、鶴が動き出した。


 「淑景舎にいる雪子を監視をしなさい」


 その命令に心得たと言うように、翼をはためかせて部屋から秋空へ飛んでいった。


 「さて、もう一つ作らないとね。まだまだ夜は長のよ、卯紗」

 「分かっていますよ、杏子様。杏子様がそのような顔をしている時はいつも徹夜ですから」

 「さすが、私の女房ね」


 そう言った杏子の顔は好奇心が抑えきれていなかった。
 何か悪い予感がするが、俺、柏陽は杏子の元へ戻らずに一人の元へ訪ねた。

 もちろん、杏子のところには別の武官が護衛をしている。


 「右近、実は杏子から」

 「兄上、杏子はもう女御で我々よりも位は高いのですよ?」


 別に良いじゃないか。

 今いる場所は右近の部屋。

 周囲の人間には聞こえなくなっているのに、わざわざ気にする必要があるのか?


 「兄上、もしかしたらこの呪具に問題があって、誰かに聞かれたらどうするんですか?位が高い者を下げたい者は大勢いますよ。まあ、私なら、下げたい者を返り討ちにして集めた情報を元に、逆にこちらが位を下げますけどね」


 にっこり笑っているが、言っていることはかなり物騒だな。

 誰からも好かれそうな気を放ち、知的な見た目をしているが、中身は違う。

 つくづく味方で良かったって思ってしまう。


 「そんなことして目立つようなことはしないでくれよ。父上が左大臣。母上が内親王。杏子が女御。これ以上看板はいらないから」


 ただでさえ、高い位が多いせいで知らない人から急に絡まれたりするのに、これ以上仕事を増やすな。


 「言ってみたかっただけですよ。東宮からの仕事と同僚の文で忙しいのに、仕事なんて増やせませんよ」

 「話したいことがあったが、その前に同僚の文って?」

 「同僚の文官から文を代筆するように言われたのですよ。でも、これが中々に面白くて、やめられないんですよね。今では大半の若い文官と一部の武官の女性関係を把握しました」


 見た目だけは知的だからな。

 頼むには打ってつけだろう。

 だが、こいつに情報を渡していることになるが。


 「それで、話とは何ですか?」

 「さっき、杏子......女御から弘徽殿殿と淑景舎殿について調べるよう頼まれた。どうやら、後宮では調べるのが難しそうでな。一応、式を作っているが、どこまで集められるかが分からない。そこで、右近にも手伝ってもらいたい」

 「弘徽殿様と淑景舎様ね。文官の中で噂になっているのは更衣の淑景舎様が女御の弘徽殿様に恥をかかせたっていうやつ」

 「それは聞いたことがある。ついでに杏子女御と東宮が演奏したっていうのも」


 宮中にいる官なら誰しもが知っている噂。

 先日行った東宮主催の遊びで弘徽殿様が恥をかいたっていうやつか。

 それと一緒に飛香舎様と東宮がこの世とは思えないほど素晴らしい演奏をしたって言うのも聞いた。

 一体何があったんだ?


 「おそらく杏子の噂は後宮の女房から出ていますね。これはその場にいた後宮の者から興奮気味に聞いたので」

 「仕事が早いな」

 「大半の噂は嘘ですが中には本物があります。噂の発信源の様子を見て本当がどうか調べるのが楽しいのですよ」


 意味が分からない。

 情報集めは確かに楽しいが、ここまで情報に執着はしていない、と思う。


 「弘徽殿殿の噂については?」

 「嘘ですね。発信源が弘徽殿様の兄君と弘徽殿の父親だったので。後宮の者に聞いたところ、淑景舎様の姿はなく、身分の高い順に弾いていったと。杏子の演奏は熱烈に話していましたが、弘徽殿様の話になるとみんな歯切れが悪くなっていましたよ」

 「杏子の次に演奏したのか」


 杏子の琴は琴の名手であった母上から教わっていた。

 身内贔屓ではなく、杏子の演奏はこの国一番。

 杏子の見た目効果もあるが、演奏技術が高い。

 全員の意識を向けさせて、感情移入させて来る。

 あの演奏の後はどんなに上手くても見劣りしてしまう。

 弘徽殿殿には同情するな......。

 弘徽殿殿は杏子の次に演奏をしたのだからきっと位は高い。

 直接的に言われてはいないが、空気で分かるだろう。


 「でも、なんでそこに淑景舎殿が来るんだ?」

 「ほら、淑景舎様には後ろ盾がいないんですよ。私は入っていないんですけど、基本、父親はどこかしらの派閥に入っています。濡れ衣にさせたら、噂が回って立場が無くなりますからね。その点、父親がいない淑景舎様はちょうどいいんですよ。しかも実家は没落していますので」


 そんなことを言いながら、右近は茶を啜っている。

 おいしいですね、とか言っているがよくこんな情報を言った後に言えるな。


 「これはどこからの情報なんだ?」

 「父上からですよ。ちょうど、兄上がいなかった時ですね。昔、仲が良かった大納言には一人の娘がいて何とかしてやりたいと言っていましたので、そこから集めました」

 「はあ。でも、なんで杏子は調べるように言ったんだろうな?」

 「そうですね......。目的があるのとないのでは集める情報も変わります。といことで兄上、私が流した情報を渡して、目的を教えて下さい。こちらでも集めるので」

 「分かった。明日でいいか?」

 「できれば今日が良いですね。もちろん杏子が起きていれば、ですけど」

 「こんな夜遅くまで起きているわけないだろう」

 「では起きていたらこの後下さい。寝ていたら、連絡お願いしますね」

 「分かった」


 きっと杏子は寝ているぞ?

 そんなことを思って、部屋から出たがそれは甘い考えだった。





 「あ、柏陽お兄様。お帰りなさい。どこまで洗いに行ったのですか?帰りが遅くて心配でしたよ」


 杏子の目は眠気を感じさせなかった。

 その横にいる卯紗子も同様。

 今は作業を止めているが、机の上には筆と書きかけの紙があった。

 なぜかその横には和歌集と漢詩があったが。


 「何をやっていたんだ?」

 「勉強です」

 「昼間でもできるだろう?」

 「......夜だからこそ良いのです」

 「何一人でやっているんだ⁉」


 一つの紙には漢詩が書かれていていかにも勉強していたって感じがするがもう一方は違う。

 呪いが書かれた紙とぎっしり書かれた紙が散乱していた。

 これはやってたな。

 呪いは昼よるも夜の方の方が強くなる。

 俺も呪いを書くときは夜にしろと言われ続けた。

 必死に隠しても、本当に分かりやすい。

 素直なことは美点だけど、後宮で生きて行けるのか?


 「これは一種の情報集めです。呪いではないので大丈夫です」

 「杏子様は雪子様のために集めていたのです」

 「雪子とは誰だ?」

 「柏陽兄さま、気になりますか?雪子様はわたくしの友人です。今日、話をしていたら少し反応がおかしいところがあったので、気になって調べていたんです」


 杏子の友人ってことじゃなくて、どんな位についているのか気になるのだが。


 「あー、杏子。雪子殿の位は?」

 「あれ、言っていませんでしたっけ?淑景舎ですよ。柏陽お兄様に調べて欲しい方の一人です」

 「それなら弘徽殿殿も友人なのか?」

 「......いえ。わたくしは友人とは思っていません」

 「......先日の遊びで弘徽殿様は雪子様を落とそうとしたのです。ですが、東宮陛下の一言で落ちたのは弘徽殿様の方でしたが」

 「卯紗子、今日は遅い。明日詳しく教えてくれ」

 「は、はあ。かしこまりました」

 「杏子。今日はそれくらいにしとけ。明日、右近も連れてくる」

 「分かりました。おやすみなさい、柏陽兄さま」

 「ああ、お休み」


 これは、今日寝られないな。

 まだ俺の長い夜は始まったばかりだった。
 一方でその頃、徹夜が決定した杏子は


 「さて、柏陽兄様がいなくなったことだし、調べとこう!」


 深夜テンションで気分が高揚していた。


 「あの、調べるってどうやるのですか?今は深夜です。こんな時間にいるのは変な男で姫君はいらっしゃいませんよ」

 「部屋の中に入ってもらうの。さっき雪子様のところに式を飛ばしたでしょ?もう少ししたら、火から見えるようになるよ」

 「もう少しって、え⁉」


 灯りに使っていた蝋燭から雪子と玲子の姿が映し出された。


 『雪子様、こちらは?』

 『気づいたら部屋にあったのです。きっと風に飛ばされたのでしょうね』


 「雪子様と玲子様の声が聞こえています......」

 「でも聞こえるだけで、こっちからは何を話しても伝わらないよ。さあ、弘徽殿様のところに行く式をはやく作らないとね。貴族の話は夜にすることもあるから」


 杏子は柏陽と同じように、和紙に漢文を綴って血を少々垂らしてから鶴を折る。


 「弘徽殿のところへ」


 これまた同じように部屋から飛んでいく。


 「不思議な光景ですね」

 「卯紗も慣れるよ。さあ、情報を集めるよ」


 二人で小さな蝋燭に映る画面をじっと見つめている。


 『雪子様。杏子様には伝えなくてよろしいのですか?あいつよりも家柄、教養が高い杏子様ならきっと』

 『玲子。......伝えなくて大丈夫です。更衣であるわたくしが帝との縁戚であるからでしょうね。これはわたくしの問題。友人である杏子様を巻き込みたくないのです』

 『ですが、この間の遊びでは渡殿に閉じ込められたせいで行けず、雪子様はさらにあいつからいじめられています』

 『玲子、わたくしよりも上のくらいである弘徽殿様をあいつと呼んではいけませんよ』


 「弘徽殿様が雪子様を閉じ込めたのですか。でも、そのようなことは可能なのですか?」

 「......可能よ。多くの人を味方につければ、だけど」


 それぞれの殿と舎を繋ぐ馬道(殿舎の中を貫通している板敷きの廊下)の両端の戸に鍵をかけることで、閉じ込めることは可能。

 まさかそれを本気でやる人がいるとは、驚きで声が出ない。


 「信じられないですね。帝の縁戚だからって理由だけでするなんて。これが女の世界ですか」

 「弘徽殿様の家は最近成りあがって来た家で皇族の血が流れていないの。だから、更衣でありながら帝との繋がりがある雪子様が目障りなのね」


 杏子のような上に立つ家ならともかく、下に位置する家に皇族の血が流れているなんて考えたくもないだろう。

 自尊心が高い家ならなおさらそうだ。

 でも、これはやりすぎる。


 「杏子様、こちらの蝋燭が光っています」

 「弘徽殿に着いたようね」


 覚束ない蝋燭の火からでも分かる派手なところ。

 外装だけではなく、中にも色彩豊かな布が飾られていた。


 『女御様、噂は宮中の中ではかなり知られるようになりました』

 『ありがとうございます、父上。せっかくわたくしが桐壺に視線を向けて、閉じ込めた桐壺の評価を落とそうとする計画があの言葉のせいで......!藤壺様が、飛香舍様が、国で一番の名手というのが誇張でもなく真実だったんなんて見るまで思いませんわ』

 『落ち着いて下さい、女御様。そのようなこと、誰が聞いているのか分かりませんよ。それで、女御様。東宮の寵愛は?』

 『ここのところないですね。おそらく藤壺様のところへ行っているのでしょう。父上、兄上、東宮の寵愛よりも藤壺様と仲良くなった方が良いかと思います。わたくしでは敵いません』

 『藤壺様は次期中宮最有力候補で父君は左大臣、母君は帝と同母妹の内親王、兄君は帝、東宮からの信頼が厚い武官に文官......。こちらの方が良さそうですね。では私はもう一度藤壺様に文を渡すとしよう』

 『ではわたくしは藤壺様と仲良くなって、従う家の者以外を排斥しようと思います。......更衣のくせに帝との縁があるあの更衣に何をしようかしら?父上は左大臣との縁をよろしくお願いしますね』


 「......卯紗、藁ってある?」


 (ちょっとくらいしても良いよね?)

 大事な友人をいじめた犯人が分かった。

 ちょっとくらい懲らしめないと、この感情を止めることはできない。


 「ありますけど......。何に使うのですか?」

 「呪い。藁と......あと紐も。できれば鋭利な物が欲しいけど、この錐で我慢しよう」

 「杏子様⁉だめですよ」

 「なんで?わたくしの友に手を挙げた者ですよ?」


 丁寧に言わないと感情を抑え込んでいる理性が吹っ飛ぶ。

 杏子は貴族の常識から吹っ飛んだことを考えたり夢見ているが、基本的に性格は温厚。

 権力を振りかざすことはなく、どんな身分でも実力さえあれば仕事を与え、考えが合うのなら雪子のように友人となる。

 世間からどんなにひどいことを言われても気にしない。

 でも、それが、杏子以外だったら?

 杏子はどんな相手だろうと怒り、その者を守ろうとするだろう。

 そんな杏子の姿を知っている卯紗子は杏子を落ち着かせるために必死で答えた。


 「杏子様、ここは様子を見ましょう。杏子様のご友人の雪子様が弘徽殿様にいじめられているのは二人のことを見たから分かったことです。ですが、これは杏子様と私しか知りません。これを弘徽殿様に伝えても信じてくれません。そして、なぜ事情を知っているのか裏で探られます。弘徽殿様が雪子様をいじめているという証拠が集まってからはどうでしょう?」


 卯紗子の必死な提案は受け入れられたのだろうか?

 先程まで笑っていない笑顔を見せていた杏子の顔はいつも通りに戻っていた。


 「......確かにそうね。何も考えずに動いて相手に弱みを見せるわけにはいかない。でも雪子様を弘徽殿様からどうやって防ごう?表立って動いたら雪子様に知られるし、弘徽殿様も分かるよね」

 「それでしたら、杏子様が淑景舎に行ったらどうでしょうか?外にでることはなくなり雪子様は弘徽殿様から多少の攻撃は防げると思います」

 「それは良い考えね!勉強会をするなら卯紗子も勉強したら?少しでも知識があるだけで頭の入り方は変わるよ」

 「そうですね。では、私は玲子様に勉強会についての文を書いて、知識を深めようと思います」

 「頑張って。わたくしは......そうね......。情報の整理かな」


 ここには卯紗子が持って来てくれた紙がまだまだある。

 今知った情報も時間が経ったら霞んで思い出せなくなる。

 雪子の事情、弘徽殿の家の陰謀をまとめている横では和歌集や漢文の心得を読んでいる卯紗子がいた。

 (懐かしい。わたくしもこうだった......)

 実家で教養を叩きこまれていた杏子そっくり。

 和歌や漢文に琴など、貴族女性が知っておくべき知識を得ないと外に出してはもらえず、呪いの練習にもできなかったので、必死に覚えた。

 でもそれらが一番行きたくない場所で役に立つなんて、人生は不思議なものだ。

 感慨に更けているとどこからか声が聞こえた。

 手を洗いに行った兄が帰って来たのでは?

 一人で禁止されている呪いを見つかったら何を言われるか分からない。

 もしかしたら呪いを禁止されるかもしれない。

 別の場所が見える蝋燭の火を慌てて消して、


 「卯紗、勉強中申し訳ないんだけど、柏陽兄様が来たから片付け手伝ってくれる?」

 「それは一大事ですね」

 卯紗子に見られては困る物を隣の部屋に移してもらった。

 片付け?を終えた卯紗子と柏陽が部屋に入ってくるのは同時だった。

 (危なかった......)


 「あ、柏陽兄様。お帰りなさい。どこまで洗いに行ったのですか?帰りが遅くて心配でしたよ」


 つい先ほどまでばたばたしていたことを微塵にも感じない優雅でおっとりとした様子で柏陽に挨拶をした。

 部屋に入ってくるまで気づきませんでした風の演技。

 (これなら、誤魔化せる)


 「何をやっていたんだ?」

 「勉強です」


 杏子はにっこり笑って答える。

 別に嘘ではない。

 卯紗子は勉強していた。


 「昼間でもできるだろう?」

 「......夜だからこそ良いのです」


 (夜が深くなるほど気分が上がるという方はいるから大丈夫)

 机の上にある紙。

 大半は情報の紙だったが、一部、慌てたせいで片づけられなかった呪い関連の紙が含まれていた。

 (あ、積んだかも)

 案の定、


 「何一人でやっているんだ⁉」


 と、柏陽の雷が落ちてきた。

 でもここで終わるわけにはいかない。


 「これは一種の情報集めです。呪いではないので大丈夫です」

 「杏子様は雪子様のために集めていたのです」

 「雪子とは誰だ?」

 「柏陽兄様、気になりますか?雪子様はわたくしの友人です。今日、話をしていたら少し反応がおかしいところがあったので、気になって調べていたんです」


 (呪いで)


 「あー、杏子。雪子殿の位は?」

 「あれ、言っていませんでしたっけ?淑景舎ですよ。柏陽お兄様に調べて欲しい方の一人です」

 「それなら弘徽殿殿も友人なのか?」

 「......いえ。わたくしは友人とは思っていません」


 友人をいじめた弘徽殿を友達だなんて誰が思うのか。


 「......先日の遊びで弘徽殿様は雪子様を落とそうとしたのです。ですが、東宮陛下の一言で落ちたのは弘徽殿様の方でしたが」

 「卯紗子、今日は遅い。明日詳しく教えてくれ」

 「は、はあ。かしこまりました」

 「杏子。今日はそれくらいにしとけ。明日、右近も連れてくる」

 「分かりました。おやすみなさい、柏陽兄様」


 今日でも大丈夫という言葉は柏陽に道を塞がれて言えなかった。

 解せぬ。
 「では、第一回後宮情報会議を始めます」


 次の日に会議をする予定だったが全員が寝不足だったため、三日ほどたった今日、飛香舎の中に主の杏子と女房の卯紗子、兄の柏陽と右近が集まった。


 「情報はまだ十分に集まっていませんよ、女御様」

 「でも一度話会うのは大切だろう、右近」

 「そうですよ、右近兄様。それでは......なにから話しましょう?」


 話したいことが多すぎて何から話せばいいのか分からない。


 「東宮主催の遊びで何があったのかに決まっているだろう」

 「兄上、妹である杏子は女御ですよ?」

 「わたくしはいつも通りの呼び名の方が良いです。それにここには呪具があるので、誰にも聞かれません」


 この場の中心には禍々しい形をした呪具が置いてあり、ある一定の範囲の外側では聞こえないようにしてくれている。

 近くを通った者に情報を聞かれる恐れがない。


 「杏子がそう言うのなら」

 「右近兄様が納得していただき何よりです。柏陽兄様には話ましたが、わたくしは雪子様を全力で守ることにしました」

 「どういうこと?」

 「そんなこと言ってたか?」


 いや、そんなこと言っていない。

 これは、柏陽がいない間に杏子と卯紗子によって調べた結果だ。


 「弘徽殿様は更衣でありながら帝の縁戚である淑景舎様、雪子様を排除しようとしています。更衣である淑景舎様は女御である弘徽殿様に抗うのは無理です。そこで、弘徽殿様よりも立場が高い杏子様が雪子様と弘徽殿様に気づかれないように守るのです」

 「今回の会議はそれだけではないんだよね?」

 「一応、申し上げますと、弘徽殿様の家が何か企んでいます」


 (そんなことよりも前者の方が大切なんですけど)


 「へぇ、弘徽殿様の家が......」

 「かなり重要なことだな」


 杏子の気持ちとは反対に柏陽と右近はこちらの方が大切のようだ。


 「弘徽殿様の実家よりも雪子様の話の方が大切なんですけど、弘徽殿様の実家が企んでいるって重要なんですか?」


 弘徽殿の家は強欲。

 権力を得るため、出世するため、大勢の者を消してきた、裏では黒魔術をつかっているのでは、など黒い噂が止まらない。


 そんな家の企てなんていまさら警戒する必要はない。


 「杏子、その企てってな~に?」


 何か不穏なことを考えている黒い笑顔を浮かべて右近は聞いてきた。

 これは、弘徽殿の実家に何かするに違いない。

 大体この顔になっている時にどこかの家が潰されてたという噂が流れてくる。

 いつもだったら、杏子は右近を止めるけど今日はしない。

 だって、雪子の扱いに少しだけ、本当に少しだけ怒っているのだから。


 「こちらに縁を作ろうとしていますね。後宮では弘徽殿様に従わない家は消されて、雪子様をさらにいじめるそうです。うふふふふ......。わたくしの呪いで少し痛い目をみてもらいましょうか......」


 ゆっくりと瞼を閉じて、頭に浮かんでくるのは呪文。

 ほんの少し痛い目にあえば......。

 そんなことを思っていると呪文の内容が過激差を増していく。


 「杏子様。完全に敵の目をしていましたよ?それに呪いをするのはお待ちください。まだ証拠がないですよ」

 「卯紗子の言う通りだ。帝から許可は取れているとはいっても、呪いは裏でやっていること。表立ってやったら、無知な者が真似して処刑台に向かう」

 「それは不味いですね」


 無関係な人には影響を出したくない。

 杏子の頭の中は元に戻った。


 「縁を繋ぐね......。私は無視ですね。李承殿、弘徽殿様の兄君には私の同僚が被害を合っていますので。無視するだけでも、計画は狂います」

 「それでは、わたくしは弘徽殿様の兄君からの文を燃料にしますね」


 (これは炭が節約できそう)



 「俺はとくに関りがないから、杏子の周辺の警護をしよう。そんな男からの文を貰わないように」

 「家柄だけで成り上がった李承殿の紙は燃やして当然です。変なことに巻き込まれます」


 決意表明と李承の扱い方を話してこれから、それぞれ動こうとする時、襖が開いた。


 「これは、杏子に柏陽に右近。今日は集まっているな」

 「「「帝⁈」」」


 慌てて、呪具を片して、頭を垂れる。

 仕事中の帝が後宮にやってくるなど思いもしなかった。


 「そんなに畏まらなくてもよい。今はそなたらの祖父としてやって来たのだから。みなで集まって何を話していたのだ?」


 返答に困る。

 弘徽殿の家の企てに対する対策を考えていました、なんて馬鹿正直に言ったら家が一つ消える。

 いや、弘徽殿派にも影響が及ぶから、消えるのは一つではない。


 「わたくしの生活を心配して来てくださったのです」


 心配ではなく、杏子からの収集で来た。

 でも最後は杏子の心配だった、と思う。

 ぎり嘘ではない。


 「杏子よ、願いは決まったか?何を望む?」


 そういえば、帝が何でも叶えてくれるって言ってたことをすっかり忘れてた。

 もちろん、杏子の願いは


 「後宮から出ることを望みます」


 後宮に来てそれなりに経った。

 あの時は入内した日だったから言えなかったが、もう大丈夫だろう。

 そう思って言ったのだが、帝は何かを考えて、柏陽や右近、卯紗子は頭を抱えていた。


 「分かった」

 「帝⁉杏子の願いとはいえ、これは」


 右近が帝の答えに苦言をしたが、最後まで言うことはなかった。


 「右近、これはじじと杏子の約束。約束をした以上破ることは出来ぬ。だが、杏子、それほど後宮の生活は合わなかったのか?」

 「合う、合わない、ではなく、わたくしは外に出たいのです。数多のところへ出歩いて、そこでしかない物を見る......。これがわたくしの夢です」

 「そうか......。それなら条件がある」

 「条件、ですか?」

 「その条件を達したら、願いを叶えてあげよう。お金を十分に渡すし、供もつけよう。だが、条件はそなたが決めよ。そうだな......期限は二日後だ。二日後にじじがここへ来るまでだ。それじゃあ、じじはここで。まだ仕事がたんまりあるから」


 言うだけ言って、帝は部屋から出た。


 「条件ですか......」


 条件が来るなど思いもしなかった。

 しかも自分で作るなど。


 「帝は離したくなさそうだな」

 「これは、私たちでどうすることもないね」

 「杏子様。雪子様や玲子様に聞いたらどうでしょう?お二人はこのお願いを知りません。知らないからこそ、良い案が浮かぶのではないでしょうか?」

 「確かに。でも、お二人の予定は大丈夫なの?今日、行っても良くのは......」

 「大丈夫です。先日、文を送ったところ、いつ来ても大丈夫です、という返事がきましたよ」

 「それは良かったな」

 「同じ女性同士、繋がることもあるかもしれないね。じゃあ、私はそろそろ仕事へ行って来ます。何があったのか後で報告を」


 右近は仕事をしに行った。

 大方、弘徽殿の家の出方を探りに行ったのだろう。

 もちろん、この時、報告をするようお願いすることを忘れない。


 「分かりました。卯紗、お菓子と琴と紙を準備して。雪子様のところへ行くから。柏陽兄様は、行くとき護衛がてら荷物を持って下さい。帰りもお願いします」

 「かしこまりました、女御様」

 「すぐに準備しますね」


 杏子の言葉で動き始めた。